黎明 暗く静まり返った空気、まだ太陽は上がろうとしていない頃。足音を立てないように息を潜めて階段を降りる。1階の台所にたどり着くと大瀬は冷蔵庫を開け、タンブラーに麦茶を注いだ。ピッチャーを戻して冷蔵庫の扉をゆっくりと閉めたところで、かちゃ、と食器の鳴る音がした。音のした方を見やると背の高い人影があって思わず息を呑む。その立ち姿から恐らく天彦であろうと推測されるその人物はまだこちらに気づいていない。今なら確実に気が付かれないまま部屋に戻ることができるが、声をかけるべきか、どうするか迷っているうちに呼び掛けが降ってきた。
「大瀬さん……ですか?」
はい、と一言答えればいいものを狼狽しているうちに天彦はその振る舞いからそれが大瀬であると察したようで、ふふ、と嬉しそうに薄く笑って冷蔵庫から牛乳を取り出した。どこからか大瀬には嗅ぎ慣れない甘い香りが漂って来る。
「いつもこの時間まで起きてらっしゃるんですか?」
「う……絵を、描いていて」
興が乗ってきて明け方まで制作を続けることは大瀬にとっては珍しくなかった。いつもならこの時間には誰も来ないことを知っていて台所に来たのだし。
「セクシーじゃないですか。……いつか僕のことも描いて欲しいです」
そう言ってから、「以前のような体調の悪いときでなければ」と天彦は付け加えた。あの時はついどさくさに紛れて言ってみたことだったが、しっかりと腰を据えて彼を題材に絵を描くのは無論やぶさかではない。バランス良く鍛えられた身体、少し癖のある髪、涼しげでいながら常にどこか熱を持った瞳。自分のような人間がその魅力を描くのはおこがましいと思うと同時に、自分であればその色香を見出して表現することができるだろうという自信も大瀬にはあった。ざわざわと腹のあたりで考えていることをどう言ったものかと口をつぐんでいるうちに、天彦が話し出す。
「しばらく空けてましたが、さっき戻ったんです。本当は皆さんが起きている時間に帰ってきたかったんですが、都合が悪くて」
目が慣れてきて、天彦が穏やかに笑みをたたえてこちらを見ているのがわかる。グラスに牛乳を注いで、一気に飲み干す。また甘い香りが漂って来る。喉仏を何度か揺らして、グラスを口から離して息をつく。天彦自身は全く距離を詰めて来ないのに、何かに塞がれる気がして大瀬は少しだけ後ずさった。
「描いてもらうなら何がいいでしょうか、やっぱり全裸がいいですか? 服を着ていた方がセクシーですよね……露出の高い服でも着てきましょうか、ああ、いっそ大瀬さんに縛ってもらうなんてのもありだな、なんて」
やや酔っているみたいに天彦が宙を仰いで深い紫の髪を揺らす。何かがおかしい。いつものように押し付けられる悪戯じみたものではない、抑え込まれた知らない空気が滲んで部屋に充満している。大瀬はいつのまにか自分が息を切らしていることに気付いた。心臓が喉元まで上がってきている感覚、それを悟られないために唇が薄く開いて浅く鈍く呼吸をしている。
「縛っていいんですか」
引きずり出された。口元を舐め取られる心地がした。不意に出てしまった自分の言葉に驚いて大瀬の身体が小さく跳ねる。
「……勿論。大瀬さんもお好きですか?」
天彦が目元をほんのり赤く染めてこちらに微笑む。相好は普段見ているそれと変わらないはずなのに、その瞬間身体の周りの空気が絡みついて来るような感覚を覚えた。明らかに違う。こんなに甘くてぬるい空気は知らない。どろっとしたアイスブルーの瞳が大瀬を見ている。こちらを捕まえて突き刺して受け入れて咥え込んで離さない明らかな劣情、雄と雌をかき混ぜてその身に纏った生き物が今、目の前に立っていることだけがわかる。何故、何が起きている? 身体が動かない、うまく声が喉を通らない。力を振り絞って小さく頷くと、天彦は満足したように笑って牛乳を冷蔵庫に戻し、グラスに軽く水をかけてからシンクに置いた。
「ああ……嬉しいです、大瀬さん。また声をかけてください、今日はお互い寝ましょう」
おやすみなさい、そう言って背を向けて階段へ向かう天彦の残り香に導かれるようにして、大瀬も遅れて歩き出した。
空はもう明るく白んでいた。