雨水を含んで重くなってしまったパンプスで店頭のマットを踏みしめる。自動ドアが開くと同時に鳴り出す無機質な入店音に、どうしてか少し安堵した。
終電を間近に控えた深夜のコンビニは駅前の店舗だというのにがらんとしている。入口付近に目当ての商品が置いていないことを確認して、レジの方へ目を向ける。この時間のシフトを一人で回しているらしい店員の男の子はスーツ姿の男性を相手にレジを打っていた。ひとまず壁沿いに雑誌コーナーを通り抜けて、ドリンクコーナーから夕食のお供にする飲み物を選ぶことにした。
新商品のポップが添えられたフルーツフレーバーの紅茶が気になったけれど、寝る前にカフェインは取りたくないと思い直してその前を通り過ぎる。天然水と悩んでから、鉄分入りの飲むヨーグルトを手に取った。鉄分不足を感じていたわけではないけれど、なんとなく健康に良さそうだからという単純な理由で。
次に選ぶのは夕食。こんな時間にしっかりしたものは食べにくいから理想を言うなら栄養価の詰まったゼリーやブロックを買ってしまいたかったのだけれど、そんなものをレジへ持っていったら不健康な食生活を彼に怒られてしまうだろう。チルドコーナーへ移って、商品を隅から隅まで眺めてからレンジで温めるタイプの野菜スープを選んでレジへと向かう。レジ台で真剣に作業する店員に声を掛けて——なんてする必要はなく、不真面目な彼は私が商品を吟味する様をずっと眺めていたようだった。
「こんな遅くまでお疲れさまです。まぁた残業ですか?」
「漣くんも深夜のシフトお疲れ様。今日は会社の飲み会で遅くなっただけだよ」
「食ってきたのにまだ食うんすか!?」
「あんまり食べる暇なかったの! 飲み会ってね、楽しくご飯食べてお酒飲むだけの会じゃないんだよ」
「へ〜、社会人って大変なんすねぇ」
とうとういらっしゃいませすら言わなくなってしまったこの気さくな店員は漣くん。一ヶ月ほど前、まだ入ったばかりだった彼がレジの打ち間違いで十万円を超えるお会計を叩き出したことをきっかけに仲良くなり、今ではこうして買い物のたびに親しく話すようになっている。
「それはそうと、傘って売り切れちゃった?」
「ビニ傘っすか? 今日何人か買ってく人いたんで、いつもの入口んとこにないなら売り切れちゃったんじゃないですかねぇ」
漣くんはレジ台から身を乗り出して入口の方を見ると、ああ売り切れてますねえと呟く。今夜は夕飯よりも傘を買うためにここへ寄ったのだけど、これは困ったことになってしまった。
「オレ来たときは小雨くらいだったっすけど今そんな降ってます?」
「結構降ってる」
「うわあ」
点滅したレジ前のカードリーダーにスマホをかざす。電子レンジでのあたためと割り箸は不要で、レジ袋はつけてほしくて、支払いは電子マネーで。漣くんはそんなことを私に聞かなくったってとっくに全部把握している。
「どうしよう。大きい袋一枚もらおうかな」
「怖いんで一応聞きますけど何に使うんすか?」
「頭に被ろうかなって」
「んな無茶な」
持ちやすいように袋の持ち手を捻ってくれたレジ袋を受け取ったところで、それじゃあどうもと帰れない。ここから家まではそれなりの距離があるけれど、家族をこんなことで深夜に呼び出すのは気が引ける。ひとまず少しのあいだ雨宿りさせてもらおうかなと雑誌コーナーへ顔を向けたとき、漣くんはおずおずと言った様子で口を開いた。
「もし、あんたが良ければっすけど……。オレあと十分もしないであがりなんで、アレだったら送ってきましょうか?」
「えっ、いやでも、悪いよ」
「あ〜……、まあ知らねぇ男に家知られるのも嫌っすよねぇ」
「そ、そういうつもりじゃなくて」
本当にそこまでしてもらうのは申し訳なかったのだけど、漣くんは困ったように頭を搔いた。
「……じゃあオレ、よく考えたらカバンに折り畳み傘入れてきたんでオレの傘はあんたが使ってください」
「絶対うそだよね!?」
「いやいやマジですよぉ。持ってくるんでちょっと待っててください」
勝手に帰らないでくださいよと言い残して漣くんはバックヤードへ消えてしまった。状態が悪化している気がする。漣くんには悪いけれどこっそり帰ってしまおうかと自動に近付いたけれど、バケツをひっくり返したような土砂降りに思わず足が止まる。明日も仕事があるから、一張羅のスーツがずぶ濡れになってしまうのはかなり困る。けれど優しい彼を、こんな雨の中を傘もなしに走らせてしまうのも嫌だ。
「お待たせしました〜、ってなに帰ろうとしてんすか」
「違くて、雨どんな感じかな〜って見てただけで……」
