その願いは彼の永遠 彼女の一瞬「殿下。あなたは神竜様に対して不敬だとは思わないのですか」
そう問われて、アルフレッドは目を瞬かせた。
不敬――とはどういう意味だっただろうか。まずそこから考え、意味を反芻し、自分と彼女の関係を考える。全く問題がないと結論が出ると、今度は眼の前にいる男が何者だったかを思い返しようやく得心がいった。
この間、僅か数秒だ。一部の貴族たちが思っているよりもアルフレッドはずっと頭の回転が速い。相手がそうした自分を侮っている者たちの一人だと気づけば、あしらう方法はいくらでもあった。
「不敬、とはどういうことかな? 僕はいつだって神竜様に敬意を払っているつもりだが」
「ふ、不敬は、不敬でしょう。心当たりがおありではないのですか」
「ないねえ……具体的には? 僕が知らず不敬を働いているのだとしたらいけない。教えてくれないだろうか」
畳み掛けるように問うと、貴族はあからさまに怯んだ。この程度で怯むようでは大した相手ではない。アルフレッドはことさらににこやかな表情を顔に貼り付けて、貴族の方へ歩み寄った。
「いやあ、助かるよ。僕のような立場だと皆気を使ってしまうものだから、客観的に見ることが難しいんだ。さあ、遠慮なく言ってくれたまえ。どんなところが不敬なんだい?」
「た……例えば、神竜様に気安く声をかけたり」
「ふむ。神竜様はおいそれと声をかけていいお相手ではないということだね。神竜様は随分寂しい思いをされてしまう」
「先日は手を、繋いでいたでしょう」
「おお……それも咎められるのでは道案内も満足にできないね」
「それだけではありません、せ……接吻、まで」
「見ていたのかい? ふふ、なかなか情熱的だっただろう」
「殿下! 真面目に話を聞いておられないでしょう!?」
貴族の発言にこれもまた大仰に声を上げるアルフレッドにとうとう貴族の方が耐えかねて声を荒げる。当然それもアルフレッドにとっては織り込み済みだ。微笑みを絶やさず、軽く首を傾げて見せる。
「どれもこれも僕には不敬に思えないが。君はそう思うんだね?」
「明らかに不敬でしょう。神竜様に対して、分をわきまえていただきたい」
義憤に頬を紅潮させ言い募る貴族を、アルフレッドはかわいそうだと思った。アルフレッドにとっては鼻で笑ってしまうような言いがかりにすぎないが、この貴族からすれば正当な批判であり非難なのだろう。フィレネは国を挙げて神竜を奉じているのでこんな手合いが現れるのも予想はしていた。アルフレッドとリュールの間に築かれたものを知らない、知ろうともしない輩だ。
父が没して母が即位する際にも、父と母の間にあったやり取りをしらない者たちが難癖をつけて母の顔を曇らせていたのを思い出し、こみ上げてきた不快感を奥歯でかみ殺す。
「卿の言い分は理解した。だが承諾はしない」
「何故です! フィレネの王太子が神竜様に対して不敬をはたらくなど前例がありません!」
「先程も言っただろう? 僕はそれを不敬だと思ってはいないからだよ」
「明らかに不敬です!」
「神竜様がそう仰ったのを、卿は聞いたのだね?」
謁見さえ許されていない君が? と言うのはやめておく。この貴族がそうだったように、アルフレッドのことを軽んじている貴族は未だにいる。病弱で何も出来なかった頃の彼ばかりを覚えている者たちだ。そうした者たちをやり込めることはいつだってできるけれど、今はまだその時ではないと思っていたからアルフレッドは徹底的にやり合うのは避けることにした。
「それは……私ごときが神竜様のお声を聞くなど、できませんから」
「ならば、不敬だと言うのも卿の想像にすぎないわけだ」
「し、しかし! 誰に聞いたとしてもこれは明らかではありませんか」
「卿のような人たちの間ではね」
そろそろ相手をするのが面倒になってきて、精一杯の愛想を込めて笑ってやる。自分の笑顔をいかに無害に見せるかをアルフレッドはよく知っていたから、貴族の横を通り抜け肩を叩くときには貴族の毒気はいくらか抜かれているように見えた。
