【タマトリバチ】都内某ホテル2階ラウンジ。珠はそこにいた。
カウンター席で時間までの暇つぶしにと、赤ワインを注文したところだった。すっと男が現れ、空いたカウンター席で珠の隣に腰掛けた。男はスーツ姿で一見ただのサラリーマンだが、年の頃に似合わない高価な時計やブランドの鞄を持つあたりタダのサラリーマンでなさそうだ。
「待たせたかな」
「いえ、私が早く着きすぎました。お気になさらず。……“鳥の羽”ですね?」
珠は合い言葉を告げ、相手を確認した。かなりの大男だ。一般人のいるホテルで帯刀は目立ちすぎるので、刀はカウンターの下に立てかけている。ここでこの男に人目を憚らず捕まれば、珠に抵抗の余地はないだろう。
「鳥羽組のもんだ。お前のとこのボスは相変わらずか」
「ええ。ボスはそちらを信頼していますので、こうして私がご挨拶に伺ったのです」
「ふ、そうか」
男は笑って、珠が差し出した契約書に目を通した。嬢の組織で購入した武具の購入権利と守秘義務の契約だ。
「これを俺らが守るとでも?」
「“信頼”していますので」
珠は強く言い切った。男は懐に手をいれ、内ポケットから小さな袋を取り出した。中にはカラフルな錠剤が3粒入っている。
「……どういうことですか。何のおつもりで?」
珠は中身をチラリと確認すると、緊張感を持って聞いた。珠は本物のクスリを見るのは初めてだったが、見ればすぐにわかった。男は不気味に笑って言った。
「これの取引は含まれてないのか」
男は袋の上からクスリを指でつつく。
「えぇ。含まれていません。……このお話はボスとされていますよね?」
珠は嬢との会話を思い出した。前回嬢が鳥羽組と会合した際にもこの話題は上がったらしい。とはいえ、ウチにそのようなルートはないし、1つの組織のために扱うつもりもない、と断った旨を聞いていた。そして、嬢はこの話を伝えるときに「また契約時に持ちかけるかもしれないが、とりあうな」とも言った。珠としても、この話に乗るわけにはいかないのであった。
「そうか、残念だな……」
この言葉と共に、珠の腹部に銃口が当てられた。テーブル席の客には、珠のジャケットがジャマして見えないのだろう。珠は下唇を噛んで、男を睨んだ。
「どういうおつもりですか。ここで撃てば貴方も逃げられませんよ」
珠の中で最大限冷静に言った。裏腹に男は笑った。
「どうかな、ここに何人ウチの組のもんがいると思う?」
珠は周囲に客が増えたことにハッと気づいた。警戒が欠けていた点、珠は自分の至らなさに奥歯を噛み締めた。珠にも護衛のため数人の構成員がいたが、席は遠い。契約成立のために「組が不審がられている」という不都合は隠さなければならないからだった。今回はそれが裏目に出た。
「撃つ必要が感じられません」
「交渉決裂が理由だ。それとも命乞いか?悪いがお前の利用価値は体くらいしかねぇし、それじゃ足りん。俺らはお前を生かしちゃおけねぇんだ」
珠はどうにか注意を他のものに引けないか、男と目を合わせたまま考えていた。刀を取るだけの時間があればいい。突発的な何かがあれば。
刹那、視界の端から黒い影が伸びてきた。その影は瞬く間に銃を蹴り上げて、そのまま男の脇腹を蹴り飛ばして椅子から落とした。
「うるせぇよ、酒が不味くなる」
影の正体であるスーツの女が不機嫌にそう言った。
男はうが、と唸り床に伸びた。この様子に気づいた周りの客は悲鳴を上げて逃げ出し、ホテルは騒然とした。組の仲間が周囲に増えたというのは、男のハッタリだったのだ。
「アンタ大丈夫?」
振り返った女が珠と目を合わせた。女のセミロングの髪がふわりと揺れる。緑の2本のメッシュが目立つ前髪の隙間から、右目とは異なる色の瞳が珠を見つめていた。その姿につい息を飲んで、珠は言葉を発しなかった。すると、女は珠の座っているカウンター席をチラリと確認した。
「なんだ、おねーさんもそんなにいい人じゃなさそうだね」
女はふっとイタズラっぽく笑った。珠は急に今までのことが恥ずかしくなり、声を上げた。
「な、なにを言う!これしき1人で……私は失礼する!」
手早く荷物をまとめて珠は席を立った。そして脇目も振らず出口へ直進した。そのあとを数人の護衛が追って出ていった。女は首を傾げて立ち尽くしていた。ホテルの警備が駆け込んできたのはこの頃だった。絡まれていた女の子を助けるつもりで来たが、銃を持っていたので咄嗟に蹴飛ばしたと説明して、女は男が運ばれるのを見届けた。
「なんだったんだったく……こっちも仕事の途中だったのを助けにいったのによ」
女はブツブツと文句を言って、もとのカウンター席に置いたままの自分の荷物を取り、ウィスキーの代金をコースターに挟むとホテルを出た。荷物の1つである箱には「萬研社研究所 スズ宛」と書かれている。それを路上駐車していた自車の助手席に置くと、女は車を発進させた。
医師である知人の荷物配達が、今の女の仕事だ。