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    niichiga222

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    niichiga222

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    珠の過去編です…早すぎるって!!!!すげ〜〜よ…

    【艱難、汝を珠にす】望まれない生だったのかもしれない。十数年の人生で、繰り返し繰り返しそのことについて考えていた。
    生家は都心近郊のアパートの一室で、物心つく頃には父親のいない所謂片親だった。唯一の肉親である母親は夜遅くまで仕事と言い、帰ってくるのは決まって21時を回っていた。その頃、私は食事入浴を済ませていつも寝ていた。食費は月末頃に、1,000円札が数枚に幾つかの硬貨が玄関のがま口に知らぬ間に入っているのだ。なんとか節約しても、がま口に1,000円札を残しておくと、「金あるじゃん」と言って支給額が2000円ほど減る。だから、私は節約したお金はランドセルの中に仕舞い込んで隠すようになっていた。齢6つの時に見付けた、なんとか生き抜く術だった。こうしてなんとか胃に食べ物を入れ、言いつけ通り5分での入浴を済ましてから20時には空腹を誤魔化すように寝入っていた。しかし、入眠するも束の間、機嫌の悪い母親は寝ている私の体を蹴って起こしてきた。酒の匂いがする母親はいつも激昂していて、なんでできないんだ、出ていってやる、はやく死んでしまえ、などと泣きながら叫んでいた。私はこの時間が早く過ぎるように、ただうずくまってごめんなさい、と繰り返すしかなかった。これが1番収まりが早いのだ。泣き疲れて壁に持たれかかりしゃがんだ母親はいつも寂しそうで、壊れそうで、その母親を見るのが1番辛かった。そして、部屋の隅でうずくまる私も、気づいたらうとうととしてそのまま朝を迎えることも少なくなかった。朝、目覚めると母の姿はなくて、体には布団が掛けられていた。母のことは好きだった。年端のいかぬ子に、母親の善悪についてわかることではなかったし、なにより時折触れる優しさがいつも嬉しかった。

    ある日、母はいつもよりやつれていた。
    珍しく母が早く帰宅したので、私は事情も知らず喜んで母の作る夕食を待っていた。ただ、その力無い姿を見ていてつい、お母さん?と声をかけてしまった。
    母は、信じられないくらいキツい目をして私の髪を掴んできた。そしてそのまま床を引き摺られてキッチンに投げられた。母親はあの日、話が聞ける耳をもっていなかった。力任せに腹を蹴られて、むせた。痛みにうずくまっていると髪を掴まれて頭を壁に打ち付けられた。ドンドンと音が響いたので母親は手を離した。今考えれば、隣室に聞こえるからだと思う。
    小学生の私は酷く混乱して、泣き出してしまった。お母さん、なんで、と聞くも母親は私のことを攻撃するのをやめない。腕を引っ張られて床に倒れ込むと、母親はまた私の体を蹴りつけて踏んだ。夕飯の準備で火にくべていたフライパンを手に取ると、蹴られて裾のめくれた私の脇腹へ思い切り殴りつけた。熱せられた油が飛び散り、足の方まで飛んだ。経験したことのない痛みに私はついに絶叫してしまった。体の異常信号に、動くことができなかった。呼吸が乱れながらも必死に肺に酸素を入れると、正しく母親は包丁を取り出していた。それを見てしまった私は初めて、母が怖いと思った。目から大量の涙が出てきた。
    「お前なんかいらなかったのに!」
    母は金切り声でそう言った。母も泣いていた。お母さんはずっと、私のことが嫌いだったんだと、その瞬間に痛いほどわかった。そして、嫌いな人間に今まであんなに優しくしていたのかと思って、母へ申し訳ない気持ちになった。
    「お母さん、ごめんなさい、ごめんなさい……今までありがとう」
    私は泣きじゃくりながら母に言った。これが最期になるなら、キチンと言わなくてはと思っていた。しかし、それを聞いた母はさらに泣いた。私には何故だかわからなかった。そして、母は半狂乱になって何か叫びながら包丁を勢いよく振りかざした。母は、自分の腹を刺していた。母の血が私の服に飛沫を飛ばした。母が何を伝えたかったのかはわからなかったが、そのまま倒れ込んだ母親を見捨てることはできるはずもない。腹の火傷が痛むまま、玄関を飛び出した。誰でも良い、母を助けてください、と叫びながら。

