白のキャンバスを染めるのは誰ぞ第一印象は「冷たいヤツ」だった。
同じ学部に居るというのに、彼と来たら入学以来魏無羨の方を見向きもしないのだ。
「藍忘機!あんた、藍忘機だろ?」
朗らかに話しかけても、件の藍忘機はチラリとこちらを見るだけで何も言わないし、酷い時には
「くだらぬ」
の一言を吐き捨てるのみだ。
藍忘機の小脇に抱えられた大判のスケッチブックの中身は、大半が風景と石膏像のラフスケッチばかりであることは学部の誰しもが知るところである。
─藍忘機は決して人物画を描かない─
理由は定かではないし、様々な噂が飛び交っているのだが、魏無羨はその理由が知りたいと思っていた。あの鉄面皮が崩れたらどんな顔をするのだろう。そうして何を言うのだろう?
想像しただけで持ち前の悪戯心が鎌首をもたげる。
「どうやってあの厚い皮ひん剥いてやろうかな」
とりあえず、まずはあのスケッチブックを引ったくって中身を見てやろう。それで、デッサンの繊細さを褒めちぎって、自分を描けと迫ってやろう。
魏無羨の口元は弧を描く。久しぶりに楽しい学生生活が送れる予感がしていた。
藍忘機の姿は学校で一番目立つ噴水の縁にあった。
愛用しているスケッチブックの白いページに鉛筆を走らせている様子は、傍から見れば1枚の絵画のようであると喩える人物が後を絶たないであろう。
「らーんわーんじー!」
静寂を破った声に、藍忘機の眉が跳ね上がる。
声の主を確かめるべく顔を上げた先にはお気に入りの赤いリボンを結わえた黒髪を揺らしながら近づいてくる人物がいた。
これが可愛らしい女子であったならロマンスが始まるところであるが、残念ながら声の主は藍忘機と変わらない背丈の男である。
「うるさい」
吐き捨てるような声音で言われたところで、魏無羨にはなしの礫のようで、後ろ手に持ったクロッキー帳と共に藍忘機の傍へと寄っていく。
「なあなあ、藍忘機!なんで人物画を描かないんだ?あんたくらいの実力なら入賞間違いないだろ?」
「君には関係ない」
月を混ぜ込んだような黄金色の瞳が魏無羨を睨む。
「ふぅん、今はあそこの花壇を描いてるんだな。やっぱ、藍忘機の絵は綺麗だ。あんたと同じくらい」
繊細に、忠実に。藍忘機の鉛筆は目の前の景色を切り取ったかのように紙を滑っていく。
「ほら。俺の絵なんてまだまだだろ?」
ご覧あれとばかりに藍忘機のスケッチブックに重なるようにして置かれたクロッキー帳には、道端で出会ったであろう猫だったり、いつぞやの課外授業で赴いた動物園のスケッチだったり、照れた顔をした女性(恐らく他の学科で噂になっている彼の義姉であろう)が様々なアングルで所狭しと描かれていた。
伸び伸びとした、自由な線で描かれた絵は今にも動き出しそう。と評価を得る程である。
といっても、彼の描くものの評価を実際に聞いたわけではなく、噂話程度だったのだが。
「それを退けなさい。描けない」
「なあ、藍忘機。俺を描いてよ。あんたのスケッチブックにさ」
サッと藍忘機の顔色が変わる。
「私は、人は描かない」
「じゃあ、これはお預けってことで!」
自分のクロッキー帳と共に藍忘機のスケッチブックをスルリと取り上げて魏無羨はニッコリと笑う。
「返しなさい」
あくまで淡々と。抑揚のない声で藍忘機は言う。
「あはは!やーだよっ」
対する魏無羨は幼い子供が悪戯しているような、コロコロとした笑い声を返し、軽い足取りで後退していく。
「返せっ!」
堪らず声を荒らげてペンケースを引っ掴んだ勢いで追ってくる藍忘機に、魏無羨は少々驚いて目を見開いた。『氷のよう』と例えられる彼にこんな一面があろうとは。
やはり藍忘機という男は揶揄うと面白いのだ。魏無羨の勘は確信に変わっていた。
「どーれどれ?藍忘機先生はどんなものを描いてるのかなーっ」
藍忘機のスケッチブックに描かれていたのは、海辺の灯台や廃れた教会、果てはどこのものを描いたのか検討もつかない風景画であった。
それはモノクロ画でありながら見るものの目を奪う程の美しさで、魏無羨が感嘆の声を漏らす。
「わあ……凄いな、俺じゃこうはいかない。藍忘機の目にはこんな風に見えてるのか」
批評家の言には及ばないが、魏無羨の素直な賞賛の言葉は藍忘機にも伝わったらしく、逃げる彼を追っていた足はいつの間にか歩み寄るように速さを落としていた。
「これ、キャンバス画にするつもりはないのか?」
二人の距離が触れられる程になった頃合で魏無羨が問う。尤も、藍忘機の専攻が油絵である保証はどこにもなく、ただの好奇心からの問いだ。
「ない。展示会用ではないから」
「勿体無いなあ」
展示会用にはテーマが設定される。それに合わせた作品を描かねばならない以上、沿わないものは作品になり得ないというのは魏無羨とて解ってはいるのだが、この繊細で美麗な絵をスケッチで終わらせるのは勿体無く感じてしまう。
「なあ、藍忘機」
「…………藍湛でいい」
ポロリと口にした言葉に、魏無羨の顔が綻ぶ。
「そっか。じゃあ、俺のことも魏嬰でいいよ。──ああ、それでさ、藍湛。今度の写生会来るのか?」
魏無羨が問うたのは、近日行われる学科単位の写生会のことであった。
講師を務めるのが藍忘機の兄であると聞きかじっていたので、弟である彼も参加するのであればサボらず参加するのも悪くは無いと思っていたのだ。
「……ああ、兄から来るように言われている」
「へえ。じゃあ、俺も行こうかな」
その瞬間、昼休みを告げる鐘が鳴り、魏無羨は花壇に設置されている大時計を見て笑う。
「もうこんな時間か。藍湛は昼飯どうする?学食?それとも弁当?」
「……今日は食堂だ」
「だったら一緒に行こう!ほら、スケッチブック返すからさ!」
ぽん、と胸に押し付けられたスケッチブックを抱き締める格好になった藍忘機の服の袖を引いて、魏無羨は早く早く。と急かす。
それに引き摺られるように歩む藍忘機の頭上には、祝福するように澄み渡る青空が広がっていた。