小泉くんと新田の落書き。もしかしてわたしたちははじめからずっとこうだった?
葬式に出席するため袖を通した喪服をクリーニング屋から引き取ってきた帰り――共通の友人である霊山から、スマートフォンに連絡があった。
『新田と連絡がとれない』
『落ち込んでるのは間違いないから様子を見てきてくれないか』
『俺よりもお前の方が、あいつと仲がいいだろう?』
そんなメッセージの並ぶ画面を、俺は玄関で、透明のビニールに包まれた喪服を片腕に抱えたまま無表情で眺めていた。すぐに返事を送れなかったのは、突然の連絡に戸惑ったからではなかった。
最後のメッセージ――『お前の方があいつと仲がいいだろう』という問いかけに、何と答えるべきか、わからなかったからだ。新田明朗は確かに大学時代からの『知り合い』であり、知り合った当初は仲の良い友達、と呼べる間柄だったのだろうが、今はもう違う。彼は俺を置いて先へ行ってしまった。不器用な生き様に似つかわしくない才能でもって、俺を置いてどんどんと文字通り高いところへ――行ってしまった。
いつからか俺は、彼のことが嫌いになっていた。
霊山からの連絡をぼんやり見つめていると、『お前だったらどうにかしてくれるだろ』という新しいメッセージが、トーク画面の一番下に追加された。
「……」
俺は画面を開いたままリビングまで歩いてきて、それからテーブルにスマートフォンを置くと、ビニールと喪服のシワを丹念に伸ばしてクローゼットに喪服をしまった。それからテーブルのすぐ横、フローリングの上に直接横になると、冷え冷えとした床で理性を冷やしながら、手を伸ばしてテーブルの上のスマートフォンを取り、無表情を保ったまま、『わかった』と返事をした。
霊山からは感謝の言葉が添えられたかわいいイラストのスタンプが送られてきたが、それは無視して、俺は目を閉じた。
夢は見なかった。
そういえば新田は、時々悪夢の話をしていた。今も、彼は悪夢を見るのだろうか。
まあ、どうでもいい話だが。
(俺が先日参列したのは、霊山、新田、そして俺も所属していた登山サークルの先輩のものだった。新田は先輩にとてもなついていて、よく一緒に山へ登っていた。先輩の死因は岩壁からの滑落だ。そのとき、新田は例に漏れず先輩と一緒に山へ来ていた。体調が悪くテントで休んでいたそうだ。先輩は一人、頂上へ向かおうとテントを出て、その途中で事故に遭った。新田は、先輩の母親からひどく責められて、葬式に来るなと激昂された。だから葬儀のとき、新田の姿はなかった。皆が先輩にお別れを言う間も、先輩の父親が涙をにじませながら参列者へ挨拶するときも、先輩が焼かれていくときも、新田は当然、いなかった。)
新田の部屋はアパートの一階にある。大学を卒業して二年ほどしてから引っ越した後、ずっと同じ部屋だ。一階の、一番奥の部屋。それは、大学のときのアパートと同じだった。
「……なんだよ。鍵、開きっぱなしかよ」
ドアノブをひねって手前に引くと、何の引っ掛かりもなく動いた。キイ、と金属がきしむ音がした。思い切ってドアを全開にすると、廊下から差し込んだ古びた蛍光灯の光が玄関から伸びる廊下に差し込んだ。俺の形をした影の部分だけ真っ黒だ。
「新田、いるんだろ」
俺は壁にあった明かりをつけると、靴を脱いでずかずかと部屋にあがりこんだ。新田の部屋は所謂ワンルームだ。廊下の先に一部屋あるだけ。その部屋を目指して進んでいると、ソファーのそばに誰か寝転んでいるのが見えた。ソファーからずり落ちたわけでもなく、中途半端な場所に横たえられたその身体を見て、俺は息を飲み、慌ててそこに倒れる誰かに駆け寄った。
「新田! おい、新田!」
頭のなかで嫌な予感がぐるぐるしている。肩を掴んで強く揺さぶると、手の下でその身体がびくりと震えて、「え?」と戸惑いの声があがった。
「…え? あれ? 小泉? なんで……いるの?」
新田は顔にも声にも「?」をたくさん浮かべて、首をひねって俺の方を向いた。肩に触れたままの手には、彼の呼吸にあわせて肉が動いているのが感じられる。当たらなかった嫌な予感をうまく咀嚼できないまま、呆然としている俺の目の前で、新田はゆっくりと上半身を起こすと、意識を明瞭にしようとふるふる頭をふった。
「な――なんだよ。驚かせるなよ」
俺はようやく、用済みになった嫌な予感とやらを半分ほど咀嚼できて、思考が動くようになりはじめていた。部屋の照明をつけようと、俺はきょろきょろとあたりを見渡して、廊下とこの部屋を繋ぐドアのすぐ横にあったスイッチを押した。パッと白色光が降り注ぎ、俺も新田も目を細めた。
新田は明かりをつけに立ち上がった俺の方をどこかぼんやりとした視線で追いながら、片膝をたててその場に座っていた。
それから。
「……死んでるかと思った? 」
彼は、そう言った。
「ば――馬鹿なことを言うな」
新田のそばに戻って改めて彼を観察する。死んでこそいなかったが、彼の頬や口元には無精ひげがまばらに伸びていて、やさぐれた印象を強めていた。シャツの襟もだらしなく伸びている。匂いはないから、風呂には入っているらしい。新田がにこりと、こちらに笑いかけた。なのにまったく、安心できなかったのは、明かりをつけたというのに――彼の瞳が、照明がついていなかったときと同じ暗さだった、からだろう。