「あいにくと僕は額縁の中に描かれた触れられない美しい花より、地に根を下ろした素朴な本物の花のほうが好きなんだ。僕と卿らとでは好みが違うようだね、残念だよ」
「お待ち下さい殿下、まだ話は終わっては」
「そうそう。先程卿があげた不敬、だが」
わざとらしく手を打ち、貴族に背を向けて足を止める。眦に力を込めて軽く振り返ってやれば、それだけで貴族が怯むのが伝わってくる。
「全て神竜様が望まれたことだ。親しく話すのも、手をつなぐのも――もちろんキスだって。それを不敬という卿と応じた僕、本当に不敬なのはどちらだろうね?」
もう振り返らなくても貴族がどんな顔をしているのかはわかった。自分とリュールの関係をここに至り初めて知ったその顔を見てやれないのは残念だが、これ以上相手をしてやるだけの時間も勿体ない。
蒼白な顔をして立ち尽くす貴族を一人残し、アルフレッドは足早にその場を後にする。最初の角を曲がる頃には、もう貴族のことなど頭の片隅にさえ残していなかった。
「……というところを、見かけてしまったのですが……」
昼下がり、セリーヌのお茶会に呼ばれたリュールは、朝方に見た光景に困惑を浮かべていた。
リュールがフィレネにやってきたのは戦後初めてのことだ。それも、アルフレッドに会いたい一心でヴァンドレに無理を言ってお忍びで来てしまった。だから、その後イヴ女王と共に視察に出ていったアルフレッドはまだリュールが来ていることを知らないはずだ。
リュールの困惑を理解したセリーヌは、焼き菓子の皿をリュールの方に寄せてくれる。
「神竜様が気になさることではありません。王族である以上、多くの目に留まり多くの意見にも晒されます。お兄様は、そういう相手に慣れていらっしゃるから」
「でも、私のせいではありませんか? アルフレッドが無用な非難に晒されてしまうのは」
「神竜様のことがなくても、その者は何かしら難癖をつけてきたと思います。本来ならお兄様にいきなり直訴するなんて許されないはずなのですけれど。戦後、色んな方が城に出入りしているから見逃されてしまったのかもしれませんね」
セリーヌは淡々とした口調でどうということもない風に言った。つまり、彼女やアルフレッドがそうした相手に遭遇するのも最近は珍しいことではないのかもしれない。
リュールは紅茶の水面に視線を落とし、小さくため息をつく。もしそうだとしても、アルフレッドがあんな風に下らない難癖をつけられるのは納得がいかない。
「フィレネは平和の国だというのに……そんな、仲間同士で足を引っ張るようなことをしなくても」
「平和の国だから、ですよ神竜様。これがブロディアなら決闘で話を決めてしまうところでしょう。フィレネはそうではないから、陰湿な陰口や誹謗中傷でしか争えない者が跋扈するのです。いっそブロディア式にしてしまえば誰もお兄様には逆らえないのでしょうけれど」
「さ、さすがに暴力は駄目だと思います」
「でしょう? お兄様はなるべく多くの人の声に耳を傾けようとなさっている。だから、話も聞かずに追い返すようなことはなさいません。これもフィレネの王となるべく生まれたものの責務、と思っているのではないでしょうか」
その心がけは立派だ。今もイヴ女王のもとで王となるべく研鑽を続けているアルフレッドの努力を、リュールだってよく知っている。彼が王になったら、フィレネはもっと発展するし平和にだってなるだろう。
(でもそれは、アルフレッドが自分の身を捧げて作るものであって……どこからともなく出来上がるものではないのですよね)
一日でも長くリュールと一緒にいたいと鍛錬を欠かさない傍ら政務にあたるアルフレッドが、いつか倒れてしまうのではないか――リュールはそれを心配している。もし自分がリトスにいる時に彼が倒れたりしたら、平常心を保てる自信がリュールにはなかった。
「私に、なにかしてあげられることはないでしょうか」
