薔薇色の眼鏡で にぎやかだったレノックスの誕生パーティーがお開きになり、ファウストは自室へと戻ってふうと大きく息をついた。少し飲みすぎたのか、顔がじんわりと熱くて気分がふわふわしている。部屋の窓を開けると涼しい夜風が頬に心地よかった。
なんだかこのまま眠ってしまうのはもったいないような。良い夜だった。
窓から少しだけ顔を出してファウストが目を細めていると、すぐ眼下でも窓を開けた気配がする。ファウストは笑いながら身を乗り出して声をかけた。
「レノ?」
「……ファウスト様?」
声が聞こえたのか、今宵の主役だった黒い頭が窓からひょっこりと飛び出した。
頭をぐるりと回して真上のファウストを見つけ、レノックスは驚いたように声を上げた。
「ファウスト様、まだ起きていらっしゃったんですね」
「君もな。……眠れないのか?」
夜の静寂の中で階を挟んでの声はやけに響いてしまって、二人とも内緒話のように声を潜めた。
「なんとなくまだ目が冴えてしまって……あの、もしよろしければそちらに伺って少しお話ししてもいいですか」
「あぁ、構わないよ」
レノックスは魔法舎で国を問わず頼られ慕われている。パーティでもずっと人に囲まれて賑やかに過ごしていたのを知っているから、きっと疲れているだろうと思っていたけれど、拒む理由はない。ファウストが小声で応じると、レノックスは微笑んで部屋の中へと姿を消した。
ほどなくしてファウストの部屋に小さくノックの音が響いた。
「どうぞ」
魔法で扉を開くと、レノックスは静かに扉の中へと滑り込む。
「ワインがあるけど、もう少し飲むか?」
「はい、いただきます」
ファウストはうなずいて、とっておきの赤ワインをあけて魔法で取り出した二つのワイングラスに注ぐ。開けたままの窓からさわやかな風が吹いて、燭台の炎をやわらかく揺らした。
「美味しいですね」
「あぁ」
「あの、メガネのこと、ありがとうございました」
小さく乾杯をして一口飲むと、レノックスはワイングラスを置いて改まった調子で口を開いた。
「それは昼間も礼を言ってくれただろう」
「はい、でも本当にうれしいので」
実直な彼らしく生真面目に言われると、思わずこちらの口元も緩む。
レノックスの顔を彩るそのメガネは、瀟洒なツルも細いフレームもいつもの印象とは異なるけれどよく似合っていた。自分たちの見立てが間違っていなかったことに満足して、ワイングラスを傾けてふふ、と笑いを漏らす。
「まぁ、東の国の皆からの贈り物だからな」
「はい、ありがとうございます」
「実は、僕個人からもなにか、と考えていて……」
照れくさいながらもファウストが告げると、レノックスはぱちりと目を瞬かせた。
「ラクレット用のチーズが旨い店があると聞いたんだ。日持ちがしないから、君の予定を聞いてから買いに行こうと思っていて」
「……ファウスト様が買ってきてくださるんですか」
「そりゃ、そのつもりだけど」
目を丸くして驚いた顔で問うレノックスに、当たり前だろ、と返す。
「君も僕の誕生日にあたたかいセーターをくれただろう。僕から君に贈り物をすることがそんなにおかしいの」
「いえ、おかしいとかではなく、あの……すごく、嬉しいです」
ファウスト個人からのプレゼントを全く想定してなかったという表情のレノックスに、む、とファウストは口を尖らせたが、野の花がほころぶように嬉しそうにはにかむレノックスの様子を見てまぁいいか、と口元をゆるめた。
「ちょうど二人で飲もうかという話をしていただろう。君が夜に空いている日を教えてくれたらそれに合わせて準備しようと思うんだけど」
「あの、……」
レノックスが迷うように視線を彷徨わせたあと、おずおずとファウストを見つめて口を開く。
「……お願いがあるんですが」
「なに?」
欲しいものを問われた時になにもいらないのに、と悩むような男の珍しい『お願い』にファウストは首を傾げた。
「できれば、買いに行くところからご一緒してもいいですか」
「そりゃ、構わないけど……」
プレゼントを買いに行くのに当の本人も?とも思うが、そのほうが細かな好みも聞けて良いかもしれないなとファウストは鷹揚に頷いた。
「それなら、そのお店はレストランも併設しているらしいから昼食でも食べていこうか」
ふと思いついたファウストの提案に、レノックスはまた大きく目をみはってから、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます……楽しみです」
