秘密の陽だまり(書きかけ)白く柔い光に目を覚ます。
それが窓からの日光だと、直感的にはわかっていても、頭が追いつかなかった。
自分の部屋には、日光なんて入らないのだから。
上体を起こして、隣を見やる。
隣で眠る、量の多い黒髪。大きい身体。こうして見ると、少し幼く見えるな、なんてことを考える。
自分よりも、少しとはいえ年上なのに。
全身を満たす怠さと幸福が、現実のそれであることを、隣で寝る彼の頬に触れて、ようやく理解した。
あまり見慣れない天井。
部屋自体は見慣れてきたつもりだったが、こうして朝の光を浴びるのはまだ慣れない。
穏やかな寝息。剛毛気味な髪。体温の高く表面のかたい皮膚。
もぞ、と小さく動いた動作ひとつさえ愛しくて、思わず頬が緩む。
部屋の隅の寝床で、白いもこもこした塊.......ひつじが、動く。
まだ眠そうにしながら飼い主を探すような様子があまりに愛しくて、抱えあげて餌でも与えた方が良いのかと逡巡する。
そうしている間にも、隣で眠る愛しい人は、ゆったりと寝返りをうつ。
この穏やかな時間を、白く眩い陽だまりを。
独占したい、だなんて思うのは、どうしよもない我儘だ。
「.......少しくらい、構わないのだろうか」
額に口付けを落として、自分しか知らない、無防備な頬に、ありったけの愛をこめて。
彼のこんな表情は自分しか知らない。
自分しか知らないということも、自分と彼しか知らない。
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いつだって、厄介ごとは突然やってくる。
それが魔法に関することであれば、何かしらの前兆があったりするのだろうけれど、人の、特に人間の感情が起因することは分からない、とファウストは思っていた。
謙遜ではなく、経験として。
「皆さんに相談があります」
穏やかでじんわりと甘い朝を迎えた、その日の夜。先生役会議の中で、賢者……真木晶が、深刻な面持ちで話を持ちかけた。
ファウストは思わず姿勢を正して、視線を向けた。
「国単位でなく……例えば、その日魔法舎に残っていたメンバーだとか、異変に関係のあるメンバーだとか、様々な顔ぶれで任務に出ることが増えました」
「確かにそうじゃな」「別に悪いことでも無かろう」
むしろ我らは嬉しいもんね、と双子。
「それだけみんなが、所属の垣根を超えて親睦を深めつつあるんだとは思うんです。でも……」
ゆっくり息を吐いて、申し訳なさそうに、けれどきっぱりと晶は言った。
「上手く言えないんですが、連携……チームワーク? なんかが心配で」
賢者の言葉に、一理あるね、とフィガロが頷く。露骨な苦笑を織りまぜて。
「うーん……。例えばだけど、暫く所属国を混ぜて過ごすとかどう?」
あくまでも一案として、とフィガロが笑う。
「……そうだな、良いんじゃないか」
ファウストは逡巡の後に同意してから、もやもやと胸の奥に何かがつっかえた。
所属を混ぜる、つまり全員が、普段と違うメンバーと過ごすことになる、ということだ。
現状、魔法舎の面々に、レノックスとの交際についてバレていないはず。
誰にも言及されていないのだから、きっと隠し通せている。多分。
いや別に、彼との関係が後ろめたいものという訳ではない。
むしろ隠そうとする方が、第三者に知られた時に、後ろめたいのかと指摘されそうではある。それはそうなのだが。
「では、どのように分けますか?」
ふふ、と子どもの提案を聞くようにシャイロックが笑う。
「くじ引きじゃな!」「くじ引きじゃろ」
魔法を使えるのにくじ引きも何も、不正が横行するだろう、と言いかけて、いつだったかラスティカがカップケーキに議題を入れていた件を思い出した。
ちょっとした騒ぎの後に、無事、いや、果たしてこれを無事と言って良いのか、暫くの間を過ごす臨時チーム分けが決定した。
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【臨時チーム分け】
①オズ ブラッドリー シノ ムル
②双子 ヒースクリフ クロエ ルチル