    その後、母親は一命を取り留めたが、1人飛び出した私の姿に虐待を認めない大人はいなかった。
    後に調べてわかったことだが、母は、父と別れてから重度の育児ノイローゼとなり、私を傷つけることを避けるために昼夜外出していた。度々精神科に通っていたようだが、あの日の頃には希死念慮も強くなって、所謂心神耗弱の状態だった。
    その後、すぐに私は施設に引き取られ、母親とは疎遠になってしまった。



    施設で育ち数年。私は中学生になった。今でもあの日のことは思い出して震える。夢に出てくると、汗をぐっしょりとかいて飛び起きた。きっと母親も同じだ。私が生まれなければ母は苦しまずに済んだのに、と自分の生についてずっと考えていた。
    「ケンちゃん、なにしてるの」
    「ケンちゃん見て見て~折り紙~!」
    考え事をしていると、施設の子が何人か集まってきた。ケンちゃん、というのは私のあだ名だった。中学では剣道部に入り、竹刀を振ることに没頭した。施設に帰っても500回の素振りを日課とし、昨年の市内大会で賞をもらった。そんな姿を見てか、いつの間にか子供達は私のことを「剣」を持つ「ケンちゃん」と呼んでいた。この子達の存在は、この施設に入ったことの大きなメリットだった。過去のことを思い返して、その後悔に囚われそうになるすんでで、この声に呼び戻される。きっと、この子達はそんな深い意味でしたことではないだろうが、それが私の固くなった心を和らげてくれた。
    あの日の自分と同い年くらい。この子達には、悲しい思いをさせたくない。
    「ん、ごめんね、ちょっと考え事。折り紙で鶴折れるんだね、すごいね~」
    私は、小さな手に揺蕩う鶴を見せてくれた子の頭を撫でて、皆の遊び場へ戻った。戻れば、宿題をやる子、テレビを見る子、絵を描く子とで賑わっていた。私が部屋に入るや否や、勉強をしていた子が顔をあげた。
    「ケンちゃん!分数わかんない!」
    「クロ君だめ!マナが先なの!!ね!」
    この養護施設では私が最年長だ。ありがたくも、何かと頼りにして貰い、この子達の姉のような思いをさせてもらった。
    勉強や遊びの相手をし順番に風呂を済ませると、職員が消灯を合図して就寝時刻だ。私は小さな子を寝かし付けてから、自分の部屋に向かう。
    「あぁ、ごめんねいつも」
    職員室から出てきた施設長に声をかけられた。ちょうど、低学年の子達を寝かせて部屋から出てきたところだ。
    「いえ、いいんです。この子達は私の大事な家族ですから」
    自分の部屋に戻りながら施設長と少し話した。
    「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ。将来有望な保育士さんね」
    「い、いえ……私はそんな」
    「あら、ごめんなさいね。どんな未来だったとしても、貴方は気配りのできる温かくて立派な大人になれるわ」
    施設長は微笑んだ。私は照れくさくて、前髪を整えるふりをして顔を隠した。施設長とは、自室へ向かう階段の前で別れた。明日もこんな平和な世界にいれることが、今の私にとってこれ以上ない幸せだ。



    この日もいつも通り中学に通っていた。今日は部活がある。竹刀を触ると気持ちが思考が全て集中する。だから部活は大好きだった。同期とも仲良くしてもらい、大会までの2か月を共に闘うつもりだ。
    部活が終わると、外は夕暮れ色に染まっている。部員数人と途中まで一緒に帰って、数分歩くと施設だ。帰るとすぐに運動着に着替えて玄関横で日課を始めた。シュンシュンと言う竹刀の音が気持ちいい。暫く打つと、あたりは暗くなり、折り返しの頃には真っ暗になった。その頃、施設長はこちらの様子を気にしていた。
    「あんまり夢中になるのはいいけど、そろそろ戻ったら?」
    「施設長……ありがとうございます。でもあと193回なので」
    私は一礼した。短めのポニーテールも施設長へお辞儀している。施設長は「ほどほどにね」と忠告して中に戻った。また竹刀を握る手に力をこめて、集中させた。
    391回目の頃だ。目の前に黒い車が停まった。施設に何か用かと思って、竹刀を下ろして端に寄った。すると、降りてきた男達は私の方に向かって歩いてきた。2人の男が私の体を丸めて持ち上げると、もう1人はトランクを開けて私を投げ入れた。トランクはすっぽり体が収まるサイズで、投げ入れられた先にもう1人の男が後部座席から手を伸ばしていた。その男に腕を押さえ込まれて、私の手足は縛り上げられ、口は雑に塞がれた。その間2分もなかった。私はあっという間に誘拐されたのだ。



