それは 花の香りだけが知っている「おや、スタルーク王子」
なるべく人に見つからないように歩いていたはずなのに、明るく爽やかに呼びかけられてスタルークはこわごわ、振り返った。
手を降って駆け寄ってくるのは、隣国フィレネの第一王子だ。見るからに華やかな空気をまとったアルフレッド王子はスタルークの最も苦手とする部類の相手だったが、心ひそかに想う女性の兄でもある。無視して振り切るわけにもいかず、スタルークはぺこりとアルフレッドに頭を下げた。
「ど、どうも……こんにちは、アルフレッド王子」
「ごきげんよう。おや、君もこれをもらったんだね」
「はあ。朝一番に、渡されました……僕のような対して可愛くもなんともないボロ布のような男に、こんな可愛らしいものはもったいないとおもうのですが」
「そんなことはない、よく似合っているじゃないか。うんうん、スタルーク王子は子犬のようだと思っていたが、猫でもいけるね!」
何がいけるのかスタルークにはよくわからなかったが、アルフレッドが褒めてくれるものを否定するわけにもいかないので恐縮です、と頭を下げておく。そうしてからからと笑うアルフレッドの頭にも、同じようなものがひょこんと飛び出していた。
猫の耳だ。正確に言えば猫の耳を模した髪飾り。
我らが神竜様が、新たに入荷したこの動物の耳をいたく気に入ったらしく、方々に配っているのだという。今朝方挨拶をしてきた兄の頭にウサギの耳がついているのを見たときは、部屋を間違えましたと入り直すくらい驚いたが、誰も彼もが動物のつけ耳をしているものだからスタルークもすっかり慣れてしまった。
「アルフレッド王子も、そのう……よくお似合いです」
「そうだろうそうだろう。猫といえばしなやかな筋肉! 僕もせめてカフェテラスの屋根から飛び降りても大丈夫なくらいには鍛えておきたいね」
「あー……はい。ええと、応援しています」
アルフレッドから放たれる圧倒的な陽の気は、スタルークなんて消し飛ばしてしまいそうだった。相手がアルフレッドでなければ自虐に自虐を重ねて早々に退散するところだが、そうできないからこそスタルークの中の苦手意識はなくなってくれなかった。
「そうだスタルーク王子。お互い猫耳を与えられた者同士、これから一緒に走り込みでもどうかな。君はブシュロンの弟子を名乗っているんだろう?」
「はっ、はひ……すみません、僕なんかがあなたの臣下の貴重な時間を……すぐに地中にでも潜って分解されてきますので!」
「いやいや、僕は嬉しいんだよ。スタルーク王子はなかなか見る目がある。ブシュロンの筋肉は、フィレネの国宝と呼んでもいいくらいだからね」
にこにこと笑っているアルフレッドが、本当は腹の底の知れない相手だとスタルークは気づいている。だから迂闊なことは言えないと警戒しているものの、今のアルフレッドは何の裏もなく素直に会話を楽しんでいるようだ。確かに彼の臣下のブシュロンにスタルークは筋肉鍛錬を面倒を見てもらっていて、師匠とも仰いている。ブシュロンの面倒見の良さと見事な体躯を見込んでのことで、それをアルフレッドは喜んでくれているようだった。
「僕のようなゴミ虫に、そのようなお誘いは大変光栄なのですが……この後、用事があるもので……すみません」
「おや、そうなのか。残念だが、また次の機会に是非」
「ぜ、是非」
アルフレッドの勢いについていけるかどうかは不安しかない。ブシュロンよりも更に過酷な鍛錬を行っていることで有名だったから、次の日は動けなくなるくらいの覚悟はしておくべきだ。
「そうだなあ。走り込みの後にプールで水練もいい。君は泳げる方かい?」
「人並み、には……」
「うんうん、いいね! では専用のメニューを組んで――……」
「アルフレッド、アルフレッド、どこにいますか?」
「……おっと、神竜様が呼んでいるね。名残惜しいが行かなくては」
広場の方から神竜様の呼ぶ声がして、ぱっとアルフレッドが振り返る。どんなに話が盛り上がっていても、彼にとっては神竜様が最優先だ。彼と神竜様が単なる友人以上の絆を築き上げていると、ソラネルにいる者なら誰だって知っている。
「では、僕はこれで失礼するよ」