「どうだか……。それよりほらコレ、使ってください」
漣くんがずいと差し出したのは真っ黒い大きな傘。この厚意を受け取ったら、彼は濡れ鼠になってしまう。
「……漣くんのおうちって、じゃなくて。私の家二丁目のあたりなんだけど、逆方向だったりしない?」
「二丁目なら通り道っすよ」
漣くんがニヤリと笑うのと同時に、いつの間にか来ていたらしい交代の店員がバックヤードから制服姿で出てくる。腕時計の長針と短針は時計板の真上で重なっていた。
「決まりっすね。今度こそいい子で待っててくださいよ」
漣くんは傘を私に預けると、入れ替わりの店員と二、三言交わすと再びバックヤードへ戻っていった。初めて見る私服姿の漣くんは私から傘と一緒にレジ袋まで受け取ると、じゃあ行きましょうかといつもの砕けた笑顔で笑った。
*
「へえ、もうすぐ引っ越しちゃうんですかぁ」
「うん。色々あってしばらく休職してたんだけど、復帰の目処が立ったから職場の近くで一人暮らししようかなって」
「じゃあコンビニであんたに会えるのもあと少しっすね」
「そうだね……。毎回タイミングが合うわけでもないから、もしかしたら今日が最後になっちゃうかもね」
「え、引っ越す前にお別れしに来てくれないんすか?」
「そこまでするのはちょっと重くない?」
「オレとしてはあんたと会えなくなるの、かなり残念なんですけどねぇ」
ザアザア降りの中を靴が濡れないよう小さな歩幅で並んで歩く。最初の数分こそ申し訳なさでいたたまれなかったけれど、漣くんは話し上手な上に聞き上手でまるで旧来の友人のように話が弾み、普段の倍近い時間をかけて歩く帰路もあっという間に感じられた。漣くんはお店を出てからずっと私の方に傘を寄せてくれるし、こういうこともさらっと言ってしまうから女の子にかなりもてるんじゃないだろうか。早まったかなと一瞬だけ悩んだけれど、あんまり意識しすぎるのも失礼だろう。
「あ、私の家あそこなんだ。……どうしよう、お茶とか飲んでく?」
「いや遅い時間じゃ迷惑になりますし遠慮しますよ……。オレが言うのもなんですけど、あんたもうちょっと警戒心持った方がいいっすよ。オレが送りシャチだったらどうするんすか」
「送り? シャチ?? ってなに?」
「知らないんすか……。ホントにそういうとこっすよ」
もしかして送り狼のことだろうか。聞いたことのない言い回しだったけれど、漣くんの地元ではそういう言い方をするのかもしれない。どうして海仕様に、と考えてすぐに止めにした。海にはあまりいい思い出がない。
お茶は無理でも、せめて傘のお礼に渡せるようなものがなかっただろうかと家の中を覗く。けれどそれとほとんど同時に漣くんのポケットが震え出した。漣くんは着信画面を一目見ると、まるで見てはいけないものを見てしまったような気まずそうな顔で取り出したスマホをポケットへ戻す。
「いいの?」
「かけ直すんで大丈夫っすよ。けどあんま放っとくと後でうるさいんで、オレはもう帰りますねぇ」
「ごめんね、大したお礼もできずに」
「あんたが風邪引かずにいてくれれば充分です。それじゃ、オレはこれで」
あっさりした別れの言葉は今生の別れにしては味気なくて、でも顔見知り程度の関係でしかない私たちにはそれくらいがちょうど良いのかもしれなくて、私はそれが寂しかった。
「漣くん」
名前を呼べば、こんな土砂降りの中だというのに彼は律儀に足を止めてくれる。思わず呼び止めてしまったけれど、言うべき言葉は何も浮かんでいなかった。呼び止めたくせに何も言わない私を不思議に思ったのか、漣くんは家の玄関へと戻ってくる。ポーチライトに照らされて、漣くんの着るシャツの片側が濡れているのが目に入った。
「……元気でね」
そう言えば、漣くんは控えめに笑いながら眉を下げた。きっと困らせてしまったのだろうと思うと急に恥ずかしさが込み上げた。彼はこれまでの人生で何度も女の子と同じようなやり取りをして、同じように眉を下げてきたのだろうから。
「そんな顔しないでくださいって」
やっぱり呼び止めなければよかったとすぐに後悔した。彼にそんな顔で、宥めるような言葉をかけさせたかったわけではなかったのに。思い上がっていたわけではないけれど、私は勝手に彼のことを親しい友人のように思ってしまっていたから。
「また会えますよ」
漣くんはそう言い残して、土砂降りの中へ消えていった。結局この日が、漣くんとの最後のお別れになってしまった。誰にも話せる機会のなかった新知の友人のことを、私は時々、白と黒の怪獣を見るたびに思い出してしまう。