「お気持ちは嬉しいです。でも、これは私たちフィレネ王国の問題ですから。神竜様の後ろ盾があるというのは心強いことですけれど、あまり深く内政に関わられてしまうといかにわたしたちフィレネの民が神竜信仰にあつい国だとしても、内政干渉であると反発を招く恐れもあります。それこそ、お兄様は望まないと思うのです」
「……そう、ですよね」
リュールはアルフレッドの伴侶だったが、フィレネの王太子妃ではない。リトスという一つの国を預かる女王である以上、過分な口出しは避けねばならないこともわかっている。
何も出来ない自分が歯がゆい。それが顔に出てしまって、セリーヌの愛らしい顔にも気遣わしげな表情が浮かんでいた。
「確かにフィレネに対して神竜様がしていただけることは少ないかもしれませんけれど。お兄様個人に、神竜様個人がしてさしあげられることはあるのではないでしょうか」
「私個人が?」
「ええ。だって神竜様はお兄様の伴侶ですもの。わたしやお母様にだって神竜様のことを誇らしげに語るお兄様のことですから、どんなささやかなことだって喜んでくれそうです」
「ささやかなこと、ですか……うぅん、どんなことがいいんでしょう。セリーヌ、一緒に考えてくれませんか」
「もちろん! どうせお兄様のことですから、神竜様に色んなお世話を焼くばっかりで自分は我が儘一つ言わないのでしょう? そういうところ、昔っから変わらないんです」
「ふふっ、確かにそうかもしれません」
アルフレッドは与えることに喜びを感じる人だ。出会った時からそうだった。母を失い悲嘆に暮れるリュールに寄り添い、どんなときだってリュールの手を引いて絶望の淵からすくい上げてくれた。数え切れないほど多くの希望を彼から与えられたというのに、リュールはほとんど何もアルフレッドに返せていない。唯一等しく返せたものがあるのだとしたら、それはこの愛情だけだろう。
(いいえ、それだって私はアルフレッドの幾分の一も返しきれていないかもしれません)
約束の指輪を渡したあの日から、アルフレッドは惜しまず愛情をリュールに表現してくれる。それは少々大仰だったりリュールを赤面させるものだったりしたけれど、どんなことだってリュールには嬉しかったし幸せに感じていた。それと同じくらいの愛情をアルフレッドに表現しているかと言われると、自信はあまりない。
そういうことをアルフレッドから求められたこともなく、思い返してみればリュールは彼の愛情を受け止めるばかりで自分から積極的に伝えた機会はあまりなかったように感じる。
「神竜様は、お兄様にしてもらって嬉しかったことはありますか?」
「何だって嬉しいです。以前は……ふふっ、空回りさせてしまったこともありますが」
「ああ、知っています。食べきれないほどの朝食を用意していたでしょう」
「ええ。でも、私を大切にしてくれる気持ちはとても嬉しいんです。そのう……愛されていると、真っ直ぐに伝わってくるので」
相手がセリーヌであっても、他の誰かに自分の気持ちを明らかにするのは気恥ずかしい。ぽぽぽ、と頬を染めて俯くリュールに、セリーヌがころころと笑う。
「では、同じことをお兄様にしてさしあげては?」
「おなじこと、ですか」
「ええ。いつもお兄様は与える側で与えられることはあまりありませんから。神竜様からたくさん愛情表現をされたら、ちょっと違う顔が見えるかもしれませんよ」
「アルフレッドのためにご飯を作ってあげたりとかでしょうか」
正直なところ、リュールは料理が得意ではない。他の人と同じ分量、同じ手順で作っているつもりなのになぜか味が鋼の味としか形容できないようなおかしな味になってしまうのだ。
アルフレッドはその他にもリュールが眠るまで笛を演奏してくれたが、これもまたリュールには心得がない。ソラネルの寝室においてあったピアノを、ほんの少し嗜んだくらいだった。
「そんな大仰に捉えずとも、まずは気持ちを伝えるところから始めてみては?」
「好きです、とは日頃から伝えるようにはしていますが」
「もっとたくさんです。お兄様と同じくらい……いいえ、それ以上にたくさん」