③ファウスト アーサー ラスティカ レノックス
④シャイロック リケ オーエン ネロ
⑤フィガロ カイン ミスラ ミチル
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翌日、夜。初日を終えて、談話室は妙な空気になっていた。
「俺のとこはまあ……大きな問題は無かったよ」
いつもと違って誰も話を切り出さない、いつもの面々での会議。とりあえずと口を開いたのはフィガロだ。
カイン、ミチル、ミスラの三人と、午前は座学をし、午後からは近くの森へ採集に出た、と言う。
話しながらも、微妙に疲れたような顔をしている。ミスラは南の兄弟が居ると何故か大人しくなる傾向があるし、他の二人は言うまでもなく根が真面目だ。大きな問題は無いだろう。比較的。
「我らの生徒はいい子たちじゃよ」
「元気のいい若者は良いのう」
双子のところの生徒は、ヒースクリフ、クロエ、ルチル。
一番手を焼かなさそうなメンバーだし、正直羨ましいなとファウストは思った。
三人とも素直だし、正直なことを言うと勝手をされても三人の魔力総力も少ないので、制止しやすい。危険な任務さえ無ければ、何の問題も無いだろう。
「こちらはなかなか個性的な面々で、教え甲斐があります」
シャイロックは、そう言って優雅に煙管を揺らす。リケ、オーエン、ネロの三人を「教え甲斐がある」で纏めるあたり、流石シャイロックだ。
オーエンに手を焼きそうだが、リケが居るから何とかなりそうだし、実は面倒見のいいネロも居る。なんだかんだ、チームとして悪くなさそうだ。ネロの胃痛は避けられないだろうけれど。
「オズは? 大丈夫そう?」
「……」
フィガロが問うと、オズはそちらをじっと見た。いかにも不服そうだ。彼のところはブラッドリー、シノ、ムルだったか。
普段のオズは、元気印でいかにも真っ直ぐな若者三人を相手にしているのだから、やりにくくて仕方がないのだろうなと思った。
「……夜が来るまでに終われば問題無い」
オズはぼそりと言うが、それは問題無いとは言わないのである。
「ファウストが黙ってるのは珍しいのう」
「どうかしたのか?」
双子に問われて、珈琲を口に運んで何かを誤魔化していたファウストは、言葉を詰まらせた。
「……別に」
努めて平静を装ったが、まあ、良くは無い。
何かそれ以外に言うべきことがあるのか。
言う必要も特に無かろう。早く終わってくれ。何も言わないのもかえって不自然なのだろうか。だけど。
そんなことを思っていると、フィガロが口を開いた。
「みんな疲れてるし、明日は一旦休みにしよう」
元々その予定だったしね、と笑う。
言ってからちらりとファウストに視線を向けたあたり、彼にはあらゆることがお見通しなのだろう。……まあ、仕方ない、多分。彼は何かと無駄に敏いところがあるのだ。
ゆるりと解散になった談話室を出、息を吐きつつ自室へ戻ろうとすると、ぽんぽんと肩を叩かれた。
「やっぱり組み替える?」
オールドブルーの眉を下げて、読めない表情を浮かべたフィガロだ。
「必要ない。……それとも、あの組分けはおまえが仕組んだのか?」
「まさか。そんなことしないよ」
いかにも不機嫌なファウストに、フィガロは思わず苦笑した。確かに面白い結果だとは思うが、わざわざそんなことしない。
肩をすくめて、その気疲れした背を見送った。
「あの、フィガロ」
控えめに声をかけてきた晶に、フィガロは視線を向けた。
「どうしたの、賢者様」
「ファウストは……その、上手くいっていないのでしょうか」
この人は、何に対して言っているのだろう。
今回の件のことなのか、レノックスとのことなのか。
「ああ、そのこと」
とりあえずそう返して、晶の出方を伺った。
「比較的温和なメンバーだとは思うんですが」
「そうだね、各々の能力から言っても悪くないチームだ」
「……」
賢者様は優しい。あの短時間の会議の中で、自分に聞くこととして、「ファウストは上手くいってないのか」という問いを選んだ。
「アーサーが居るからでしょうか」
