白いキャンバスを染めるのは誰ぞ2写生会の予定日、魏無羨は薄曇りの空から落ちる雨を憎らしげに見つめていた。
「なんで降るんだよ……」
梅雨の時期なので天気が崩れやすくなるのは必然なのだが、間近で藍忘機が絵を描く姿を見ることが出来るまたとない機会を失ったという事実は魏無羨の機嫌を損ねるには十分である。
「天候に文句を言っても仕方がないだろう」
そう言ってため息を吐くのは、魏無羨を養子として迎え入れている江家の長男である江晩吟だ。
義兄弟とはいえ、その関係は実の兄弟にも匹敵すると持て囃されており、デッサン力も甲乙つけがたいほどの実力をもっている。
「だってさあ…」
どれだけ愚痴を言っても晴れるわけでもなく、魏無羨はがっくりと肩を落とした。
「写生会は石膏像デッサンに変更だそうだ」
「えーっ、俺は動物とか風景が描きたいのに!」
「文句垂れる元気があるならサボり癖をなんとかしろ、魏無羨」
魏無羨のやる気によって作品の完成度が変わるのは有名な話で、筆が乗ると化け物だと形容されたのは入学して間もない作品展でのことだ。
魏無羨が藍忘機の絵を初めて目にしたのもその作品展であり、繊細な線と鮮やかな色彩で描かれた雨に濡れる紫陽花に目を奪われてしまった。
そこで金賞に輝いたのは藍忘機の方で、魏無羨は銀賞だったのだが、全く悔しいだとか憎らしいだとかは感じなかったのだ。
逆に、こんな絵を描く人間はどんな性格をしていて、どんな風に作品を作り上げるのだろう。という興味の方が勝っていた魏無羨は、藍忘機という人物を探して大学中を歩き回ったり、他の学部にいる友人に尋ねたりと試行錯誤して先日の邂逅に至ったというわけだ。
「あーあ、楽しみにしてたのにーっ!」
スケッチブックに八つ当たりのような線を書き連ねながら、魏無羨は不満を露わにしていた。
藍忘機はといえば、いつも通りの鉄面皮で石膏像をスケッチブックに具現化していて、魏無羨の苛立ちなどどこ吹く風かといった様子である。
「次の作品展、テーマ何か聞いたか?」
「ああ、『わたしのおきにいり』だったっけ」
「人物でもモノでもいいってさ」
「ふーん」
カリカリとスケッチブックの上を鉛筆が走る音に混ざって、魏無羨と江晩吟の話し声が美術室に響く。
教授に睨まれることは流石にないが、藍忘機の眉間には皺が寄っていた。
「ごめん、藍湛。うるさくしちゃって」
「……構わない」
なぜか藍忘機の耳に江晩吟の声は煩わしいと感じるのに、魏無羨の声は心地が良く聞こえてしまう。
いつの間にやら藍忘機の横に魏無羨が陣取る構図が出来上がったが、本人たちはさして気にすることなくスケッチブックを線で埋める作業に没頭していた。
「この後ヒマ?」
「……予定は無い」
「じゃあ、カフェテリア行かない?」
「うん」
ひそひそと内緒話のように交わされる会話に、傍で聞いていた江晩吟は砂糖を吐く勢いで顔を顰めた。
なんだこれは。まるで恋人たちの睦言ではないか。
「こないだのデッサン、藍湛の意見も聞きたいんだよなー」
「……わかった」
結局、藍忘機と魏無羨の内緒話は講義終了の鐘が鳴るまで続けられることとなり、江晩吟は軽い頭痛を訴えることとなるのであった。
カフェテリアは空きコマの間を過ごす学生たちで賑わっていた。
その一角で藍忘機は魏無羨のスケッチブックを手にデッサンのアドバイスをする名目でラフスケッチを眺めているのだが、相変わらずどのスケッチも躍動感があり、藍忘機には描くことの出来ない絵ばかりが紙を埋めている。
「どれも上手く描けている。特に、この兎とか」
「それ、おじさんの家によく居るんだよ。懐っこくて可愛いんだ」
仲睦まじく寄り添う二羽の兎のスケッチは、眺めているだけで紙の上から飛び出して走り回りそうな程に生命力に溢れたものであった。
「俺、この花時計のスケッチ好きだなあ。キャンバスに写して欲しいくらいだよ」
そう言って魏無羨が指したのはスケッチブックのページいっぱいに描かれた花時計だった。
「それは…前旅行に行った時に見かけて描いた」
花が咲き誇る花壇に浮かぶ秒針。きっと、時期は春先だったのだろう。暖かい日差しが差し込む様子まで切り取る手腕に魏無羨は更に饒舌になっていく。
「これ、昼過ぎにスケッチした?この時いい天気だったんだろうなって見ただけでわかるよ。ほら、ここ。日向ぼっこしてる猫まできっちり描いてるから情景がわかりやすい!」
魏無羨の言はまるで批評家のそれだ。
しかも、良いところを瞬時に見抜いてべた褒めしてくるタイプの批評家である。
和やかな雰囲気の中、二人の話題は作品展のことへ移っていた。
「藍湛は何を描くんだ?水彩?油絵?」
「…たぶん、水彩になると思う」
何をモチーフにして描くのか。までは聞かないのが課題を描く上での暗黙の了解である。
「俺も今回は水彩かなあ……油絵って気分じゃないしさ」
気分で画材を変えていいものなのか。という問いは魏無羨にとって無意味なものだ。
彼の作品の持ち味はその伸び伸びとした自由な作風にある。と藍忘機は感じ始めていた。
画材を縛ったところで魏無羨はそつなくこなしてしまうのだろうが、藍忘機はスケッチではない魏無羨の絵を見たいと思うのだ。
「魏嬰」
「ん?」
「作品展の絵が描けたら、一番最初に私に見せて」
「いいけど……じゃあ、藍湛も描けたら俺に一番最初に見せてくれる?」
「うん」
こうして二人は密やかな約束を交わして帰宅の途についたのだった。