熱弁するセリーヌにどのくらいがいいのか、とは聞かなかった。いつもアルフレッドがどのくらいリュールに好きだと言ってくれるかを説明するのは少しばかりでなく恥ずかしかったし、そのくらいは自分で考えたかったから。
本当に好きと伝えるだけでアルフレッドに報いることができるのかは分からないけれど、好きと伝えて損することは何もない。
「わかりました。やってみます」
「応援しています、神竜様。お兄様がどんな顔をなさったのか、是非教えて下さいね」
満面の笑顔で応援してくれるセリーヌは、多分少しこの状況を楽しんでいる。リュールがお忍びでフィレネにやってきたとき、おとぎ話のようだと喜ぶクロエを窘めていたセリーヌだったが、やはり彼女だって年頃の少女、他人の色恋沙汰には興味津々なのだろう。
リュールは残っていた紅茶を飲み干して、大きく頷く。それは親身に相談に乗ってくれたセリーヌへの返事であり、自分を鼓舞するための動作だった。
「どうぞお兄様のお部屋で待っていて下さい。お兄様には、早く戻るように私から言っておきますから」
そう言ってセリーヌはリュールを部屋に残し自分の務めに戻っていった。
通されたのはアルフレッドの私室で、こんな風に勝手に入ってしまっていいのだろうかと気後れするも、お忍びで来た以上これほど隠れてアルフレッドの帰りを待つのに適した場所はない。胸中でアルフレッドに詫びながらも、リュールはここで彼の帰りを待つことにした。
「これが……アルフレッドのお部屋、ですか」
ソラネルに用意された彼の私室には何度か入ったことがある。作りはどの部屋も同じはずだったがこざっぱりとしていて、その日の朝に摘んできた花が飾られているのが印象的な部屋だった。
今通された部屋は少し趣が違う。大きな本棚には古びたものから新しいものまでぎっしりと本が詰まっていて、表紙をざっと見る限り政治にまつわる本や地理、歴史など多岐に渡っている。中には子供向けの本もあって、小さい頃からアルフレッドが読んできた本がここに詰まっているのだと知れた。
机の上はきちんと整頓されているが、傍らに筋肉鍛錬の為だろうかいかにも重たそうな鉄の塊が置いてあるのがアルフレッドらしい。壁には幸せそうな家族の肖像画がかかっていて、幼い頃のアルフレッドやセリーヌの他、今はもう亡いという二人の父親の姿も描かれている。アルフレッドによく似た面差しの、優しそうな男性だった。
こんなにじろじろ、勝手に見て回るのはよくないと分かっていても、部屋にある様々なものが自分の知らない頃のアルフレッドを思わせるものだからついリュールはつぶさに観察してしまう。
(私は、自分で思っているよりずっとアルフレッドに餓えているのかもしれませんね)
もっとアルフレッドの事を知りたい。どんなことでもいいからアルフレッドに関することに触れていたい。願わくば彼の声を聞いて、彼に触れて、あの愛おしい花の香りにずっと包まれていたい。
戦いの間はずっと傍にいたけれど、戦後は離ればなれだったから尚更そう感じるのだろう。互いにやるべき事があると分かっていても、アルフレッドが恋しいという気持ちに蓋ができなかったからこそお忍びという多少強引な方法を使ってでもリュールはフィレネにやってきたのだから。
「あ……」
肖像画とは別の壁に掛かっていた花冠には見覚えがあって、胸が切なく締め付けられる。
いつもアルフレッドが身につけているものに比べると幾らも不格好で編み目も粗いそれは、リュールが初めて自分で作って彼に贈ったものだ。丁寧に乾燥され、形を崩さないよう大事に額装され飾られているのはかなり恥ずかしいが、それだけ大切にしてくれているのだと思うとリュールの胸の内は幸福で満たされていく。
どんな気持ちでこれを飾ってくれているのだろう。家族の思い出と同じくらい大切だと思ってくれているのだろうか。リュールだって、いつだってアルフレッドのことを考えていられるように彼のくれた刺繍は私室の目に留まる場所に飾ってあるけれど、アルフレッドも同じ気持ちだったのだろうか。