    「ボス!!私は反対です!!このような暴挙が許されるはずがない!」
    スラリとした足に、高いピンヒール、黒いスーツ姿の銀髪の女がガタン!と音を立てて席を立った。
    周囲の大人達は、この女を複雑そうな顔で見ていた。
    引き留められたボスはチラリとも女の方を見ずに部屋を後にした。大人達もボスに続いて部屋を出た。そして、部屋に1人になると、今度は部屋に1人入ってくる者がいた。
    「よぉ……外まで聞こえたぜ」
    長身で細身のスーツ姿の男のようだが、その実この声の主は女である。
    「兄……」
    声をかけられた女、こと嬢は、やるせない顔で兄を見た。2人とも齢は20に満たない。
    「とんでもない会議だったよ。人身売買だ。それも子供で女を狙うって。今日のは実行役を決めるためだったらしい」
    嬢は立ったまま状況を説明した。兄はそれを聞くと舌打ちをし、ガシガシと頭をかいた。幼い頃金に染めたきりの短い髪が揺れる。
    「そりゃお前だけ呼ばねぇよ。親だもん」
    「我が父ながら、ご立派だよ。心の底から大嫌いだ」
    嬢はこの会議に無理矢理出席していた。最近の組織運営に関して何かと良くない噂を聞いたからだ。この組織は、武器輸入や金貸しなどで利潤を得る表社会には向かない会社である。この組織のボスの娘である嬢は、訳あって父親と勘当状態だった。そんな中で、最近の父親の様子が以前とは別物になりつつあることは肌感でわかっていた。
    嫌気がさした嬢は運営方針の不一致を理由に、父親の動向に目を光らせつつ、別組織をこの母体の元に構えようと企てているのだった。
    「ボスはいつ実行かまでは言わなかった。早ければ今日だ」
    嬢は自宅兼オフィスの長い廊下を速歩きで進んだ。兄も少し後ろをついていく。
    「ただ、実行役だけは教えてくれた」
    嬢は暗く重いトーンで言った。
    「絶対止めてやる」
    そして、不気味に笑った。



    右折、停車……信号か。直進……左折、右折……また左折。……暫く直進だ。
    恐怖の中でも、車の動きを察知することができた。私にこんな能力があるとは、と自分でも驚かされた。動きを察知するのは剣道にも似ている。視覚が遮断されることで、より他の感覚を研ぎ澄ますことが出来た。
    だいぶ走っているが、ガタガタとした動きがない。山道ではないようだ。海の方だろうか。工業地帯らしい音がする。
    子供をさらって内臓を売るビジネスがあるとかなんとか、クラスの男子が騒いでいた気がする。そんな都市伝説、本気にしていなかったが、今はその話が真実味を帯びて私を苦しめた。逃げれるだろうか。隙を突いて走れるだろうか。雑な縛り方のせいで、手のガムテープは汗で取れ、足のロープを解くことが出来た。あとはトランクが開いた瞬間に隙間から逃げ出すだけ。大丈夫。できる。できなきゃこの人達に切り刻まれて死ぬんだ。
    車は暫く直進をしたところで停まった。トランクが開いた時に飛び出せるように手足の位置を調整しながら、無抵抗なふりをしていた。窓は暗いが透けて見える。下手を打たないように、1回キリの命をかけた徒競走に神経を研ぎ澄ませた。

    カチャ、ガコッ

    音が鳴った瞬間、飛び起きてトランクを両手で押し上げた。向こうにいる男達は独りでにトランクが開いて呆気にとられていたようで、押し上げたトランクから顔が合ったがぽかんとしていた。そのまま突っ立っている男達の隙間へ片足を伸ばして、勢いよく着地、からのダッシュ。想像通り、着陸した場所は海沿いの工業地帯だ。貨物置き場として利用されているのか、車の動きやすいような広い道に私は飛び出していた。もし銃などの火器類を持っていたとしたら――?
    その予感は的中した。後ろでなにか構えた音がした。これは、非常にマズい。

