「では、お先にお風呂いただきます」
「急いじゃダメだよー。ちゃんと温まってねー」
恋人を送り出し、想楽はなんともない顔で後片付けに戻った。二人がいない間に片付けてはいたものの、到底俺一人では終えられる量ではなかった。一体この部屋で何があったんだ。
「兄さん、床掃くからそこ退いて―」
「あ、ああ……」
想楽は淡々と観葉植物の土を掃き集める。俺が帰宅した時の状況から察するに、想楽が恋人を襲おうとするから抵抗していたんだろうか。それとも、大暴れする恋人を想楽が止めたのだろうか。……いや、どちらでも修羅場には違いない。乱入したタイミングが真っ最中じゃなかっただけでもありがたく思おう。
しかしやはり好奇心は消えず、俺は想楽にそれとなく視線を送るが、一向に気にする様子はない。カチャカチャと物を動かす音だけがリビングに響き、沈黙がだんだん辛くなっていく。
「……なあ、お前の彼氏、ヤバい人じゃないよな?」
問えば、想楽はキッと少し怒ったように視線を上げる。
「今回が特例なだけで普段は温厚だよー。誠実が服を着て歩いているみたいな人なんだからー」
「いや、話してて真面目そうな人だとは思ったけどさ…………はあ。ごめん、キャパオーバーかも」
「やわだなー。兄さんは」
「こっちの身にもなってみろよ。帰ったら家がひっくり返ったみたいになってて、弟が知らないやつ押し倒してて、かと思えば連れて出てって、帰ってきたら彼氏だなんて言い出してしかもその彼氏がアイドルで実家は茶道の家元ですって言われたら」
俺は一息でここまで言い、息継ぎをして、「そりゃ誰でもこうなるよ」と締めた。
「そう? 割とありきたりじゃないー?」
「お前なあ……」
文句の一つや二つぶつけてやろうと思ったが、先程の恐縮して謝り倒す青年の姿が浮かんで、それらはぐっと喉の奥に引っ込んだ。
「どうするんだよ、いろいろと」
アイドルもアイドルだが、茶道の家元だなんて。まったく未知の世界だが、一般家庭よりも遙かにお堅そうだ。同性とか以前に交際そのものにも目くじらが立つんじゃなかろうか。想楽も恋人も肩身の狭い思いだろうに。
「まあ、兄さんも気になるよねー。でも、九郎先生が僕のこと好きだから大丈夫なんだってー」
「惚気られてる?」
「まさかー。あ、こんなところにー」
想楽はソファの下を覗き込む。
ポーカーフェイスかと思ったが、どうやら本気で言っているらしい。丸め込まれているんじゃなかろうか。
「兄さんが心配するほどのことじゃないから大丈夫だよー。さっきだって、ちょっと喧嘩してただけなんだからー」
心配。その単語を聞き、そうか、俺は弟のことが心配だったのかと腑に落ちた。
「……いい人なのか。その……清澄さんは」
「何その質問ー。僕これから嫁ぎにでも行くのー?」
想楽は笑いながら返す。それで、想楽の笑った顔を見るのは久しぶりだ、と俺はまた気づいた。そもそも、顔を合わせて話すのもいつ以来だろう。この頃忙しくて家にも帰れないような日々が続いていた。
「いい人だよー。後で兄さんも話してみなよー」
拭き掃除の片手間ながら、穏やかに笑う。こんなふうに笑うやつだっただろうか。実家にいた頃も(実家だからだろうか)、心から笑うようなことは滅多になかったのに。
いつの間にか、俺の知らないうちに想楽は変わっていた。くすぐったいような寂しいような気持ちが沸き、想楽のことを近くに、けれど手の届かない場所へ行ってしまったように感じた。
多分、想楽の言葉に嘘はないのだろう。弟がいい人を見つけられたことを祝いつつ、それならばこちらからは何も口出しはするまいと俺は決めたのだった。