「……え?」
「ファウストは、その……」
思わず笑いそうになってしまった。想像していた斜め上の心配だ。ああ、そこなの、そういえばそうだな、と思ってから、フィガロは少し自分自身に呆れた。
「なるほどね、賢者様の心配はそこなわけだ」
「どうして笑うんですか」
む、と不機嫌な顔をする晶がなおさらおかしくて、フィガロは小さく首を振る。
「いいや、賢者様は優しいね」
「ラスティカが少しばかり自由なのは分かりますが、まだ……」
「レノは?」
「え?」
きょとんとする晶。どうやら、そんな質問は想定していなかったみたいだ。不思議そうに目を丸めて、フィガロの方を真っ直ぐ見た。
「レノックスはファウストと仲が良いですし、むしろ同じチームでファウストは嬉しいのかと思いました」
「ごもっともだ」
乾いた笑いを堪えて、じゃあね、おやすみ、とフィガロは賢者に背を向けた。
まだ何か言いたげだったが、この話は長引かせない方が良いだろう。
ファウストが嬉しいのではないか、というところまでは合っている。
だけど。
────彼は、たぶんそんなに単純じゃない。
たぶん。
***
同時刻、レノックスの部屋。
「会議お疲れ様です」
「ありがとう」
ハーブティの入ったカップを受け取り、ファウストは無意識に溜息をついた。
「お疲れですか?」
「そう見える?」
聞いてから、ハーブティがやけに脳の神経の隅まで染み渡るのを感じて、口元を緩めた。
「確かにそうかもしれないな」
この部屋にいると、自分の部屋よりも心が安らぐようになった。つい最近のことだけれど。
「俺は楽しかったです」
ふ、と口元を緩めて、レノックスは紅い瞳を細める。
愛想笑いが下手なくせに、こういう咄嗟の笑顔が綺麗なんだ。
焔の色をした切れ長の瞳、かさついた唇、肩を小さく揺らして笑うその仕草、僅かに目を伏せて羊を撫でる様。
その全てがじりじりと脳髄を蝕んでいく感覚に、顔を覆いたくなる。
「……そうか」
何が楽しかったの、と聞くところなのだろうけれど。
目を逸らしてそう返すことしか出来ないのは、たぶん惚れた弱みというやつだ。
どうぞ、と差し出されたクッキーを口にすると、鼻腔に穀物とドライフルーツの香りが抜ける。
南の国のものかな、と一口で分かる。
「美味いな」
この味を好きだと思えるようになったのも、つい最近のことだ。
初めてレノックスから貰った時、素朴なはずの味がひどく眩しく感じて、クッキー一枚を食べ切るのにやたらと時間をかけてしまった。
「さっきルチルから貰いました」
確かルチルの居る組……ルチル、ヒースクリフ、クロエ、双子の五人は、今日は南の国へ任務に向かったのだったか。
南の国の風土に、ヒースクリフは気後れしないだろうか。自分の生徒の心配をしつつ、少し目を伏せた。
「ルチルの学校の生徒からの貰い物だそうです」
どうやらルチルの生徒から、レノックスに、と渡されたらしい。
聞く話によると、南の国の人間たちから、彼はえらく気に入られているようじゃないか。
「……羨ましい限りだ」
「……大丈夫ですか?」
テーブルを挟んで向かいに座るレノックスの大きな手を、ぎゅっと握った。
「少し……疲れたかな」
ぼそりと零すことを、ここでなら許されたい。
何に対して疲れたと感じているのか。
慣れないメンバーで一日を過ごすことにか。それとも。
かさついた皮の厚い手に包み返されて、心臓がとくとくと音を立てる。
じわり、じわり、手のひらから、自分より少し高い体温が流れ込んでくる。
絡められる指、そうっとなぞられる爪、手の甲、手首。
その触れ方に色香を感じてしまい、昨晩の情事を思い出し、背筋が震える。
「どうかされましたか」
「……部屋に帰る」
爪が食い込むほどにきつく自分の手を握って、ファウストは椅子から立ち上がった。
明日は授業こそ無いものの、数日分の準備をまとめてする日だ。これから部屋に戻って、取り掛かる予定にしている。
色に溺れている場合では無いのだ。
「お嫌でしたか」
眉を下げて、目に見えて落ち込んだ様子に、ぎゅうっと胸が苦しくなる。
