眠れないときのおまじない ほんの一瞬、持ってきた鞄から企画書を取り出そうと背を向けていた。振り返った時にはつい先ほどまでそこに立っていた人の姿はなく、けたたましい警告音が鳴り響いていた。
「天祥院先輩」
先輩は消えてなどはいなかった。専用の大きなデスクの向こう側で片膝をついてしゃがみ込んでいた。左手はシャツの胸元をきつく握りしめている。おそらくは発作だ。先輩のこの姿を目にするのは初めてではないけれど、長らく見ていなかった光景だった。
鞄を放って慌てて駆け寄り目線を合わせる。呼吸が荒い。腕に巻いたスマートウォッチのような体調管理機に表示された数値がぐんぐんと下がっている。右手は床についた私の腕を握り締め、ギリギリと容赦のない力が込められた。
「人を呼びます」
危ない状態となればこの機械が自動で病院やおうちに通知をしてくれることは知っていたけれど、この状況に対応できる誰かを呼んだ方がいい。私は今何をすれば良いのか何も知らないから、気休めにもならないとわかっているのに片手でその背中をさすることしかできなかった。一年程前のライブの直前、同じように体調を崩した先輩が求めた携帯用の酸素吸入器すらどこにあるのかわからない。
けれど先輩は余計なお世話だとでも言いたげにこちらを一瞥して首を横に振った。でも、と言いかけた途中で下降を続けていた腕輪の数値が止まり、二十といくつかの数値を表示した状態で警報が止む。連動するように呼吸が落ち着き始め、締め付けられた右手の力が段々と弱まっていく。最後に大きく息を吐いて、先輩はむしろ私を落ち着かせるようにこちらへ笑いかけた。
「先輩」
「……大丈夫、驚かせて悪かったね」
「病院、せめて医務室に行きましょう」
「よくあることさ。収まってしまえばなんともないよ」
肩だけ借りるね、という前置きの上で左肩に確かな体重が掛かる。立ち上がるだけの動作に支えが必要な人の言葉はあまり信用ならなくて、肩の重みが完全に無くなってから立ち上がり、その片腕を支える。今だってただ立っているだけなのに、机についた手に体重を預けていた。
「企画構成案の再チェックは今日でなくても問題ないです。少し休みましょう」
「本当に平気さ」
「……実は企画書を家に忘れてしまって」
青い瞳が伏せられてじっとりとこちらを見下ろしている。責められているのは社会人としてあるまじき失態か、思い付きの稚拙な嘘か。負けじと目を合わせれば、数秒ののちに先輩は諦めたように嘆息した。
「仕方ないね。実は僕も少し仮眠を取りたいと思っていたんだ」
先輩は机の上のノートパソコンを閉じて、私の腕を支えにしたままゆったりとした歩みで私を先導する。目と鼻の先にあるソファまで辿り着くと端に置いてあった私の鞄をローテーブルに移し、空いた場所に腰掛けた。いつもお行儀良く腰を落ち着ける先輩が、今日ばかりはどさりと音を立てていた。
横になりたいだろうし、私は向かい側に座っていようか。そうしてソファから離れようとしたけれど、先輩は私の腕を離さずにスーツの袖口をくんと引っ張った。
「あんずちゃんもこっちに座りなさい」
「私も座ったらせまくないですか?」
三人が余裕を持って座れるサイズのソファとはいえ、私が座ってしまえば窮屈になってしまうだろう。けれど私の腕を離してはもらえなかったので、仕方なく反対側の端にできるだけ寄って腰掛ける。
すると先輩は、わざわざ私の方へ人一人分ずり寄ってから上体を横たえた。
ぽす、と音を立てて小さな頭が太ももの上に乗り、金糸の髪がスラックスに広がった。
「……へ?」
他のものと間違えていらっしゃいませんか。頭を叩きそうになった手を慌てて引っ込め、代わりに肩を叩く。先輩は疎ましげに目を開いてこちらを一瞥し、またすぐに瞳を閉じた。
「僕に休んでほしいのならもう少し大人しくしていてくれないかい?」
「枕が欲しかったのなら何か探してきますよ」
「事足りているよ」
先輩は寝返りをうって横を向く。けれどそれもしっくりこなかったのかすぐに仰向けに戻って、ソファに収まりきらなかった足をまっすぐ伸ばして肘掛けの上に乗せた。意外とお行儀の悪い寝方もできるのだなあと思ったけれど、高そうな革靴はちゃんと脱いで地面に揃えられている。頭の位置も何度か調整して、ようやくベストポジションにありつけたらしい先輩は吐息だけで笑みを零した。
「あんずちゃんの膝枕を堪能できるならたまの発作も悪くないかもしれないね」
平然と放つその言葉がただの軽口なのか、強がりなのか、私には判別がつかなかった。
「……これくらい、いつでもしますよ」
「そうかい? それは困るね」
「困るんですか?」
困るよ。とても。そう呟いた先輩は、けれどもその意図をわざわざ解説しようとはしなかった。四時になったら起こしてくれるかいと頼まれたので、私は時計の長針の位置を確認する。会話の途絶えた室内は途端に静かになって、手持ち無沙汰になった私はSNSでも眺めて先日世に出たばかりの新曲の反応を伺おうかとポケットをまさぐった。この体制かなり気を使うなあなどと考えたとき、とっくに眠りについたと思っていた先輩がおもむろに口を開いた。
「……僕が今ここで死んでしまったら、君は一生誰かに膝枕なんてできなくなるんだろうね」
何が可笑しかったのか先輩はくすりと笑い、それから数秒のうちに静かな寝息を立て始めた。
四時になるまでの四十三分間、私はゆっくりと上下する先輩の腹部だけを見ていた。