「は、はい。あの、僕もお話が出来てよかったです」
「それは何より! セリーヌとも仲良くしてもらっているし、スタルーク王子とはいずれもっとゆっくり話をしたいと思っているんだ」
やけに意味深な言葉は、スタルークが彼の妹に寄せる想いを分かって言っているのだろう。ようやく解放されると内心安堵するスタルークの肩をアルフレッドはすれ違いざまにぽんぽんと叩き、端正な顔に少し意地悪な笑みを浮かべて囁いた。
「ああ、伝え忘れていた。セリーヌは猫派なんだよ。よかったね」
「ぅえ……! な、にゃんでしょれをぼくに!?」
「さて、ね。それでは、ごきげんよう」
なんでわかったんですか、と言いそうになるところを無理やりごまかしたものだから盛大に噛んだスタルークに笑みを深め、アルフレッドは猫耳を揺らしながら上機嫌に立ち去っていった。
すらりと背を伸ばした綺麗な姿勢の背中が見えなくなるまで見送ってから、スタルークはようやく肩の力を抜く。そう意図していたわけではなくとも、警戒と緊張とで肩はがちがちにこわばっていた。
「なんて人だ。うう……僕の薄汚い心が光で消し炭にされるかと思いました……」
今もまだ心臓がバクバクと跳ね回っている。スタルークは単に用事としか言わなかったはずだが、それをアルフレッドは妹と会うのだとはっきり見抜いていた。それを直接言わず、あんなすれ違いざまに突きつけてくる辺り少し意地が悪い。
「いや、でもセリーヌ王女がアルフレッド王子に伝えていた可能性もあるし……あれはもしかしてセリーヌ王女に無礼を働いたら全身の骨をバッキバキに砕くぞという脅しだったのかも……? でもあんなにいい人がそんな脅しをかけてくるなんて思えないし……ううう……」
スタルークの気持ちを知られているとしてもアルフレッドは概ね好意的だ。妹に近づくなと言うわけでもないし、あからさまに遠ざけようという意図も感じない。むしろ応援してくれているような気さえしてくる。では何故あんなすれ違いざまに言い残していったのだろうか。
単にからかわれただけという発想に至らないスタルークは、キリキリと痛む胃をさする。約束の時間はもうすぐで、考えている暇はない。
別にアルフレッドにそう言われたから外さないわけじゃない。自分に総言い訳して待ち合わせ場所へ向かうスタルークの頭では、ふさふさの猫耳がひょこんと揺れていた。
(そろそろ約束の時間かしら。ポットのお湯は……うん、まだ大丈夫ね)
ポットのお湯が冷めていないか確かめて、セリーヌは椅子に座り直した。そろそろ約束していた時間で、律儀なスタルーク王子はいままで遅刻したことは一度もないから、もうすぐやってくるだろう。
「今日のお茶は、喜んでくれるかしら」
スタルーク王子を招いてのお茶会は何回目になるだろうか。回を重ねるごとに、セリーヌにとって楽しみで待ち遠しい時間になっている。お互いの兄を守ろうと誓い合ったあの日から、セリーヌの心の大事なところにスタルークという少年はすっかり収まってしまっていた。
セリーヌにとって一番身近な男性でもある兄はいささか賑やかすぎるから、スタルークの穏やかさや優しさは、思った以上にセリーヌの心に染みたのかもしれない。最初の夜、眠れないセリーヌを彼が気遣ってくれた日に降り注いでいた月光のような柔らかな印象は、どんなに彼が情けなく自己否定する姿を見ても全く変わらなかった。少なくともセリーヌの前で彼は過剰な自虐をしなかったし、そうしようと意図しているのも伝わってきていたから。
スタルークはセリーヌも守ってくれようとしている。弓を得手とし、何なら前線で剣を握り戦うのはセリーヌの方が得意なのに、それでもセリーヌの前に出て庇おうとしてくれる。あなたを守りたいのですと言外に言ってくれるからこそ、セリーヌも彼を守りたいと強く思っていた。
こうして彼とお茶会を開くのは、スタルークの優しさに触れていたいからかもしれない。セリーヌは自分が見た目の与える印象以上に苛烈であるという自覚がある。兄と祖国の平穏のためなら流血すら厭わない自分の強さを後悔はしていないしただの女の子になりたいとは思わないが、これでいいのかと自問することはあった。王女である自分を否定はしたくない。けれど、時々疲れてしまう。
