君にとっての僕の存在 灰色に沈む砂浜に、足跡が一つ、二つと増えていく。
頬を撫でるのは、潮の香りを乗せた海風だ。鼓膜を揺らすのは、さざ波の音だけだった。
昼間ならば、この砂浜も海水浴客で賑わっているのだろう。だが、真夜中も近いこの時間に歩く影は、たったの二つのみのようだ。
前を歩く裸足の彼女は、両手にサンダルをぶら下げていた。
宮野志保。彼女が海に行きたいと言ったから、今、二人はここにいる。
とは言え。どこかドライブでも行こうか、と持ちかけたのは、降谷の方だった。
一週間前のことだ。捜査協力依頼のため、降谷は志保の自宅アパート兼ラボを訪れた。
志保の表情は、何も聞かなくても分かるくらいに沈み切っていた。プライベートで何かあったのだろうことは、明白だった。
喧嘩したの。
志保は、ぽつりとそう言った。誰と? なんて、尋ね返す必要はなかった。
彼女には恋人がいる。春、卒業を機に付き合い始めた、大学時代の同級生だ。
どうやら、今回の喧嘩は長引いているらしかった。
だから。気分転換になれば、と思い、誘った。
他意などなかった。たぶん。恐らく。
「ありがとう。連れてきてくれて」
波打ち際で足を止め、志保は降谷を振り返った。
「いや。こんな夜にしか時間作れなくて、ごめん」
「ううん。私、夜の海も静かで好きよ」
好きよ、って。そう微笑む横顔には、昼よりも夜の海の方が似合っているような気がした。
つまり。眩い太陽の下、彼女を満開の笑顔にできる男は、自分ではないのだ。
そう思い知らされたような、そんな気がした。
胸に燻る、彼女を想う恋心。
自覚したのは、つい先月のことだ。
だからと言って、どうすることもできずにいた。持て余している気持ちには、しっかりとブレーキを掛けたままだ。
彼と喧嘩したと聞けば、これまでと同様、優しい顔をして励ますのみだ。
志保が腰を落としたから、降谷も隣にしゃがみ込んだ。
足先ギリギリまで波が寄せ、また静かに引いていく。もう一度寄せては、引いて。しばらく口を閉ざしたまま、ただぼんやりと、その様子を眺めていた。
「あのね、降谷さん」
「ん?」
「……実は、貴方にまだ言えてないことがあって」
そっと、視線の先を隣へ移す。志保は俯き、寄せる波をまだ見つめている。
「別れたのよ。彼と」
「……えっ」
声が詰まった。
都合のいい幻聴だろうか。まじまじと志保を凝視してしまう。
「え、その……いつ?」
「一昨日。黙っててごめんなさい」
「いや。別に謝る必要はないけど……」
「面倒になっちゃって、私から振ったのよ。揉めるかと思ったんだけど、案外あっさり終わっちゃったわ」
何だかあっけらかんとした言い方だった。
喧嘩の原因は、彼の束縛が強くなったことだと言っていた。何故そんなことになったのか、志保には身に覚えがないらしかった。
束縛をする。それは恐らく、嫉妬心に由来している行動だ。
彼女には身に覚えがなかったとしても、実のところ降谷にはあった。
先月。仕事の関係で、志保をデートの待ち合わせ場所まで送ってあげたことがあったのだ。大学生探偵である工藤新一も居合わせていた。
志保の恋人であったその男は、彼女とともに現れた二人の男のことを、明らかに敵視していた。新一は既に、志保と彼との関係が長続きするものではないということを見抜いていた。
「一昨日、か。大丈夫?」
「それが、思ったよりも平気なのよね。前々から、ちょっと噛み合わないなって思うこともたまにあったし。学生時代、まだ友人関係だった頃はそうでもなかったんだけど」
「……そうか」
「そういうのに気づかないフリをしてたの。……私も、きっと彼も。だから、大丈夫よ」
志保はようやく顔を上げ、こちらを見た。思ったよりも、晴れやかな表情をしていた。
けれど。それならば、一つの疑問が浮かび上がってしまう。
「別れたこと、どうして僕に隠してたんだ?」
責めるつもりは毛頭ない。純粋な疑問だった。
志保の中で既に踏ん切りがついているなら、隠す必要などない筈だ。
この海岸まで車を走らせていた道中。今日のことについて打ち合わせた、昨夜の電話。真実を伝えるタイミングは、いくらでもあっただろう。
「何だかちょっと、言いづらくて」
「言いづらい?」
「ええ。彼と何かあるたび、降谷さんにはずっと話聞いてもらってたし。彼と会うための浴衣だって、買ってもらったし。それなのに、あっさりこんなことになっちゃって、申し訳なくて……」
ぱちぱちと目を瞬く。志保が述べたその理由は、想定外だった。
申し訳ない、か。
そう感じなければいけないのは、こちらの方なのに。
知らず、口元を緩めてしまっていた。何故笑われたのか、志保は分からないのだろう。今度は、彼女の目が丸くなった。
「君がそんなふうに気に病むことなんて、何もないよ。そんな心配、必要ない」
「へ?」
「優しい顔をして君の話を聞きながら、僕はこう思っていたかもしれない。そんな男となんて、さっさと別れちゃえばいいのにって」
「……え」
「僕なら、そんなことで悩ませたりしないのにって」
す、と、真っ直ぐに手を伸ばす。指先で、赤茶色の横髪を掬い取る。
視線と視線が絡み合う。
さざ波の音さえも、耳の中には入ってこない。
さらり、さらり。指の隙間を、滑らかな髪が零れていく。
……だが、今日はここまでだ。
「大丈夫。きっとまた、心から好きだと思える相手が現れるよ」
にっこりと口角を上げる。手のひらで、志保の頭頂部をぐるりと撫でる。
その手を膝の上につき、降谷はその場に立ち上がった。
「帰ろうか」
「え? ええ」
志保はどんな顔をして、こちらを見ているのだろうか。
確かめる勇気がなくて、慌てて追いかけてくる小さな足音だけを、ただ背後に聞いていた。
今日のところは、ここまでだ。
でも、明日からは違う。
偽りで塗り固めた、優しい顔はもう終わり。
竦んでいた足先は、ブレーキからアクセルへ。
恋は、ここから走り出す。