シュレディンガーの箱の開封 クリスマスは好きだ。折り重なって流れる様々なテイストのクリスマスソング。カラフルに彩られた光り輝く街並み。鼻をくすぐる香ばしい匂い、甘い匂い。いつもより豪華な夕食のメニュー。どれもこれもが霊感を刺激し、脳内に新たなメロディを巻き起こす。ESの空中庭園は冷たい風がぴゅうぴゅう吹き付けるが、丁度よく頭と肺を冷やしてくれるのでいい感じだ。手がかじかんで思い通りに五線を引けないことだけが不満だが。
レオは忙しかった。頭の中を駆け巡るメロディの濁流を形に残さなければならないのだから。昼間司から受け取ったばかりの次のイベントの資料を裏紙にして、乱雑に五線を引きその上に音符を並べていく。手を止める暇はない。柵の間から覗く夜景やイルミネーションに気をやる余裕はない。輝く街のどこかで大切な人と共に過ごす人々に関心を持つゆとりもない。今この瞬間も何処かの誰かと笑っているかもしれない少女のことなど、頭にない。
「月永先輩」
その声はレオの脳内で好き勝手に鳴り響く音楽の隙間を縫って、はっきりとレオの意識まで到達する。本当に不思議だ。どういう原理だろう。
「風も吹いてきましたし、ここにいたら風邪ひいちゃいます。せめて室内に移動しませんか?」
地べたにあぐらをかいて作曲に没頭するレオの隣に一人の少女がしゃがみ込む。コートも手袋もマフラーも、防寒具を何ひとつ身につけていないスーツ姿はとても寒そうだ。風邪をひいたらどうする。
「あんず?あんず!わはは、あんずだ!なんでこんなとこいるんだ?」
あっ、待って言わないで——。常套句を口にする前にレオの口元に温かいものが覆い被さる。マフラーだ。彼女が今こんな場所にいる理由さえも導き出せていないのに、また新たな情報がレオの頭に流し込まれた。
「司くんが探してましたよ。寮でパーティーがあるんでしょう」
なんだつまらん。可能性を狭めるなといつも言っているのに。この宇宙に存在する星の数ほどあったはずの道筋が、一つに収束されてしまった。
「え〜、おれはいいよパーティーとか。作曲したかったし、ここの方が丁度よく寒くて捗るからさ」
「でも寒いですし、ここに一人でいると……」
「別に一人でもいいだろ〜。クリスマスにひとりでいちゃいけないなんて決まりはないし。ああでもクリスマスでうきうきしてるルカたんは見ておきたい……!」
あんずの言葉を遮ると、彼女は困ったように押し黙ってしまった。勿体ないことをした。彼女の声はとても綺麗で大好きなのに。
「……ここに一人でいると、先輩が寒さで倒れてもすぐに気付けませんね?」
「それはそうだな!アンサンブルスクエア雪中の変死ミステリー!ああやっぱ待って陳腐すぎるなそもそも雪降ってないのに!」
そう言うと彼女は小さく笑ってくれた。良かった。状況はどうあれど彼女には笑っていてほしいのだ。
「……おまえこそ、こんなところにいていいのか?パーティーやるならおまえがいた方がみんな喜ぶだろうし、なんかほら……、こういう日なんだから一緒に過ごしたい相手の一人や二人いるだろ〜?」
そうだ。あんずには自分と違って、無限の可能性が広がっている。クリスマスパーティーとやらに参加してもいいし、仲良しのトリックスターと集まってもいい。P機関やプロデュース科の付き合いだってあるだろうし、ESの外に友達がいるかもしれない。家族と過ごすかもしれないし、もしかしたらレオが知らないだけでこの後恋人と甘い時間を過ごすかもしれないのだ。不快、不愉快。脳内のメロディが暗くどんよりと濁り出す。
「星奏館でのパーティーなので私は参加できませんよ。……両親は仕事ですし弟も学校の子達と楽しく過ごしてるみたいなので、私は普通に仕事でも片付けようかと」
「え、おまえクリスマスなのにひとりなの?」
「ゔ、そういう言い方しないでください月永先輩もひとりじゃないですか。私はプロデューサーとしてやるべきことをしているだけです」
「じゃあ彼氏とかは?」
「いませんけど……。後輩いじめは良くないですよ先輩」
「そんでおれのお守りをさせられてるわけだな!かわいそう!」
ぷくりと膨らまされた彼女の頬をうりうりとつつく。かわいい。寒さで普段より赤く色付いている。それだけならただ可愛いだけだったけれど、つんと尖った唇も少し青く見えたから、女の子を寒空の下薄着で居させているという事実を思い出す。おまけに彼女が持っていたただ一つの防寒具は今自分が身に付けている。
「……あんずも寒そうだし、とりあえずあったかいとこ移動するか。ほらあんず、立って」
立ち上がって彼女の手を取ると、やはりレオの手の方が冷たくなっていたらしく、彼女は指先までじんわりと温かかった。騎士らしくエスコートしたかったけれど、これでは彼女を更に冷やしてしまう。この温かさと柔らかさを手放すべきか否か思い悩んで手を止めると、彼女の方から指先を握り返される。伺うように彼女の表情に目をやれば、彼女は首を小さくかしげながら「忘れ物ありました?」と言う。
「ううん、大丈夫。行こう」
小さな手を握りしめて出入り口を目指す。大丈夫だ、この手を握っても。彼女が許してくれたから。彼女が選んでくれたから。
「パーティー、行きますか?司くんからちょこちょこ連絡きてますけど」
「え〜、盛り上がってるとこに途中から行くのなんか気まずいからいい。あいつもあんずにばっか頼ってないで自分でなんとかできるようになれよな」
どこへ行こうか。今は作曲よりも、この手を繋いでいることの方が重要だ。パーティーなんて行ってられない。せっかくあんずと一緒にいられるのに。
「あんずも暇ならおれとどっか行こうよ。なんか食べに行ってもいいし、イルミネーションとか見に行くのも楽しそうだし」
「えぇ、でも、司くん」
「ほっとけほっとけスオ〜なんて!あんずお腹すいてる?」
ビルの中に入って、それでもあんずの手は離さない。まだ何か慌てて言っている気がするけど、レオは夢中になると人の声が届かなくなるタイプなのだ。そんな言葉は無視だ。
まずはあんずの荷物を取りに行こう。コートか何か着てきてるはずだから、今度はちゃんと暖かい格好で。その後はどこに行こう。あんずと何をしようか。今のレオには選択肢も可能性も無限にあるのだ。