こんなことが起こるなんて信じられない。興奮のあまり昨夜は眠れないかと思ったが、なんだかほっとして、心がぽかぽかと温かくて、思いの外すぐに眠りに落ちた。むしろ一晩明けた今の方が、あれは夢だったんじゃないかという気持ちだ。スマホに残った通話履歴を何度も見返し、その度に夢じゃないんだ!本当なんだ!と心の中で叫んだ。もう有頂天だ。
会わないように定められているお客さんと会う約束をしてしまった。こんなの契約違反だ。もし煉獄さんの事務所や俺の会社に知られたらどうしよう。そうしたら俺、辞めさせられちゃうかのな。きっと会社にも迷惑がかかる。分かっているけど、あんなに幸せな時間を知ってしまって、ハイここまで、なんてできなかった。俺って結構欲張りだったんだなぁ。神様仏様ご先祖様、本当にごめんなさい。でもどうか今日だけ、今日だけ許して下さい。
バタバタと出勤の準備を整える。今夜行くお店は煉獄さんが予約してくれるそうだ。そりゃあ普段俺が行くようなお店に来れる訳ないよな。駅前の居酒屋チェーン店なんかに煉獄さんが現れたら大騒ぎだ。そうするとあれか?テレビで見るような、芸能人御用達の隠れ家ナントカみたいな…?うーん、知識がなさすぎて想像するのも難しい。せめて新品の服でも買いに行きたかったが、さすがにそんな時間はない。俺はできるだけ新しいお気に入りの服を着ていくことにした。煉獄さんも普段通りのまま来てくれたらいいと言って下さったし、甘えさせてもらおう。
マンションの入館手続きを済ませてエレベーターを上がり、煉獄さんの家に入る。相変わらずすごくいい匂いだ。それにいつもよりちょっと綺麗な感じがする。片付けておくと言っていたのは本当だったんだ。俺の仕事が減っちゃうなぁ、とクスクス笑いながら荷物を置いた。
顔をうずめてみたい衝動を必死に抑えながらベッドを整え、乾燥機でふかふかになったタオルを畳み、窓際のパキラに水をやる。一通りの作業を終えた俺は、テーブルに置かれていたメモをもう一度読み直した。話せて嬉しかったという内容とともに、今夜の待ち合わせ場所と時間が記されている。仕事を終えてそのまま向かえばちょうどよく着くだろう。昨日の出来事は本当だったんだ。やっぱりまだ信じられない。俺はどきどきを抑えながら優しくパキラの葉を撫でた。俺達の会話を聞いていたのは、きっとこのパキラだけだろう。普段はお客さんの家のソファに座ったりはしないが、そばにあったソファにゆるゆると座り込んだ。普段から煉獄さんが座っているであろうそこには、なんだか煉獄さんの温もりが残っているように感じられて、俺の胸はきゅうんと甘く締めつけられた。
『おやすみ、炭治郎』『おやすみなさい、煉獄さん』だって。すごく優しい声だったな。幸せだな。目をつぶって思い出せば、また耳元で声が聞こえてくるようだ。そうして何度も頭の中で反芻しては噛み締めているうちに、はたと気がついた。あれ?俺昨日、自分の名前言ったっけ…?
指定された場所は大通りからは一本も二本も奥で、閑静な事務所ビル街といった趣だ。とても食事ができるような所には思えない。本当にここか?と不安になりながら、メモと地図アプリを見比べる。うーん、合ってるな…。キョロキョロと辺りを見回していると、遠くの曲がり角で一台のタクシーが止まった。出てきた人物は手を振りながらまっすぐこちらに走ってくる。
「すまない!待たせたな!」
煉獄さんだ!俺に犬のしっぽがついていたらブンブン振っていただろう。帽子を目深に被り、サングラスをかけ、マスクをしていたが、間違いなく煉獄さんだった。彼はサングラスをずらして俺を見つめ、にっこり笑った。
「では行こうか!」
煉獄さんは俺の手を引き、迷いなくビルの中に入っていく。エレベーターを降りた先も、特に店があるようには見えなかったが、煉獄さんはあるドアの前で止まり、ドア脇に設置されたカードリーダーに真っ黒なカードを滑らせた。カシャンと鍵が開いた音が聞こえると、そのままドアを開く。中を覗いた俺は驚いた。単なるビルの一室だと思っていたそこは、明らかに高級感漂う料亭だったのだ。上品な着物姿の女性が、「お待ちしておりました。煉獄様。」と深々と頭を下げ、俺達を個室へ案内する。俺はもう目の前がクラクラしていた。本当に隠れ家ナントカだった!俺、俺…今日ちゃんと帰れるかな!?