そんなに礼を言われるほどのことではないと思いながらも、てらいなく告げられる言葉にくすぐったい気持ちになり、ファウストはふふ、と笑いながら口を開いた。
「君、そうやってちゃんと笑えるのに愛想笑いはあんなに下手なんだな。……そうだ、さっきのアレ、やらないの」
「アレ……やったー、ですか」
「それそれ」
妙に力のこもった表情としぐさにそぐわない陽気なセリフを繰り返されて、くすくすと笑ってしまう。
「わーい、もあります」
表情を変えずに続けるものだから、笑いが止まらず滲んだ目じりを拭う。
「それもシノの入れ知恵か?」
「はい、教えてもらいました」
ころころと笑うファウストを見つめて、レノックスは少し迷ったような素振りをしながら口を開いた。
「……実は、先ほど賢者様が部屋にいらっしゃってたんです。今日一日、皆が祝いの言葉をかけてくれて、本当に楽しくて、賑やかで……部屋に帰って一人になったら少しだけ寂しい気持ちになってしまって」
レノックスの表情が少し翳る。饒舌ではない彼が紡ぐ言葉にファウストはじっと耳を傾けた。
「賢者様とお話をして寂しさはなくなったんです。そうしたら、貴方のお声が聞きたくなって。たまたま窓を開けてお声が聞けたら顔が見たくなって。今だって、プレゼントを考えてくださっただけですごく嬉しいのに、選んでくださる貴方のそばにいたくて」
うん、と、ファウストのうつ相槌がやわらかく闇に溶ける。
「俺は欲深くなっていて……いつかは貴方に呆れられてしまうかもしれません」
そんな自分に戸惑うように、テーブルの上でレノックスの手がぐっと握り締められる。いつも穏やかな紅い瞳が迷子の子供のようにゆらゆらと揺れた。
「レノ」
ファウストは名前を呼んで、レノックスの大きなこぶしに骨ばった自分の手をそっと重ねた。はっと視線を上げたレノックスに、いいんだよ、と頷く。
たしかに、四百年前に出会って別れた頃の彼はそんなふうには言わなかったかもしれない。
それは、旅や南での生活の間で彼が育んだもの。賢者の魔法使いとして今とこれから育んでいくもの。
そして、その中でも変わらないもの。彼の優しい誠実さや真摯でまっすぐな心。
心は時として複雑だけれど、彼のそれは屈折や虚飾とは違う。多面的で、それは豊穣のような豊かさだとファウストは思う。
変わるといえば、自分だってそうだ。もう軍の指導者でも革命家でもない。そして魔法舎で暮らしだしてから少しずつ変わっていくものがある。
あの不思議な店で料理を食べて二人で話すまでは、レノックスの四百年を無用に消耗させてしまったと再会した彼を見るたびに負い目と贖罪の気持ちが強かった。今でも彼の優しさを自分が受け入れていいのか悩むけれど。でも、彼の旅路を、人生を、ただの重荷や受難のように捉えて否定してしまうのは誠実ではない気がするから。
知っていきたい。それが穏やかで優しいだけの話じゃなくても。贖罪ではなく、ただひとりの魔法使いとして彼とまっすぐ向き合うために。
「まだまだお互いに知らないことがいっぱいある。……当たり前だな」
ファウストがつぶやくように言葉を吐くと、レノックスがはい、と小さな声でうなずいた。
「これから知っていけばいいさ。時間はたっぷりあるし」
ファウストがグラスを傾けて、レノックスの瞳のような深いルビーレッドを光にかざす。レノックスは深く息をついたあと、急に眉を寄せて考え込むように黙り込んでうつむいた。
「どうした?」
「あの、割としょうもない部分もあるので全部ファウスト様に知っていただいたほうがいいのかは、ちょっと……」
レノックスがやけに神妙な顔をして真面目に言うのでファウストは声を上げて笑ってしまった。
「いいよ」
「え、」
「君のしょうもない部分もちょっと見てみたいから」
ファウストは悪戯っぽく笑ってワインをぐいとあおって飲み干した。ふと目線を戻すと、レノックスはぼうっと惚けたような顔でファウストを見つめていて、妙に気恥ずかしくなって目線をそらす。
「なに」
「いえ……俺も、ファウスト様のこと、もっと知りたいです」
先ほど重ねた手を、逆にぐっと握られた。
レノックスの掌はあたたかくて、包みこまれる安心感がある。それなのに急に自分の心臓が跳ねてしまってファウストは戸惑った。飲みすぎたせいだろうか。
こちらをやわらかく見つめるレノックスの紅い瞳が宝玉のようにきらめいていて、ファウストは思わず目が離せなくなってしまった。
窓の外では《大いなる厄災》がひときわ美しく輝いて二人を見下ろす。長い夜になりそうだった。