私だけじゃない きっかけは本当に小さな、なんてことのない親切だった。きっと吹原は覚えていないだろう。
二年生に上がって最初の定期試験。一夜漬けで作ったノートをぎりぎりまで見返していた私は、試験が始まってから消しゴムがないことに気がついた。筆記用具は一通り机の上に出しておいたはずなのに。カンニングと思われない程度に辺りを見回しても、床に落ちている気配もない。
今にして思えば、手を挙げて先生に説明すればよかったのだ。事前に確認しなかったことを叱られるかもしれないけれど、消しゴムを探すくらい許してくれただろう。でも、しんと静まり返った教室で目立つのは恥ずかしくて、試験時間が過ぎていくことにも焦った私は、とにかく目の前の問題を解き始めてしまった。
いくら気をつけていても、書き間違いを全くしないなんてことはできない。慎重に進めるあまり、時間の配分もどんどん狂っていく。今さら言い出す機も逃して、たぶん私は落ち着きのない動きをしていたのだろう。
試験監督の先生が顔を上げ、こちらを見た。不正を疑われたのかもしれない、とどきどきして俯いていると、その足が一直線に近づいてくる。
先生はそのまま、すっと真横を通り過ぎて何かを拾い上げ、私の机に置いた。なくなったはずの消しゴムだった。
いつの間にか、やっぱり落としていたのだ。慌ててノートをしまったときかもしれない。おそらく変な弾み方をして、私から見えない後ろのほうに転がっていた。――でも、どうして先生は気がついたのだろう。明らかに何かに反応した様子だった。
残りの時間でなんとか問題を解ききって、試験が終わってから友人に面白おかしく報告した。「消しゴム落としちゃってさあ」と笑い話の切り口で。
「ああ、私見てたよ。吹原が手挙げてた」
友人がさらりと言うのを聞いて、「吹原?」と私は首を傾げる。
「うん。いきなり手を挙げたから何かと思ったら、先生に消しゴム拾わせてあんたの席を指差してさ。吹原、斜め後ろの席でしょ。消しゴム落とすの見てたんじゃない?」
「え、でも……落としたのってたぶん、試験が始まる前だよ。あんな時間が経ってから気づいたなら、なんで私のだって分かったんだろ」
「よっぽど挙動不審だったんじゃないのー? まあ、そりゃその状況なら焦るよね」
友人がけらけらと笑う。この言い方だと、彼女は別に私の素振りがおかしいとは感じなかったのだ。吹原と同じように、私が目に入る位置にいたのに。
試験中なのだから当たり前だ。誰だって問題用紙と睨めっこしていて、周りに気を配っているわけがないし、その必要もない。それでも、視界の隅にそわそわとした仕草が映り、消しゴムを見つけて状況を察したのだとしたら、手を挙げてくれたのは優しさだろう。
吹原蒼。名前と顔は知っているし、挨拶くらいなら交わしたこともある。おとなしい人だな、という第一印象に、たまたまにしてもありがたいなあと感謝が加わった。
それは偶然ではなく、彼がよく気がつく人なのだと知るのはもう少し先だ。
*
「――ありがとう、吹原」
二年生も半ばを過ぎて、吹原とも前より会話をするようになった。といっても、グループ学習で一緒になったとか、係の用があるとか、そういうときだけ。
「あのときどうして手を挙げてくれたの?」とは尋ねそびれ、お礼も言えないまま、別のことで機会があるたびにその分までのつもりで「ありがとう」を伝えた。この頃には、もう分かっていた。どうして、も何も理由なんてない。困っている誰かがいたら、当然のように吹原は助ける。いつも周りをよく見ているから、人よりも気がつくことが多いだけだ。
真面目だから無視できないのだろうし、私も少しくらい何かできるかなあと目で追うことが増えた。本人は特段、大したことではなさそうにしているけれど。
「……ねえ、もしかしてさあ」
日直の仕事を片づけて席に戻ると、待っていた友人たちが意味ありげな視線を寄越した。
「好きなの? 吹原のこと」
「は!?」
自分の声が大きすぎて思わず口を押さえ、急いで背後を振り返る。よかった、吹原はもう教室にいない。放課後はまっすぐ部活に向かうのだ。
「やめてよ、急に何言い出すの」
「だってその反応は……ねえ?」
ねえ、ともうひとりの友人が受ける。私が吹原と話しているとき、やけにひそひそしていたけれど、この話題で盛り上がっていたのだろう。
「い、いきなり変なこと言うからじゃん」
「今だって嬉しそうにお喋りしてたしさ」
「それは日誌を書くために、男子が体育で何やったか訊いただけで」
「最近、よく吹原に話しかけてるよね」
「だって席が近いから……」
だんだん声が小さくなる。何をこんなに、必死になって言い訳しているのだろう。やましいところなどない、取るに足らない気持ちひとつがあるだけなのに。
「隠さないでいいよお。私たち、めっちゃ応援するよ?」
友人たちが笑みを見せ、これが言いたかった、とばかりに頷き合った。ふたりでその相談をしていたのかもしれない。心遣いは嬉しいけれど、困惑のほうが勝った。
「だから、本当にそういうのじゃないって」
帰ろ、と告げて鞄を肩にかけると、さすがに伝わるものがあったらしい。「えー、そっかあ」「でも、本当に好きになったら教えてね」と軽く流してくれて、心のどこかでほっとした。
――だって、別に、私だけじゃない。
吹原は誰にでも誠実で、誰にでも同じことをする。どこか人を踏み込ませないところがあるけれど、そういうときは自分からすっと動く。彼にとってはそれが普通のことなのだ。
――私だけじゃない。
黙っていると不機嫌そうに見えるけれど、怒っているわけではないこと。半年も同じ教室にいるのだから、きっとみんな知っている。弓道に打ち込んで、真摯に部活を頑張っている、とか。友達を相手にしているときの、意外にざっくばらんな話し方とか。
――私じゃない。私はたぶん、吹原の友達にすらなれていない。
ひとりが好きそうだから、あまり話しかけられたくないのかな、と思うこともある。弓道部に、弓以外の何かがあることに、ぼんやりと勘づいてしまった。その人と話すとき、吹原の声がすごく優しくなることにも。
この気持ちは、恋ではない。だってひとつも特別がない。名前のない私の、どこにでもある、ささやかな日常だ。
ただ、淡く、淡く、仲良くなりたいなあと思うことの、それだけの関係だ。