    さっと横のコンテナに身を隠すように車線変更、そして直進、また右、右と少しずつだが内陸へと向かって走っている。もう息は苦しいが、背後をドンドンという非日常的な音を聞けば足が止まることはない。絶対絶滅だ、こんなことなら、また母と暮らせば良かった!!そう思った時、ギヤアアァとブレーキ音を立てながら車が猛スピードでスリップして、私の前50㍍で停まった。そしてその車は助手席から1人降ろすとそのまま私の方へ向かって先程より速いスピードで突っ込んできた。
    轢かれる!!
    咄嗟に横に逃げた私の目の前を黒塗りの車が猛スピードで横切った。そのまま私は目の前で起きている光景をただ眺めるしかなかった。黒い車は、私を乗せてきた車の方へそのまま突っ込んだ。聞いたこともない爆音が夜の港に響いた。そして、その少し前に運転席の方から1人転がり落ちていたらしく、受け身の姿勢でその燃えさかる車を見ていた。私も、私をここへ連れてきた男達もきっと同じ顔をしていたであろう。向こうに見える男は皆唖然としていた。
    受け身を取っていた人影が立ち上がり、男達の方へ歩み寄る。両手を胸の横へ突っ込む素振りが覗える。それを見たからかなのかわからないが、間もなく男達は足早に逃げていった。
    「大丈夫か」
    真後ろで女の人の声がして反射的に振り返った。港の屋外用ライトに照らされたその人は、とても美しかった。
    「怪我はなかったか?すまなかったな、いつもちょっと手荒いんだ」
    女の人はこちらにゆっくり、歩いてくる。ヒールの音がするたびに、空気が少し緊張する。
    「な、なんだったんですか。あなたたちは誰なんですか」
    「すまないが、上手い説明はできない。私たちはアイツらを追っていて……そこで女の子が誘拐したのを目撃した。あとは、思い付きだ。そこにいる奴のな」
    女の人がそこと目線を動かしたので、そちらを振り返った。先程影として見えていた人だった。スーツを着ていて、足首を痛めたのか足労りながら現れた。
    「あーマジで俺死んだと思った。飛び降りるとき捻ったわ」
    「ご苦労だ、兄」
    兄と呼ばれた人影は、私と目を合わせて少し微笑んだ。逞しいながらも少し柔らかい雰囲気を持つ人だ。
    「もう暫くは運転したくねぇよ、無免だし」
    「無免なんですか!?」
    私は咄嗟に声が出た。思ったより腹から出た声に2人とも少し吹き出したようだった。
    「ふ、そうだよな、それが普通だよ……なぁ兄」
    「仕方ねぇもん!嬢にハンドル握らせられねぇし」
    女の人は、嬢と言うのか。随分と仲の良いようで、この2人の会話は少し面白かった。
    「あ、あの……それで、私は」
    少し夜風が冷たくなってきた。着てきたジャージでは寒くなり、私は切り出した。兄さんは嬢さんを見た。
    「腹減ってないか?我々もこれから夕食なんだ」
    嬢さんは表情を変えずに言った。そこにタイミングよくお腹が鳴った。私の腹の虫だ。よく考えれば給食から今まで何も口にしていない。今何時だかもわからない。というか、今なんでここにいるんだっけ?
    そう思ったら、急に、力が抜けた。



