「頼んだぜ、アンちゃん」
それが、友の、最期の願いだった。
馬鹿野郎、との罵倒が口からまろび出た。虚ろな目で「兄さまが……兄さまぁ……」積もる塩をかきむしる少女――友の妹――も、毒に焼かれ昏睡を続ける少女――友が仕えた國の後継者――も、友の故郷も、友の國も、民も。彼が守りたいと願ったものは、託されるにはあまりに重かった。
(なんで自分なんだ)
力も、地位も、覚悟もお前には遠く及ばない、自他共に認める怠惰な男に何故託そうなどと、託せると思ったのか。
「この、大馬鹿野郎……!」
塩の中から真白い仮面を取り上げる。塩まみれの服を掴む。
「ハク、さん?」
呆然とした声に構わず背後を振り返る。青ざめ、立ち上がれないくらいに疲弊した双子がいる。
「ウルゥル、サラァナ」構わず問いかける。「お前さんたちの幻術は他人にもかけられるのか。例えば、他のヒトに成りすます、とか」
「可能」
「元の外見が近ければ、更に強固な幻惑がかけられます」
「そうか」
「ハクさん」
ふらふらと少女が立ち上がる。
「何をする気なのです、貴方は、なに、を」
何を。決まっている。頼まれた。自分には重すぎるものを託された。非力で怠惰な、唯の自分には到底守りきれぬものを。だったら。
仮面を握る。ヤマト右近衛大将の象徴であった仮面を、強く。
「自分が、オシュトルに為る」
皇女アンジュを助ける。帝都から避難してくる配下のヒトたちを故郷エンナカムイに迎え入れる。荒れ狂うであろうヤマトという國で、皇女を、民を守る。
『ハク』に叶わぬことも『オシュトル』にならば可能。
今ここで必要なのは『ハク』ではなく『オシュトル』。
だから――「此処で死んだのは『ハク』だった。『オシュトル』は生き残った。『オシュトル』は生きて、姫さんを助け、エンナカムイを守り、ヤマトを守る」
オシュトルの、最期の願いを叶える。
ハクの提案にオシュトルの妹であるネコネが何を思ったか。虚ろな表情からは読み取れず、唯、兄の望みを叶えるために、のろのろと地に落ちた服をかき集め始めた。
これでいいのだ、と思った。
これが最良の選択だと思った。だって、この場で必要なのは右近衛大将オシュトルで、倒れた皇女を守り兵を率いることのできる将であって、無名の、寄る辺ない男などではなかったのだから。
「ハクは、どうしたの?」
自称保護者の問いに幻術が正常に働いていることを確信する。
ハクが死ぬわけがない、あんなに臆病で、狡猾で、生き汚いヒトが死ぬわけがない。
クオンの人物評に「そこまで言うか?」とツッコミそうに――ならない。
此処に在るのは右近衛大将オシュトル。八柱将ヴライと死闘を繰り広げ、その中で友を喪った男。オシュトルが為すべきは、
「これを」
ハクの。クオンから『借りた』鉄扇を差し出す。
「最後に約束を破ってしまって済まない」『ハク』からの言葉を伝える。「お前と一緒に居た日々は本当に楽しかった、と」友に託された伝言を、淡々と。
鉄扇が小さな手へと収まる。
「あり得ない」
向けられる顔は。
怒りに、満ちていた。背後で「姉さま」と喘ぐ声がした。
「貴方ほどの男がいながら……どうして……!」
振り下ろされる鉄扇に、動けなかった。『オシュトル』ならば防げる速度に咄嗟に反応できなかった。だって此処にいるのは武芸百般のオシュトルではなかったから。
だって、クオンが、あり得ないくらいに怒っていたから。
(どうしたんだよ、クオン)
困惑が躰をがんじがらめにする。
仲間であるオシュトルに本気で武器を向けて。そんなに怒って。そんなに、泣きそうな、顔で。
どうして。
ぱたん、と、冷たい感触が肩へと落ちた。途中で力を失った鉄扇が触れ、滑り落ちて、地面に転がる。
ゆっくり。ゆっくり。クオンが後ずさる。呆然と。なにかに、まるで仲間たちに近づくのを恐れるように、よろよろと離れてゆく。
「帰らなきゃ」
何処へ、との呼びかけにも答えず、クオンが去ってゆく。
(待ってくれ)
喉から出かける言葉を噛み潰す。それはオシュトルの台詞ではない。
『もしも』を組み立てる。比較、検討する。
もしも、今、クオンに、クオンにだけでも真実を明かせば。
(だめだ)
被る仮面をきつく押さえる。
それは。その考えは、望みは、オシュトルのものではない。今必要のない誰かの名残りでしかない。
(考えろ、よく考えろ)
確かにクオンは有能な薬師だ。けれど薬師であればエンナカムイにもいる。クオンは隠密衆の大事な戦力だ。けれど他の仲間たちが残ってくれた、一人くらい抜けてもなんとかなる。クオンは、アンジュの、ネコネの、皆の友であった。けれどクオンはヤマトの民ではない。ヤマトの戦に巻き込まれる義理はない。帰れるのなら、故郷に帰るべきであろう。
オシュトルならばきっとそう判断する。
被る仮面をきつく押さえる。
小さな背中が、遠く、遠くなる。
目が覚めて、いちばん最初に触れた手が、届かない場所へと去ってゆく。
待ってくれ。
言葉を、伸ばす手を、仮面ごと押さえ込む。外見よりずっとずっと柔らかな裏側がずぶずぶと沈んでゆく。
これでいいのだと思った。追わなくていいのか、との仲間の問いに、これで良いと答えた。上手くやれた、はずだ。上手いこと『オシュトル』には余計な部分を捨てられた、はずだ。
捨てたはずの手が、地面から鉄扇を拾い上げていた。
「……」
離せなかった。手放すにはその重みは馴染み過ぎていた。「……これは、亡きハク殿の武器。せめて共に戦おうぞ」咄嗟に滑り出たいいわけはまあまあ『オシュトル』らしく聞こえた。
夕陽の先の背中はもう見えなくなっていた。