部屋全体に散りばめられたアルフレッド「らしさ」はリュールの胸を甘くざわつかせた。部屋の雰囲気も漂う香りも普段使いの品々も、全てがアルフレッドを思わせる。部屋にいるだけで彼を感じられる――なんて素敵な場所なのだろう。
いよいよアルフレッドが恋しくなって、はしたないと思いつつも寝台にころんと転がる。さすがにそこに温もりは残っていなかったが、アルフレッドの香りは濃くなった。シーツに頬を擦り付け、目を閉じて胸いっぱいに彼の香りを吸い込む。
「早く帰ってきてください……アルフレッド……」
すっかり安心しきってしまったからか、急に眠気が降りてきてリュールは目をこすった。その程度では目が冴えるはずもなく、どんどん重たくなっていく瞼がゆっくりと下りていく。
少しだけ、と自分に言い訳をして体の力を抜くと吸い込まれるように意識は遠ざかり、リュールはすっかり寝入ってしまったのだった。
「ん……ぅ……」
「おや、お目覚めかな」
「あるふれっど……?」
次に目を開けた時、視界にはリュールが世界で一番大好きな顔があった。端正な顔に浮かぶ柔らかな微笑みにつられるように、リュールもふにゃりと笑う。
「かえってきたんですね」
「ああ、随分前にね。セリーヌに早く部屋に戻れと言われて帰ってみたら、こんな素敵な眠り姫がいるんだから、それはもうびっくりしたよ」
「ふふ、あなたに会いたくて、こっそり来ちゃいました」
まだ頭の中は眠気でふわふわしていたが、それよりもアルフレッドの方が優先だ。寝台の端に腰掛けていたアルフレッドに両腕を広げてみせると、心得た彼は寝台の上に上がってきてリュールを抱き起こしてくれる。
「お忍びだなんて、随分大胆だね」
「ヴァンドレにはちょっと叱られてしまいました。女王としての責務を忘れたわけではありませんよ?」
「分かってるよ。君はよく頑張ってる。でも、手紙の一つも出してくれれば僕の方からリトスに飛んでいったのに。そしたら、君がヴァンドレに叱られることもなかった」
「それも考えましたけど……そうじゃなくて。私が、あなたに会いに行きたかったんです」
やっぱりアルフレッドは与える側に行こうとする。確かに手紙を出して会いたいと一言伝えれば彼はリトスにすぐ来てくれただろう。女王であるリュールより、未だ王太子の身分のアルフレッドの方が身動きは取りやすい。
だが、それでは駄目なのだ。リュールだって自分から会いに行きたい。そのくらいアルフレッドのことを想っているのだとわかってほしい。セリーヌが自分から伝えればいいのだと勧めてくれた意味を、リュールはようやく理解していた。
「アルフレッドが私を尊重して、大事にしてくれているのはわかります。とても嬉しいし、幸せだと思います。でも、それだけじゃ物足りないんです」
「物足りない?」
「私だって、あなたのことが好きだってちゃんと、たくさん、伝えたい」
「十分伝わってるよ。だから僕だって、手放しで君に大好きだと言えるんだ」
「でも、まだまだ私はあなたに思うように気持ちを返せていません。いつもあなたは私を大事にしてくれる。今だって、帰ってきてすぐに私を起こしたっていいのに待っていてくれたでしょう?」
「気持ちよさそうに寝ていたからね。それに、なんだか不思議で面白かったんだ。君の寝顔は小さな頃からずっと見てきたけれど、ソラネルで厳重に守られていた君が無防備に僕のベッドで寝ている、そんな日が来るなんて想像もしていなかったから」
本当に幸せそうに笑うアルフレッドに、リュールは思わず言葉を失う。ずるい。こんな風に幸せそうにされたら、これでいいじゃないかと思ってしまいそうになる。
事実、アルフレッドは嘘やお世辞などではなく心から幸せだと思ってくれているのだろう。眠り続けていたリュールが目覚め、世界は平和になり、今は大切なパートナーとして気持ちが繋がっている。それで十分なのだというアルフレッドは欲がない。もっともっと、リュールからの愛情を欲しがったっていいのに。
