酔いを醒すためだったのか、その光に誘われたからだったのかは、あまり覚えていない。
ただ、談話室内のバーでしこたま飲んだ後に見上げた夜空は、降り落ちるほどの星が輝いていて――そのきらめきにエリジウムは堪らず、くらくらとその場に尻もちをついた。
昔、遥か昔、夜空の月が割れるよりもずっと前、無からこの世が生まれたらしい。爆発とともに世界が拡がって、クォークとレプトン、この世の全てを構成する小さな小さな物質が生まれたのだそうだ。この世界に満ちている、空も、星も、命も、水も、源石も。全て、基は同じ。
……という逸話は、いつだったか、部屋で酒を舐めながらソーンズと話しているときに聞いたものだ。へえ、小さいものに興味あるんだ、と適当に返したエリジウムに、ソーンズはいやと首を振った。
――変化しないものを見ていてもつまらない。
――でも知識としてはおもしろく思ってるんでしょ?
だからほら、僕に話した、とエリジウムはほほ笑んで己を指したことを覚えている。
――お前も知っておいたほうがいいと思ったからだ。
――あはは、僕がリーベリとかエーギルとか気にしてるから? 皮肉だなぁ。
そうだった。あの日、エリジウムは頬に赤黒い痕をつけていたのだ。
ロドス艦はイベリアにほど近い荒地まで来ていた。近くにキャラバンがいると聞いてソーンズと二人出かけたのだ。出会って間もない同室のエーギルと、仲良くなれる機会だと思った。
そのキャラバンの商人はリーベリだった。同じリーベリのエリジウムが連れているのがエーギルだと見抜いた商人は、目元を歪めてソーンズを嘲笑った。威勢は張っていても、結局リーベリの供でなければ買い物にも来れやしない、やはりエーギルは卑しい、と。
撤回しろと憤慨したのはエリジウムだった。ソーンズは口でエリジウムを止めたが、商人が言い返してきて、口論に応じる間もなく頬を殴られた。すぐに周りから人が寄ってきて、エリジウムらは引き離されて、それきりだった。
艦内に戻り、軽い手当てをしてもらって自室へ帰ったエリジウムに、ソーンズが酒の揺れる瓶を掲げて見せた。
幸い口内に怪我はなかったものの、消毒だと嘯かれるままそれを流し込んで、酔いと一緒に愚痴を吐き出し、軽く眠った。星明かりに目を覚まし、飲み直しながらソーンズと取り留めもない話をしたのだ。
――あの男だが、イベリアに深い関わりは無かったようだ。
――そうなの? じゃあなんで、エーギルを差別するようなことを……。
――自分より下の存在を見つけて自尊心を満たしたい、安堵したい、そういうやつは少なからずいる。そこにお前が憤慨するほどの本質などない。過剰に反応するのは、よしておいた方がいい。
――……そうなんだ。でも、君が蔑まれたのは本当で……。
言ってから、はあ、とエリジウムは項垂れた。
――ごめん。僕も結局、君のため、エーギルのためって名目で自己満足したかったのかも。エーギルの君は被差別集団に属している哀れな存在だから、僕が守ってやろうって……心のどこかでは多分そう思ってた。こんなんじゃ、いつまで経っても差別なんかなくならないのに。
君と対等になりたい、と情けなく呟いたことを覚えている。
――星も、水も、空も、僕と君も、もとは全部一緒で――一番小さなものまて溶けてしまえば、混ざり合えるのに。
――溶けてしまったらつまらないんだが。
その男は、夢もロマンも悲壮も、すべて壊してそう呟いた。
その強さがエリジウムには好ましくて、同室だからとか、同郷だからとかではなく、ただこの人と友達になりたいと、そのとき強くそう思ったのだ。
「雨でも降ったのかな……」
そう思うくらい、夜空は相変わらず澄み渡っていた。尻もちをついたままの下半身が冷えてきたのを感じて、エリジウムはふらふらと立ち上がる。
もの凄くいい星夜だ。ソーンズも呼んでやりたかったな、と心の中で呟いた。
今日は珍しく、ソーンズと顔を合わせないまま部屋を出てきた。ソーンズの方が早出とかで先に出ていたのだ。食堂でも、艦内の通路でも彼を見かけず、勤務終わりに談話室へ寄る前に一度戻った自室にも、彼の姿はなかった。
ただ、鞄が部屋に置かれていたから、珍しく先に戻ってきたんだな、とだけ思った。珍しく、どこかへお出かけしているんだなとも。
珍しく――今日はそれが多いなとふと思ったところで、ぺた、と足音のようなものが聞こえ、エリジウムは首を回らせた。光が見えた気がして、ぱち、と瞬きをして見たそれは光などではなく、今思い浮かべていたソーンズその人だった。
「あ、ソーンズ。君も甲板に出てたんだ」
いい星だよねぇ、と大股に歩み寄る。欄干にほど近い場所に立っていた彼は、ああ、と頷くような、俯くような素振りを見せた。
星は上だよー、と彼の頬を手で包んで、無理やり顔を上向かせる。手で触れて、顔を覗き込んでようやく、彼の身体が濡れていることに気がついた。
「えっ、ちょっと、びしょ濡れじゃん……やだなあ、風邪ひくでしょ。どうしたの? あっ、まさか雨の中作業していたとか?」
だめだよ、と文句を口にしながら自分のコートの中を探って、エリジウムはハンドタオルを手に彼の顔面を拭う。
しっとりと濡れたまつ毛の毛先につく玉はひどく美しく見えたが、そんなボケたこと言ってらんない、とめちゃくちゃに拭いて、ほら部屋戻るよ、と手首をつかんで、ぞっとした。
彼はいつもの手袋をつけてはいなかった。ついでに足も裸足で、いつものようにズボンの片方の裾が捲れ上がっていた。その、服の袖や裾から、星の光を弾く水が垂れ落ちてきていた。
ソーンズの服は濡れていなかった。ただ、彼の生身の身体だけが濡れそぼっていた。
ぞくりとうなじを嫌なものが這う感覚から目を逸らした、その視界の隙に、欄干の足元を這う水を見た気がした。