    気づくと知らない布団で寝ていた。ふかふかで、柔らかくて、女の人の匂いがする。隣の部屋から、カチャカチャと調理音がした。寝かしにくかったからか、ポニーテールは解かれていた。布団から起き上がって、戸を静かに開けると、嬢さんがキッチンに立っていた。アイランドキッチンは整頓されてモデルルームのようだ。すぐ近くに何人座れるかわからないくらいの大きいソファ、見たことのない大きさのテレビ、それからその後ろに広がる天井から床までのガラス窓に映る煌びやかすぎる夜景……どこをどうとっても殿上人の暮らしだ。
    「あぁ、起きたか」
    嬢さんがフライパンを持って振り返った。机には既に何品か作られていて、どれも食欲をそそる。
    「好き嫌いはわからなかったからとりあえず作ったが……さて、口に合うかどうか」
    コンロの火を消しながら嬢さんは言った。手際よく、炒め物が器に盛り付けられる。嬢さんに促されるまま、私はダイニングテーブルへ腰掛けた。椅子に座ると、様々な料理の香りに包まれ、またお腹が鳴った。照れ隠しのために、音に被せて嬢さんに聞いた。
    「あの、さっきのお姉さん……兄さんは」
    そう聞かれた嬢さんは、少し驚いた顔をしていた。この人も驚くことがあるのか、と私も驚いた。
    「いや、すまん。アイツを女だと見抜いたのはお前が初めてでな……。兄は帰らせたよ。その方が落ち着くと思ったからな」
    嬢さんは最後のおかずと、ワイングラスとボトルとを手に引っかける形で持って椅子に座った。
    「好きなだけ食べていい。残してもいいからな」
    嬢さんは慣れた手つきでワインを注いで、グラスに口を付けた。透明度の高い白ワインが深紅の唇に触れる。……食べて良いのだろうか?この人がどんな人かわからない。まだ味方と決まったわけではない。また私を監禁して、油断したところで何かされるかもしれない。私は、ぺちゃんこの腹を撫でた。その時、いつかの古傷も、服の布越しに、なぞった。どうせ死ぬなら。
    私はフォークを取って、手前にある肉料理を口に運んだ。柔らかく煮込まれた豚は、数回噛むととろけてしまった。
    「良い判断だ」
    嬢さんは、自分のフォークを持ったままそう言った。それから、食事をしながら嬢さんと少し話した。互いの出生や、今日のこと、兄さんのこと。不思議と恐怖心は消え去っていた。きっと嬢さんの聞くのが上手いのだ。あまり笑わない代わりに、たまに出る微笑みが嬉しい。だからつい話してしまう。それの繰り返しだ。
    暫く歓談してから、嬢さんは、私の隣の椅子に座った。そして、帰してはあげられないと、嬢さんは確かに言った。嬢さんの所属する会社の内部抗争は思ったより複雑で、一般人であっても、巻き込まれれば2度と表社会には戻れない。それが私だった。嬢さんは、私には戻る家があること、学生であることを考えれば、非常に心苦しいと付け加えながら私に究極の2択を迫った。
    クロとして生きるか、シロとして死ぬか。
    即答などできない。目は明らかに泳いでいたと思う。決めるにはあまりに早急すぎた。
    「私としては、是非入社して貰いたい。お前の能力は群を抜く。剣道で培われたその集中力、判断力、全てが弊社に必要なものだ」
    嬢さんは私から目を離さないでいた。そして、また話した。今度は少し申し訳なさそうな顔になった。
    「すまないな、本来その年で決められることではないから。お前から家を奪って、今日からここで働けと言うのは、赤子の手を捻るほど簡単だ。ただ、お前はその理不尽さを感じる力がある。だから決めさせたい」
    嬢さんは、10近く年の離れた私に、真剣に向き合っているのがわかった。そして、同じだけの優しさが隠れていることも。
    「剣道は、続けられますか」
    私は緊張してカラカラになった喉からどうにか声を絞り出した。嬢さんは、1度ゆっくりと瞬きをして答えてくれた。
    「もちろんだ。勉強もしていい。お前がやりたいようにすればいい。入社すれば、ここがお前の帰る家だ」
    嬢さんは柔らかく微笑んだ。まるでいつかの母のような眼差しだ。私は、同級生の言う『運命の人』に出会ったのだと思う。証拠に、胸は高鳴り、嬢さんと目が離せない。
    「わかりました。ここで働きます」
    嬢さんは、先程より深く微笑んだ。そして、私の頭を数回優しく撫でた。
    「怖い思いをさせたな」
    意図せず、両目から涙が零れた。そしてわかった。私が欲しかったのは、家族ではなく母のような愛だったのだと。
    嬢さんは、泣く私を見てそっと抱き寄せた。その体温が夜風で冷えた心にじんわりと熱を移してくれた。温まって柔らかくなった持った心は、感情を取り戻し、私は声を出して泣いた。色々な気持ちがごちゃごちゃになって、自分でも泣いた理由はわからない。