スタルークとの優しい時間は、そんな自分を王女という立場のまま、ただの少女に帰してくれるような気がしていた。
「あ……あの、お待たせしました、セリーヌ王女」
「スタルーク王子。いいえ、私も用意を終えたばかり――……まあ」
やってきたスタルークの姿を見て、思わず目を丸くする。照れくさそうに彼が掻いている頭のてっぺんに、ひょこんと揺れているのは猫の耳だ。もちろん本物ではなく作り物だろう。
「可愛い! どうなさったんですか、それ」
「はは……神竜様から朝、渡されて。アルフレッド王子も着けていましたが、ご覧になっていないのですか」
「お兄様とは早朝の鍛錬に出かけるのを見送って以来会っていないですね……ふふっ、とてもよく似合っています、スタルーク王子」
「い、いえ。僕のようなものが着けても無骨なだけですし」
照れるスタルークは、お世辞を抜きにしても可愛らしかった。穏やかで優しい風貌の彼が猫の耳を着けると、少しつんとした雰囲気が加わる。その甘えん坊の猫のような風情が、なんとも言えない可愛らしさを醸し出していた。
「は、外したほうがいいです……よね」
「いいえ。是非、そのままで。どうぞお掛けください、今紅茶を淹れますから」
「失礼します」
今日用意したのは、フィレネでも特に南の方で採れる茶葉だ。気持ちを穏やかにし、憂鬱を払ってくれる。戦いが激しくなっていく中で少しでもスタルークの眠りが穏やかになるようにと取り寄せたものだった。
「どうぞ。お口に合えばいいのですけれど」
「ありがとうございます。セリーヌ王女が淹れてくださる紅茶はとても美味しいので、いつも楽しみにしているんですよ」
「そう仰っていただけると嬉しいです。さあ、どうぞ召し上がれ」
例え社交辞令であっても、スタルークが楽しみにしていると言ってくれると心が弾む。本来なら王女が手ずから紅茶を淹れるなんて、といい顔をされないがスタルークが相手の時だけはセリーヌも譲らなかった。公式にフィレネの王女がブロディアの王子をもてなすのなら然るべき相手に任せるが、個人的に一人の少女が友人をもてなすのに、口出しをさせるつもりはない。最初の一度はルイに任せ、二度目のお茶会からはいつもセリーヌが自分で用意をしていた。
「いただきます……」
スタルークが最初のひとくちを口に運ぶ、この瞬間がいつも一番ドキドキする。用意した茶葉は彼の口に合うだろうか。温度や蒸らしは十分だろうか。口に合わなくて気を遣わせたりはしないだろうか――……。セリーヌは固唾を飲んで、スタルークが上品にカップを傾ける様を見守っていた。食い入るように見つめる前で、男性らしくきちんと喉仏の浮いた喉がこくりと上下に動く。赤い瞳がほっと緩み、スタルークは満足そうなため息を吐き出していた。
「……ああ、今日のもとても美味しいです。あの、僕の貧弱な語彙力ではあんまりたくさん褒められないですけど……ほっとする味がします」
「よかった! どんどん召し上がってくださいね」
「ありがとうございます。そういえば、この間――……」
最初の一口が終われば、後は楽しいおしゃべりの時間だ。スタルークはつまらない話ですが、と前置きするが彼の話はいつも面白かった。最近はお互いの兄の話以外にも、彼自身の失敗談や身の回りの変化なども話が及ぶ。スタルークが彼自身のことを話してくれるのが嬉しくて、セリーヌも自然と自分のことや身の回りのことなどを話すようになっていた。
楽しいおしゃべりは尽きずとも、紅茶と茶菓子はいずれ尽きる。
ポットのお湯がなくなり、そろそろお開きかという頃合いになってセリーヌはスタルークの頭の上で揺れる猫耳がふと気になった。さすが弓兵だけあってスタルークは視線に敏感だ。すぐに気がついて、自分で猫耳をぴこぴこと触って動かす。
「……あの、セリーヌ王女。この耳……やっぱり気になりますか」
「はい。触ってもいいですか?」
「あ、どうぞ……」
いそいそと立ち上がって、スタルークの頭に鎮座した耳に触れる。何の素材で出来ているのだろうか、ふわふわとしていて触り心地が良かった。
