当たり前にそばにいること 夏が終わる。
春の終わりよりも、秋の終わりよりも。そして冬の終わりよりも、何だか少し寂しく感じる。
今年の夏は、特にそうだ。
夏と一緒に、ひとつの恋が終わりを告げたのだ。
「エアコン、つけてるのか?」
この部屋を訪れ、開口一番に降谷は言った。
「ええ。今日、結構暑かったでしょ」
「昼は暑かったけど、今は結構涼しいぞ」
ぱらり、ぱらり。志保が手渡した書類をゆっくりと捲りながら、彼はぽつぽつと呟いた。
降谷零。公安の警察官である彼が手にしているのは、彼から協力依頼を受けていた薬物の成分解析結果だ。
事前にデータでの受け渡しは済んでいる。本日の用件は、正式な書類の提出のみだった。
「私、お昼にしか外に出ていないの」
取引先との打ち合わせは、先方の会社にて昼過ぎには終了していた。職場を兼ねている自宅へと帰宅して以降、志保は窓すら開けていない。
時刻は午後九時を回っている。傾いていく太陽も、真っ赤に染まる夕焼けも、闇が沈む夜空だって、今日は見た記憶がない。
リビングに立ち尽くしたままの降谷の横をすり抜けて、志保は掃き出し窓に手を掛けた。この家で一番大きなその窓を、カラカラと音を立てて開く。
途端、網戸越しに涼やかな風が入り込んできた。たった一陣の風で、澱んでいた室内の空気が変わったような。そんな気がする。
「ほんとね。涼しい」
「だろ?」
知らぬ間に、両手をスラックスのポケットに突っ込んで、降谷が隣に並んでいた。書類はテーブルの上に置いてきたようだ。
「秋の風だな。残暑ももう終わりかな」
「そうね。秋服が欲しくなるわ」
「秋服?」
「ええ。あんまり持ってないのよ。この時期の気候って長く続かないでしょ? 在宅勤務の日は別にいいけど、外に出る時とか、休日とか、いつも服装に悩むのよね」
「なるほど。じゃあ、今度一緒に買いに行こうか」
流れるような誘い方だ。
と言うか。誘われたことにすら気づかないまま、頷いてしまうところだった。
志保は俯き、目の前の戸の細かな網目だけを見つめた。
「……貴方、忙しいでしょう」
「ううん。そんなことないよ」
「けど……。貴方と一緒に買い物に行く理由なんて、別にないし」
「へぇ。理由がないと駄目なんだ」
つい見上げてしまったその先で、降谷の唇が吊り上がった。
夏と一緒に、ひとつの恋が終わりを告げた頃からだろうか。こういうことが増えていた。
こういうこと、とは。
端的に言えば、思わせぶりな発言、である。
降谷と二人で出かけたことなんて、いくらでもある。こうやって自宅で二人きりになることだって、数え切れないくらいあった。
恋人と、つまりは別の男とデートをするための服だって、選んでもらったことすらある。
どんな形であれど、その時は目的も理由もあった。しかし、今は何もないのだ。
二人の時間を作る理由は、何もない。
けれども。
二人の時間を作ってはいけない理由だって……本当は、ない。
志保は上手く返事ができないまま、逃げるようにキッチンに引っ込んでしまった。
振り回されている、と思う。以前は、こんなんじゃなかったのに。
もっと自然に、隣にいられたのに。彼も、もっと優しかったのに。
リビングへ戻ると、元いた場所に降谷の姿はなかった。
網戸は閉じられ、窓は開いたままだ。その網戸の奥に、彼はいた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
お茶を淹れる、という言い訳のもと、志保はこの場を離れていた。ベランダへと出た志保は、そこに立つ降谷の手元に、右手のマグカップを差し出した。
「え、つめたっ」
「あ、ごめんなさい。中身、麦茶よ」
「麦茶か。びっくりした」
一口だけそれを飲み込み、降谷は口元からカップを離した。
「朝、いっぱい沸かしちゃったから余ってるのよ。やっぱり温かい方がよかったかしら」
「いや。大丈夫だよ」
降谷が視線を空へと移したので、志保もつられて頭上を見上げた。
澄み渡った濃紺。きらりと小さく瞬く星たち。ぽっかり浮かんだ、上弦の月。
「月、綺麗に出てるわね」
「そうだな」
「中秋の名月は、いつだったかしら」
「確か、次の土曜じゃなかったかな」
ゆっくりと麦茶を啜り、欄干の上に両腕を預ける。チラリと、降谷の横顔を盗み見る。
今夜の月みたいな色だ。
さらさらと風に揺られている髪を見て、そう思った。
見慣れている横顔だ。
同じ書類に目を通しながら、議論をしているとき。
車に乗せて、送り届けてくれるとき。
温かな眼差しで、励ましてくれるとき。
……だけど。
今、初めて、その横顔を綺麗だと思った。
いつも、隣にいてくれたのに。当たり前に、そばにいたのに。
どうしてだろう。そう考えて、ふと気づく。
どうして、なんて。
本当はもう、分かっているのではないか、って。
「次は、温かいミルクティーでも淹れるわね」
カップを両手で握り締め、ぽつりと呟く。夜空を映していた降谷の瞳に、志保の横顔が映り込む。
「次?」
「ええ。秋服でも買って、夕食に秋の味覚でも食べて。またここで満月を眺めながら、お喋りするの」
「へ……」
「次の土曜日は、今日よりも冷え込んでるかもしれない、し」
右側から、痛いほどの視線が突き刺さっている。恐る恐る、そちらへと目を向ける。
ああ、そうか。
二人の時間を作る理由、なんて。
この瞳だけで、十分だ。
「ありがとう。楽しみにしとく」
認めてしまえば、聞き慣れたその声さえも甘く響いた。頷くことさえも、何故だか一生懸命になってしまった。
手の中の冷えたカップが心地よい。
冷たいのにしてよかったなって。そう思いながら、残った麦茶を一気に喉へと流し込んだ。
夏が終わる。季節が変わる。
優しく頬を包み込む、秋風みたいに。
静寂を湛えた、月明かりみたいに。
いつの間にか、恋はそこにあったのだ。