嫌な訳が無い。むしろ逆だ。
日中、同じ空間にあれだけ居て、授業中に何度も目が合って、あらゆる熱を押し込んで平静を装っていたのだ。
「……そういう訳じゃないよ」
「ですが」
「明日も朝から、授業の準備があるから」
レノックスはきょとんと紅い目を丸める。
その表情は、いつも幼く見える。可愛い、だなんて言ったら、不思議がられるのだろうか。
とん、と厚い胸板に額をあてて、セーターの袖を握った。
干し草と陽だまりの香り。
「きみに触れられると、……昨晩のようなことを期待してしまう」
言いながら、頬をレノックスの胸に当てると、どく、どく、と拍動の音がした。
次の瞬間、背に手を回されて、強く抱き寄せられた。
「……昨晩のようなことは、不本意でしょうか」
「そうじゃない」
だけど。
「……今じゃないだろう」
と言いながらも、その大きな背中に手を回して、ああ、大きな背だなと落ち着いてしまう。
「もう少しだけ」
何かを堪えたような声に、力の入る腕に、熱があることを分からないファウストでは無い。
このまま身を任せてしまえたら。
過ぎった情に蓋をして、ぐっと胸板を押し返して、大袈裟に首を振った。
「駄目だ」
「……すみません」
まるで飼い主に叱られた大型犬じゃないか。
ぐぅ、とみぞおちから下腹部にかけてが切なくなるのを感じながら、
「……また明日」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
きっぱりと言って、レノックスの部屋を出た。
下腹部に籠りつつある熱を何とかしなければまずい。
あの短時間でそうなる自分が気恥ずかしくて、ファウストはそそくさと自室へ戻っていった。
******
「シノ、今日は少し蹴りが軽かったか?」
「そんなことない」
「軽かったというのは少し違うな、えっと……角度が甘かった」
「………おう」
授業や任務もないその日。夜の風呂あがり。オレは、レノックスと風呂の前にした鍛錬の話をしながら、廊下を歩いていた。窓からさす月光は柔く、こんな日はキリキリもしない。
「あ、」
曲がり角で遭遇した人影に、レノックスは足を止める。
「ファウストか」
手に大量の紙を抱えている。ノート、教科書、あとは手帳だろうか。
なんとなく少し、機嫌が悪そうに見える。
「……二人は風呂上がりか?」
「はい」
オレたちを見比べてから、ファウストはそう言った。頷いたレノックスから目を逸らして、帽子を目深に被る。魔法舎の中で、しかも夜なんだから、脱げばいいのに。
「どうした、そんなに荷物を抱えて」
「先生役の会議終わりだよ」
はあ、と小さく溜息をつく。こいつに溜息が多いのはいつものことだが。
「また会議? しょっちゅうやってないか? 暇なのか」
「そう見える?」
こちらを軽く睨んでから、レノックスを見た。レノックスの肩に乗っていた羊が、ファウストの手の中にぴょこんと飛び移る。
なんだ、こいつはファウストにも懐いているのか。
「こら、ファウスト様にご迷惑だろう」
「いいや、構わないよ」
やけに嬉しそうだ。ファウストが好きなのは猫だけじゃなかったのか。
「ふふ。後でクッキーを持っていく。今日、街でネロと買ったんだ」
羊を撫でながらファウストはそう言った。
「え、オレは貰ってない」
「……」
オレが言うと、ファウストは明らかに、まずい、という顔をした。
どうしてレノックスの分はあって、オレたちの分は無いのか。ネロと買いに行っているのに。
「き、きみとヒースの分は、ネロが明日焼くと言っていた」
「そうか、ならいい」
羊をレノックスに返しながら、ファウストはレノックスの髪に手を伸ばした。
「髪はきちんと乾かしなさい。短髪とはいえ、風邪をひくよ」
そのときのファウストの顔は、いつものオレたちへのお節介の顔とは何となく違った。
その何となくの理由がよく分からなくて、後でネロにでも聞くことにした。
クッキーの件もその時に聞こう。
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「え、クッキー?」