「わあ……ふわふわ。本物の猫を撫でているみたい。毛並みもさらさらでとっても撫で心地がいいんですね」
「あ、あっ、あの、セリーヌ王女、そこは僕の頭です……」
「えっ? ご、ごめんなさい! 軽々しく髪に触れてしまっては、失礼ですよね」
つい、本当の猫のようにして撫でてしまったが、実際はスタルークの頭だ。申し訳無さそうに肩を丸くしているスタルークから飛び退りセリーヌは慌てて詫びたが、指にはまだ彼の髪の感触が残っていた。
「……あの、スタルーク王子」
「は、はい」
「もう少し……撫でさせてもらってもいいですか?」
「はひっ!? ぼ、僕をですか!?」
椅子から飛び上がらんばかりに驚くスタルークに、セリーヌもなんと大胆なことを言い出したのだろうと頬が熱くなる。けれど、それをおしても彼の髪の感触は――スタルークに触れているという実感は、セリーヌを強く惹きつけていた。
「駄目……ですか?」
嫌がるものを無理に触るつもりはない。だが声には明らかにがっかりした色が滲んでしまって、スタルークが激しく動揺するのが伝わってくる。
やはり厚かましいだろうか。他人との接触をいかにも好まなさそうな少年だから、セリーヌに触れられるのだって嫌に決まっている。しゅん、と項垂れるセリーヌにまたスタルークが動揺する気配が伝わってきて。
それから、彼は席を立った。
「僕で、よければ……どうぞ」
「いいんですか?」
「でも僕は猫みたいに可愛く鳴いたりは出来ないですし、そもそも僕なんてその辺の石ころより可愛くないですけど……それでもいいんですか?」
「スタルーク王子がいいんです。ふふっ、じゃあこちらへどうぞ」
スタルークが自分を受け入れてくれたことが嬉しくて、セリーヌは声を弾ませて彼の手を引いた。お茶会のために用意したものとは別にベンチがあって、そこに並んで座る。
「では、いきますよ?」
「は、はい。お手柔らかに」
敢えて戯けてみせるのは、そうしないと恥ずかしさが先に立ってしまうからだ。ただでさえ、いつものお茶会より距離が近い。こうして並んで座るとスタルークと自分の体格差を強く意識してしまう。どんなに優しくて穏やかでほんのちょっぴり情けなくとも、これから触れるのはよその男性なのだと思うとさすがに緊張した。
こわごわ、手を伸ばしてスタルークの髪に触れる。さらさらと音を立てそうな髪は指通りがよく、絹糸のような感触が指に心地よかった。無心に髪を梳いていると、ぴくんとスタルークの肩が揺れる。
「ん……っ」
「あっ、ごめんなさい、痛かったですか?」
「い、いえ。大丈夫です。その……どうぞ、続けてください」
スタルーク王子の頬は、少し赤くなっているように見えた。あまり髪にばかり構っていては悪いだろうかと思い、今度は猫を撫でるつもりでさわさわ、さわさわ、と頭全体を撫でる。つけたままの猫耳が撫でるたびにぴょこんと動き、なんだかセリーヌは面妖な気持ちになってきた。
(一体これは、どういう状況なのかしら……)
密かに想っている相手に猫耳をつけさせて、自分は彼の頭を撫で回している。冷静に考えればおかしな状況だ。相手に触れるならもっと親しくなってからだろうとか、そもそもスタルーク王子からすればものすごく迷惑なのではないかとか、様々な不安が頭をよぎったがセリーヌは手を止めることが出来ずにいた。
大好きな人に触れているというのは、それほどに抗いがたい魅力を持っているのだと彼女は初めて知ったのだった。
「……ふふ、なんだか本当に猫を撫でているみたい」
「そうですか? へへ、僕なんて野良猫ほどにも癒やし効果なんてないでしょうけど」
「そんなこと、ありません。いつも私やお兄様を守ってくれる、勇敢な猫ちゃんです」
指にじわりと伝わってくるスタルークの体温が、セリーヌをほっとさせてくれる。子供の頃、そうして兄の頭を撫でていた時はまるで死んでいるかのように冷たい汗に濡れていた。だから、確かな生を感じさせてくれるスタルークの体温は、何よりもセリーヌを安心させてくれるのだ。
ひとしきり撫でて、ようやく胸のうちに膨らんだ面妖な感覚も薄れて。セリーヌが手を離すと、スタルークは少し潤んだ瞳で見つめてきた。赤い瞳は何かを訴えているが、セリーヌには判然としない。ただ、やけに熱っぽくてセリーヌはその視線に晒されているのが無性に恥ずかしくなった。