「というか、霊山が連絡つかないっていうから」
「え? 霊山? えっと……」
彼は暗い目をしたまま視線をあたりに彷徨わせると、テーブルの下に落ちていたスマートフォンに手を伸ばした。
「あ、充電切れてる……コード、どこやったっけな」
「……ほら」
俺はコンセントに差しっぱなしだった充電コードの先を新田に手渡した。
「ありがとう」
「でも、変なところに倒れてたら驚くだろ、普通」
「あ、ああ。そうだよね。ごめん。眠くて、寝てた」
充電コードを差したスマートフォンの画面が明るくなるのを待ちながら、新田は意識が現実に合いきっていない、どこかふわふわとした声で答えた。俺は立ち上がり、キッチンの様子を見に行った。シンクには茶碗や小皿が水を張った状態で置いてあり、三角コーナーには生ゴミが入っている。どうやら、何かを食べてはいるようだ。念のためと思って冷蔵庫を開けると、ラップをかけたどんぶりが置かれていた。そのなかには生姜焼きが詰められていた。生姜焼きは死んだ先輩の好物だったことを思い出したが、俺はそれに気づかいふりをした。
「わ。霊山から十回も電話きてた」
「あのなあお前。さすがにそれは霊山がかわいそうだろ――」
俺は間の抜けた声をあげる新田の方へと振り向いて――新田が座りこむすぐそばの壁にかけられているものを認識し、固まった。
そこにあったのは喪服だった。
喪服が、ハンガーにかけてあった。クリーニング屋のタグがついたままの、真っ黒いスーツ。丁寧に、ジャケットの内側には白いワイシャツが見えている。
着られなかった、喪服。
煌々とと蛍光灯に照らされる部屋のなかで、そこだけが黒かった。
「小泉?」
「あのさあ……。お前、大丈夫なのかよ」
「何が?」
「何がっていうかさ……」
「大丈夫」
俺の声を遮って、新田が言った。
「大丈夫だよ。小泉。ありがとう。小泉は優しいよな。本当に」
ともだちでよかった。
新田はそう続けて、もう一度丁寧に笑い直した。新田にしては大人びた、真意の見えない笑い方だった。そんな風に笑う新田を、俺ははじめて見た。
「大丈夫なもんかよ。お前、だって……」
「いや」
新田が、先ほど作った笑みを口元に保ったまま、うつむく。
「大丈夫なんだよ」
「でもさ」
「だって、自分は生きているんだから」
「新田」
「こうやって、生きているんだから。大丈夫に決まっているだろ」
部屋のなかに空虚に響くその声は、今にも壊れそうな、繊細な震えを宿していた。それは、傷ついた人間の出す声だった。当たり前だ。彼は先輩にひどく懐いていた。その先輩を、みすみすと死なせてしまったのは自分だと、考えているだろう。考えていなくても、感じているだろう。
「なあ新田」
俺は新田の元へと、足を踏み出す。
「大丈夫なんかじゃないだろ」
一歩。
「お前は、ゆっくり休んだ方がいいよ」
また一歩。
「なあ」
彼に近づく。
「無理するなよ」
そして俺は、彼の傍らに立って。
「しばらく休むといいよ」
彼の肩に、手を置いた。彼は俺を見上げることはせず、うつむいたままだった。彼を見下ろす俺の顔は今、どんな風になっているだろう。逆光になって、真っ黒に見えているだろうか。ああ、きっとそうだ。俺は、俺は今、彼に帰ってきてほしくなくて、彼を山から引き離したくて、優しいふりをして、声をかけている。
もうこっちにくるな。
お前はしばらく、そこで座り込んでいろ。指先に強く力が入りそうになるのを堪えながら、俺はなるべく優しい、友達を思ったうえで出せる声を作って、「な、そうしろよ」と新田に語りかけた。
「ありがとう、小泉。心配かけてごめんな」
新田がお礼を口にする。
「何。俺とお前の仲だろ」
俺とお前の、どうしようもない仲だろ。
大嫌いなお前のためを思って、言っているんだ。
「何かあったら言えよ」
「うん、わかった。なんか、お前と話したら、少し楽になった気がする……ああ、やっぱり、疲れてたのかな」
俺は長く長く息をついた新田に、ちゃんとしたところで寝た方がいいとアドバイスして、彼を立ち上がらせ、手を引いて敷きっぱなしの布団まで連れて行くと、そのまま彼を寝かせた。新田はずっと、俺のなすがままになっていた。ああ、これでいい。このままずっと、この布団のなかで眠っていてくれ。いい夢を見て、目覚めずに、密やかに息をしていてくれ。その間に俺は、お前よりもっともっと高いところまで登ってみせる。お前の何倍も山に身を置いて、再びお前より実力をつけてやる。
「本当にありがとう、小泉」
目を細めて、肩まで掛け布団をあげた新田が、こちらを見つめてうっすらと微笑んだ。
俺は、何も言うことができなかった。
(俺はお前の友達。)
(お前は俺の――。)
二週間後、新田はまた、山に登り始めたと俺に教えてくれた。先輩を山で喪ったばかりだというのに、彼はトラウマになってもおかしくない場所に、再び身を置くことにしていた。
やっぱり山が落ち着くんだよね、と電話で俺に言った。
「あのとき小泉が来てくれたから、元気になれたと思う」
俺はそう言う彼の、心なしか落ち着いた声に、「うん」と短く、相槌を打つことしかできなかった。