「ああ。ファウストが今日買ったって」
夜更け、ネロの部屋。唐突に部屋に来て何か食わせろと言い出した少年に、とりあえず有り合わせで作ったグラタンスープを出しながら、ネロは思案を巡らせた。
確かに今日は、昼一番に中央の市場にファウストと出向いて、食材なんかの買い出しをしていた。その時にファウストが、羊の形のクッキーを見つけて買っていたような気はする。
十中八九、この隣の部屋の住民に渡すのだろうと思ったが、どうしてそれをシノが知っているのか。
「ああ、クッキーね」
明日焼くんだよな、とシノは目を光らせる。
出会った頃からは想像も出来ないような無邪気な色に、己の記憶を偽造して「そういうこと」にしておこうと思った。
「今夜は明日の朝飯の仕込みがあるから、明日な」
言ってから、明日の空き時間がいつだったかと思い返した。
ファウストは一定期間ごとに授業や任務の予定をまとめて配布してくれるので、食事当番を決める時にそれを使っている。
まったく、誰がこんな、活動編成を組み替えるなどと言い出したのか。
リケはまだしも、オーエンが同じチームなのは心臓に悪いし、先生役がシャイロックというのも不慣れだ。
いや、うちの先生の気苦労に比べたら幾分かマシなのだろうけれど。
「ファウストが、レノックスにクッキーを渡していた」
不思議そうな少年の声に、飲んでいた炭酸水を吹き出しそうになる。
非常にわかりやすい出来事だ。
「へえ? 羊飼いくんに」
「ああ。オレ達の分は無かった」
不服そうな声。
そりゃ拗ねるさ。そうもなる。
「渡す時のファウスト、見たこともないような腑抜けた顔をしていた」
今度こそ堪えきれず、ネロは派手に咳き込んだ。
「げふ……っ。腑抜けた、って」
酒を飲んだ時のファウストの、ふにゃりとした表情を思い出しながら、こめかみをおさえた。
「ああ。弱そうだった」
なんてことを言うんだこいつ。面白いやら、友人を案じるやらで、ネロはぐるぐる悩みながら、とりあえずざっくりと焼いたスコーンをシノに差し出した。
「ほら、スコーンが焼けたぞ」
「クッキーは明日なのにスコーンは今なのか」
「朝食の準備の余りで焼いたからな」
ベーコンの切れ端や刻んだパセリを入れた小ぶりなそれで、代謝もよく活動量も多い少年の胃が満たされるとは思えないが。
「美味いな」
良い食べっぷりに、頬が緩む。
グラタンスープを飲み干し、スコーンも食べ切ると、シノは席を立った。
「ごちそうさま。美味かった」
「ん、しっかり寝ろよ」
「おう」
シノを見送ってから、ネロは天井を見上げた。
多分ファウストは、隠しているつもりなのだ。何とは言わないが。
「はー……」
恐らく晶ならこう言う。「そういうことになってるんですか?」と。
やれやれと肩をすくめて、自室の卵を使い切ったことを思い出し、キッチンに行こうと部屋を出た、その時。
「……え」
「あ……ファウスト」
隣のレノックスの部屋から、ちょうどファウストが出てきたところだった。
「……よお」
「何」
「いや、それはこっちの台詞なんだけど…… 」
自分は自室から出ただけなのだ。それで、偶然会った友人にそんなに嫌そうな顔をされると、どうも悪いことをしたような気になる。
「……そうか」
気まずそうに頷いてそそくさとその場を去ろうとする友人を、呼び止めるべきか否か考えて、ネロは押し黙った。
ファウストとはそこそこ親しくなったつもりだが、こういう時はどうすればいいのか。
五階から降りてきた自分と、三階に向かう彼が鉢合わせたこともあったな。あれは……待て、あれはいつのことだ?
彼らが交際を始めたのは恐らく数ヶ月前で……?
「何、僕の顔になにかついてる?」
「ああ、いや、なんでも無い」
「そう。……おやすみ、ネロ」
「ああ、おやすみファウスト」
いつもそうだ。曖昧に誤魔化して、それとなく距離をとって、都合の良い友人に徹している。
自分たちは多分それでいい、それがいいんだ。
くしゃりと頭をかいて、ネロはキッチンに足を向けた。
卵のついでに、良さげな酒があれば拝借するとしよう。
(つづく)