「ありがとうございました。スタルーク王子の髪は、すごくさらさらなんですね。羨ましいです」
「母譲りなんですよ。ここだけは、自慢できるところなんです」
他にも自慢できるところなんてたくさんあるだろうに、母譲りだからと誇るスタルークはとても好ましく見える。やっぱりこの人と過ごす時間が好きなのだと噛みしめるように思うセリーヌに、スタルークは何かを言いかけて口を噤み、また何かを言おうとして諦めて。
ようやく彼が言葉を発してくれたのは、三度目の挑戦に及んでからだった。
「あ、あのっ」
「はい」
「セリーヌ王女も着けてみませんか、これ」
これ、とスタルークが差し出したのは先程まで彼が着けていた猫耳だ。神竜様が方々に配っているというそれは、カチューシャのようにして着けるらしい。その猫耳とスタルークの顔を見比べて、やや遅れて理解が追いついたセリーヌは目を丸くした。
「私が、これを?」
「……はっ! い、いやいやいやいやいや僕は何を言っているんでしょう!? すみませんすみません、つい、僕ごときが口にするのもおこがましい願望が口をついて出てしまいました……!」
「いいですよ」
「そうですよね、いいですよね…………えっ?」
「だって私ばかり撫でて、スタルーク王子ばかり撫でられるのでは不公平ですものね」
きょとんと目を瞬かせるスタルークの手から猫耳を受け取り、髪がひっかからないように気をつけながら装着する。男性向けだからか少し緩いように感じられたが、どうにか耳は頭のてっぺんに収まってくれたようだった。
そのセリーヌの動きをスタルークは食い入るように見つめていて、先程自分がスタルークを見ていたときもこんな風だったのだろうかと思うとまたあの面妖な感触が胸のうちに広がっていく。
正直なところを言えば恥ずかしかったが、スタルークだって耐えてくれたのだ。ここはもう、愛嬌でごまかし切るしかない。セリーヌは手を猫の形に真似て、にこりと笑ってみせた。
「にゃん、にゃん。どうですかスタルーク王子、似合っているでしょうか」
「!」
スタルークはその瞬間、硬直したように見えた。そんなに似合わなかったのだろうかと肩を落とすセリーヌに、はっと我に返った彼はぶんぶんと首を振る。
「よく、似合っています。すみません、あの……こんなことを言うと困らせてしまうのは重々承知しているんですが」
「いえ、似合わなければ遠慮なくそう仰ってください」
「そうではなくて。か、か……可愛くて、思わず思考が止まってしまいました……うわああああ恥ずかしいーっ! 僕は、何を、言って!」
両手で顔を覆い俯いてしまうスタルークと同じように大仰に恥ずかしがれたら、どれほどよかっただろう。だがセリーヌの思考はスタルーク以上に止まってしまい、耳まで真っ赤になってしまった顔を隠すことさえ出来なかった。
(可愛い、って……言ってくれた)
自慢ではなく客観的な事実として、セリーヌは色んな相手から可愛いと言われてきた。自分の腹の底を見せればとてもそんなことは言えないだろうにと内心思いつつも、セリーヌはその賛辞に笑顔で応えることに慣れている。王女様とは、そういう立場なのだと。
けれど、スタルークが恥じらいながらも言ってくれた可愛いの一言は、確実にセリーヌの心の奥深くを貫いていた。純粋で、無垢で、飾ることもなくその分何のてらいもない賛辞をセリーヌは何より嬉しいと感じていた。
「すみませんセリーヌ王女、僕なんかに褒められたって嬉しくないでしょうに」
「いえ、とても……とても、嬉しいです。他でもない、あなたに褒めてもらったのだもの」
「そうでしょうか……気の利いた言葉一つさえ、僕は言えないのに」
謙遜するスタルークに、本当に嬉しいのだとどう言えば伝わるだろうか。きっと言葉では伝わらない。今の彼には、好きですと伝えても慈悲くらいにしか受け取ってもらえない。まだまごころが十分に伝わる距離ではないのだろう。
(それなら、私から歩み寄るだけだわ)
セリーヌは心を定めると、少しだけスたルークの方に詰め寄った。