    落ち着いた頃に、嬢さんは風呂を沸かしてくれた。ガラス張りで大きなバスタブ。風呂に肩まで浸かると、色んな疲れが湯に溶けた。これから、私はどうなるのだろうか。想像もつかない世界に飛び込んでしまったことに、今更ながら身震いする。
    風呂を出ると、ふかふかのタオルと嬢さんの匂いがする部屋着が用意されていた。白い大きめのTシャツだ。それを着てリビングに戻ると、嬢さんはリビングで酒のつまみを作っているようだった。先程用意されていた料理達は、品数を考慮してか2人で食べるには丁度良く、食べきってしまった。
    「まだ何か食うか?」
    嬢さんは、振り返って言った。リクエストがあれば作るぞと言いながら、カリカリに焼いたベーコンを小皿に盛りつけている。
    「あの、じゃあ、たまごやきを」
    「たまごやき?だし巻きじゃなくてか?」
    「その、昔からなじみのあるものの方が、こう、落ち着くと言いますか……」
    母と暮らしていた頃を思い出した。母が帰らない時は、卵を割るだけで済むご飯を好んで食べていた。というのも、10個パック1つあれば10日は過ごせるからという合理的な理由によるものだ。卵かけご飯を始め、小学校中学年になれば目玉焼き、スクランブルエッグ……と加熱する料理を献立に増やした。中でもたまごやきは、自分でどうやっても作れずにいて歯がゆい思いをしていた。ただ、あの味が大好きなのだ。ほんのりしょっぱくて甘い、ふんわり焼けた卵が。
    「わかった」
    と返事をすると嬢さんはささっと作り出した。あの頃の私がしたかった理想像そのままだった。洗面台で髪を乾かして戻ると、四角い皿に盛られたたまごやきがテーブルに置かれていた。嬢さんはその向かい側で、チーズや、焼いたベーコンと共に白ワインを嗜んでいた。
    「焼けたぞ」
    嬢さんは私の姿を認めると、座るよう視線で促した。ほかほかと湯気が立ち、柔らかい匂いが私の嗅覚と7分目の腹を刺激する。いただきます、と言って箸でたまごやきを1きれ掴んだ。嬢さんは、私を気にしていないようで気にしてくれている。視線のはしで、その気持ちが伝わってくるのだ。そのせいなのかもしれないが、

    そのたまごやきはいつか母がつくったものと同じ味がした。

    【完】
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    niichiga222

    INFO珠の過去編です…早すぎるって!!!!すげ〜〜よ…
    【艱難、汝を珠にす】望まれない生だったのかもしれない。十数年の人生で、繰り返し繰り返しそのことについて考えていた。
    生家は都心近郊のアパートの一室で、物心つく頃には父親のいない所謂片親だった。唯一の肉親である母親は夜遅くまで仕事と言い、帰ってくるのは決まって21時を回っていた。その頃、私は食事入浴を済ませていつも寝ていた。食費は月末頃に、1,000円札が数枚に幾つかの硬貨が玄関のがま口に知らぬ間に入っているのだ。なんとか節約しても、がま口に1,000円札を残しておくと、「金あるじゃん」と言って支給額が2000円ほど減る。だから、私は節約したお金はランドセルの中に仕舞い込んで隠すようになっていた。齢6つの時に見付けた、なんとか生き抜く術だった。こうしてなんとか胃に食べ物を入れ、言いつけ通り5分での入浴を済ましてから20時には空腹を誤魔化すように寝入っていた。しかし、入眠するも束の間、機嫌の悪い母親は寝ている私の体を蹴って起こしてきた。酒の匂いがする母親はいつも激昂していて、なんでできないんだ、出ていってやる、はやく死んでしまえ、などと泣きながら叫んでいた。私はこの時間が早く過ぎるように、ただうずくまってごめんなさい、と繰り返すしかなかった。これが1番収まりが早いのだ。泣き疲れて壁に持たれかかりしゃがんだ母親はいつも寂しそうで、壊れそうで、その母親を見るのが1番辛かった。そして、部屋の隅でうずくまる私も、気づいたらうとうととしてそのまま朝を迎えることも少なくなかった。朝、目覚めると母の姿はなくて、体には布団が掛けられていた。母のことは好きだった。年端のいかぬ子に、母親の善悪についてわかることではなかったし、なにより時折触れる優しさがいつも嬉しかった。
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