ヴライが風邪を引いた。
何を莫迦な、と思われるかもしれないが、事実である。
発覚したその日、ヴライは何時もより遅い時刻に起き上がり、ふらつく手で宿坊の戸を開け、動けなくなってうずくまっていたところを発見されそのまま自室へと強制送還された。
流行り病の記憶も新しい昨今である。周囲は早々にヒト払いされ、重装備の薬師が部屋にかけつけ、難しい顔でヴライを診察し、
「ただの風邪ですね」
ほっとした様子で告げた。唸るヴライが答えられないぶん、枕元に座るエントゥアが安堵する。
「食事、は、まだ食べられないでしょうから、今は水をたくさん飲んで暖かくして、あとは頭を冷やしてあげてくださいね。熱に効く薬水の作り方を教わったので、材料と配合表を渡しておきますから――」
てきぱき遣り取りする薬師とエントゥアを眺めながら、ヴライは「何ゆえ此奴らが我の部屋にいるのだろう」と考えていた。
やがて薬師が部屋を辞し、近くの部屋の住人に「うつる病ではない」と説明する声が扉越しに聞こえてきた。
「では、薬水を作ってきますから、おとなしくしてくださいね」
「……不要」
「それはお医者様が決めることです」
唸っても、枕から頭の離れぬ状況ではどうしようもない。
エントゥア曰く風邪の原因は明白、らしい。何がだろうか。昨日は朝から教団総出の雪かきに加わり、終えたのちにはそのまま酒盛り、いい気分で寝て――明けて今朝、何故かこの有り様である。
「いつもの格好で雪まみれになって、お酒を飲んで、着替えもせず風呂にも入らず横になって、どうして風邪を引かずに済むと思ったんですか?」
よくよく考えれば酒瓶一本で酔い潰れたのもおかしな話だったのだ、と、エントゥアはぶちぶち言っている。布団から上体だけを起こし、甘いようなしょっぱいような奇妙な味のぬるい水をすすりながら、ヴライは黙って説教を聞く。反論も億劫だった。
もそもそと布団に戻ろうとするヴライをエントゥアが引き留める。
「布団を移ってください」
ほら、と、隣に引かれた布団を示される。エントゥアが薬水と一緒に運び込んできたものだ。
「移って、服も替えましょう。……前にあげた寝間着、一度も使っていないのですね」
行李に押し込まれた完全未使用の服を見つけ、送り主はおかんむりのようだった。ヴライも常であれば「我には不要のものだ」と言い返しているところだ。寝るだけなのに、わざわざ服を替える必要があるだろうか。寒ければそのまま、暑ければ脱いで褌一丁になれば済むではないか。旗長だってそうだそうだと言っている。
と、思うものの。
実際に汗まみれの躰を拭かれ、ヒトより巨きな身丈に合った一枚着を着せられ、寝汗を吸っていない布団に押し込まれると、『快適』の単語を肯定せざるを得なかった。
乾いた枕に頭を預ければ馴染みのあるにおいがする。
元はエントゥアの部屋にあったものだ、と気づくのに特に労力は要らなかった。
月の三分の一ほどは潜っている布団――次の三分の一は自室の、残りは調停者としての赴任先の寝具を使用する内訳だ――に病身を預け、ヴライは茫漠と息を吐く。火神を宿す身としても、熱い、湿っぽい呼吸を。
動く、という気になれなかった。全身が重いから。怠いから。
動く気にならずとも良いのだと――ぼんやりと、そう思えた。額に濡れた布が当てられ、熱を吸い取っては替えられるのを感じた。四肢へと少しばかり力を込めれば動けることは分かっていた。分かっていて、力を込める努力を放棄した。帝に仕える武人にあるまじき醜態、という罵倒を拭うように、冷えた手が熱っぽい肌を撫でた。
ぼんやりと見上げる顔はひどく、酷く感情を堪える表情をしていた。失血で躰が動かなくなり死の近づく経験をしていなければ、「もしやこの熱で死ぬのでは」と勘違いしかねない顔であった。
「この程度では、死なぬ」
声を絞り出すと、薄い躰がびくりと跳ねた。
「……当然です」
くしゃりと歪んだ顔は多分笑おうとしていて、つまりはエントゥアにも分かっていて、ヴライも心置きなく眠れるというものだ。
目を閉じると、上下する胸を布団越しに撫でる気配があった。鳩尾を、腹を、心臓のある場所を。そこに在るのを確かめるように。そこに無いのだと確かめるように。
何時か、何処かで聞いたかもしれない子守唄を耳に、冷たい手へと身を預けた。