「あの、スタルーク王子」
「は、はいっ!」
「私も、撫でてほしいです。私はスタルーク王子ほど綺麗な髪ではないけれど」
「撫でる……ええっ、撫でる!? 僕が、セリーヌ王女を?」
「駄目、ですか?」
ずるいことをしているという自覚はある。こう言えば、スタルークは嫌とは言わないだろうと分かって言っている。それでもセリーヌは、もう一歩だけでも彼に近づきたかった。
上目遣いにスタルークを見上げれば、彼の瞳にはまたあの熱が宿っている。優しくて穏やかで、人と接するには臆病なのに――どこか獰猛さも感じる、あの熱が。
「僕が、触れてもいいのでしょうか……あなたに」
「私はさっき、あなたに触れましたよ。おあいこです」
スタルークの手がぴくんと跳ねる。けれどそれはまだ持ち上げるだけの勇気が持てないのか、また力なく座面へ落ちる。あとひと押し。セリーヌは猫耳をつけたままの頭を彼の方に差し出した。
「猫だと思ってはどうでしょう? ね?」
にゃん、と冗談めかして鳴き真似をすると、スタルークの喉がごくりと動いた。今度こそはっきりと持ち上がった彼の手が、恐る恐るセリーヌの髪に触れる。
最初は髪の一房を掬い上げるように梳き、次に豊かな髪の中に指が潜り、三度目にはとうとう手のひら全体が彼女の頭を撫でる。兄の手よりもしっかりとした指は確かに彼が男性なのだとセリーヌに知覚させ、セリーヌはうっとりと目を閉じた。
不思議と、言葉は浮かんでこない。ただ頭を撫でて撫でられるだけ。それだけなのに、今までのお茶会のどれよりもスタルークを近く感じる。
(何か、話を……しなきゃ。でも)
そういえば、もう久しく誰かに頭を撫でてもらうことなんてなかった。兄に対しては子ども扱いしないでほしいと反発したことがあったし、母だってもうセリーヌを一人前の淑女として扱ってくれていたから。
だから、遠慮がちに撫でてくれるスタルークの手はひどく心地よかった。子供の頃を思い出す穏やかさと、もっと切ない何かがセリーヌの胸をいっぱいにしてしまって、段々と眠たくなってくる。
こらえきれずに小さくあくびをすると、スタルークがくすりと笑ったようだった。その笑い方はとても優しくて、幸せで。とうとう彼にもたれかかると、撫でる手が止まった。
「セリーヌ王女? あ……眠ってしまったんですね……どうしよう、こんなところで寝たら風邪を引いてしまいますよね。ええと……」
困惑した声と共に、肩に何かが掛けられる。セリーヌの肩にはぶかぶかのそれは、多分スタルークが着ていた上着だ。起きた方がいいのだろうが、彼の体温と香りとを残す上着にもう少し包まれていたくて狸寝入りを続ける。
「部屋に送ったほうが、いいですよね。ルイやクロエを呼ぶにしても、ここにセリーヌ王女を残していくわけにはいかないですし」
スタルークはかなり長い間考えて、それからつと立ち上がった。やはり誰かを呼びに行くのだろうかと思いいよいよ目を開けようとしたセリーヌは、急な浮遊感に逆に目を瞑ってしまう。
「……っ、よい、しょ。うう……小柄でも、やっぱり人一人を運ぶのは大変だなあ」
背負われたのだと分かったのは、スタルークの腕が脚を支えてからだった。何度か身体を揺すり、セリーヌがずり落ちないようにバランスを取ってからゆっくりと彼は歩き始める。
「うーん……こういう時兄上やアルフレッド王子なら、お姫様抱っことかするんだろうなあ……はぁ……やっぱりもうちょっと筋肉をつけないと格好がつかない……僕はやっぱりゴミ虫だ……」
そんなことない、とセリーヌは言いたかった。確かに兄は神竜様を横抱きに抱えあげて起こすことがあるようだし、立派な体躯のディアマンド王子なら誰だって軽々と抱き上げてしまうだろう。それでも、背負ってくれるスタルークの背はセリーヌには頼もしく感じられた。
まだ成長過程の少年らしく細いし、肉付きも薄い。よたよたと歩く足取りは危なっかしいけれど、彼の背と上着とでまるごとスタルークに包まれるような感覚は例えようもなく幸福だった。
それからどれくらいゆっくりスタルークは歩いただろうか。とうとうセリーヌの部屋にたどり着き、すみませんと詫びてから中に入る。
「お邪魔します……うわあ、花がたくさん……いや、あんまりじろじろ見ちゃ駄目だスタルーク。セリーヌ王女に失礼のないよう、速やかにベッドにお届けして、帰るんだぞ」
自分に言い聞かせる独り言はなんとも可愛らしくて、ついセリーヌは口元を綻ばせた。試行錯誤、四苦八苦してセリーヌをベッドに横たえたスタルークはそれを夢を見ていると思ったのか、ほっと安堵のため息をつくのが聞こえてくる。
「笑ってる……いい夢を見てくださいね、セリーヌ王女。僕の上着なんてお守りにもならないかもしれませんけど、あなたが悪い夢を見たら……僕が助けに行けますように」
寝台の柔らかな感触と、上着から伝わる温もりが今度こそ本当にセリーヌを眠りへ誘っていく。そういえばお茶会の片付けをし忘れていたことを思い出したが、どうやらもう瞼は重たすぎて開きそうにはなかった。
眠りに落ちていく最後のひととき。優しく頭を撫でる手の感触がして、甘さを帯びた声でスタルークが囁くのが聞こえてくる。
「夢の中でもあなたを守りたい……いつも僕はそう思っているんですよ。今はまだ、直接は言えませんけど」
セリーヌが本当はまだ起きていることをスタルークは知らない。だから、彼は。
「ご迷惑かもしれませんが、いつかは伝えてもいいでしょうか――あなたが、好きです、と……」
切ない声でそう告げて、部屋を出ていったのだった。
「うん? スタルーク、今日はやけにいい香りがするな。花の香りか?」
「ひぇ……そ、そうですか? そんなに、匂いします?」
翌日、丁重な礼と共にセリーヌは上着を返しに来た。昨日の触れ合いのことには一切触れず、いつもと変わりない様子の彼女に半分は安堵し、半分はがっかりしている自分がいる。
つい本音を口にしてしまったが、あの時彼女はすっかり寝入っていたからきっと聞こえてはいなかっただろう。もし聞こえていたのだとしたら、スタルークは今すぐにでもソラネルから飛び降りるくらいのつもりでいた。
「昨日のお茶会で、セリーヌ王女にお貸ししたんです。その……少し寒そうだったので」
「そうだったのか。ふふ、ではそれは彼女の香りというわけだな」
「か……っ!? あ、兄上! からかわないでください」
「ははは! 顔が赤いぞ。そうか、そうか……お前が女性に上着を貸すようなことが日が来るとは。亡き父上もお喜びのことだろう」
「そういうのでは、ありません……いや、そういう風になったらいいなと僕が一方的に思っているだけであって……」
ごにょごにょと言い訳をしても、自分の恋心はすっかり兄に見抜かれているから意味をなさない。単にいい香りだと思っていた花の香りも、セリーヌの香りだと思うと落ち着かない気持ちになる。
返してもらった上着を身につけた時、大輪の花束を抱いているようだと思ったものだからなおさらだ。背負ったセリーヌの柔らかさや温もりを鮮明に思い出してしまい、スタルークは真っ赤になって俯いてしまう。
ふわりと漂う香りは、セリーヌのように優しくどこか力強さを感じさせる。それを身に纏えることを光栄だと思ったし、今日を限りにしたくないと強く感じていた。
「……いい香り、ですよね」
「ああ。優しい香りだ」
「僕はこの香りが好きです。ずっと好きでいたいと、思います」
「そうか」
兄は笑ってスタルークの肩を叩いた。あまり色事に対しては雄弁ではない兄の、それが最大の励ましなのだと知っているからスタルークも大きく頷く。
(いつかと思っていてばかりでは、きっと僕みたいなやつはいつまで経ってもそのいつかはやってこない)
セリーヌはどんな気持ちでこの上着を脱いだだろう。ほんの少しは、自分のことを想ってくれたらいいけれど。眠る彼女の枕元で呟いた気持ちに嘘も偽りもないつもりだ。
(いつかを、いつかのまま終わらせたくない。必ず伝えよう、彼女に……僕の気持ちを)
もうその気持ちが既にセリーヌに伝わっていることをスタルークは知らない。
当然、セリーヌが同じだけの気持ちをスタルークに返したいと願っていることも、まだ知らない。
二人が望む「いつか」はすぐそこまでやってきているのだと、上着に託された「あなたが好きです」を意味する花の香りだけが知っているのだった。