(そうしていいのだと、アルフレッドに教えて上げなくてはいけませんね)
アルフレッドの顔を間近に見上げ、リュールはアルフレッドの膝に手を置いて顔を近づける。わずかにアルフレッドは身をのけぞらせるが、それ以上は動かずリュールを受け止めてくれていた。
「あなたが私を愛してくれるのと同じくらい、私もあなたを愛したい。だから、ちゃんと伝えますね」
「神竜様……?」
「好きです、アルフレッド。多分あなたが思ってるよりずっと、私はあなたのことが大好きなんです」
間近に見えるアルフレッドの瞳が微かに揺れる。このくらいで伝えきれたとはリュールも思っていない。彼の瞳をじっと見つめて、繰り返す。
「好き、なんです。大好きで大好きで……どうにかなってしまいそうなくらい、好き……」
一度滑り出すと、言葉はとめどなく溢れ出てきた。リュールにはアルフレッドのように色んな言葉を駆使して想いを表現するようなことはできないからただ好きと繰り返すだけになってしまうけれど、それでも繰り返し好きと言う度にもっとアルフレッドのことが好きだと実感する。多少の恥ずかしさだけでは歯止めはかからず、気持ちは膨れ上がっていくばかりで留まることを知らなかった。
「好きだけじゃ、伝えきれませんよね。愛しています。私のこの気持ちは、ずっとアルフレッド、あなただけのものです」
「ぅ……随分、今日の君は熱烈だね?」
「だって、全部伝えるって決めたんですもの。大好き、愛してる――あなたが愛しくて仕方がない。あとはどんな言葉でこの気持ちを伝えましょうか」
アルフレッドの膝から胸元へ手を移し、くたりとしなだれかかると、とうとうアルフレッドの白い頬がぶわっと音を立てるように一気に赤くなった。そんな風にして彼が赤面するのは初めてで、リュールは目を輝かせて彼に顔を近づけた。
「アルフレッド、お顔が真っ赤です……可愛い」
「や、その……参ったな。君からそんな風に言われると……どうにも照れてしまって」
「ふふ、いっぱい照れちゃってください。好き。好きです。大好きですよ、アルフレッド」
セリーヌが言っていたのはこのことだろうか。アルフレッドは常の堂々とした様子から一転、真っ赤になって俯いてしまう。いつも与える側で、与えられることには慣れていないからだろう。微かに目を潤ませて恥じらう様は確かに彼の見せてくれた新たな一面で。いつもは頼もしいアルフレッドが王子さまからただの一人の青年になったようで、リュールはますます彼を愛おしいと感じていた。
「なかなか全部、伝えきれません。こんなにあなたのことが大好きなのに――……きゃっ!」
急にアルフレッドの手が動いて、思い切り抱きしめられる。ぴたりと重なった頬はほんのり熱かったが、彼の顔は見えなくなってしまってリュールはトントンと彼の肩を叩いた。
「アルフレッド」
「降参。降参だよ」
「でも、まだ伝え切れてません」
「十分伝わってる。これ以上言われたら、幸せ過ぎて僕の方がどうにかなってしまいそうだ」
「本当に? じゃあ、ちゃんとお顔を見せてください」
「駄目だよ。今は、すごくだらしない顔をしているから」
「だらしなくなんてないです。どんなアルフレッドだって素敵ですよ」
もぞもぞとアルフレッドの腕の中で身じろぎをして顔を覗き込もうとするリュールを、彼はますます強く抱きしめてきた。照れている彼はとても可愛かったしだらしなくなんてないと思ったけれど、見られたくないというものを無理に見るのも悪いと思って、そのまま彼の肩に顔を埋める。部屋に漂っていたよりもずっと鮮やかな花の香りがリュールの胸を満たし、リュールは満足そうなため息をついた。
「……どうして突然、こんなことを?」
リュールの長い髪を梳く指は、まだほんのりと熱い。本当の事を言っていいのかリュールは一瞬迷ったが、アルフレッドに嘘はつきたくなかった。
「私がフィレネに着いたのは朝早くだったんですけど……偶然見てしまったんです」
「何を?」
「あなたが、貴族に言いがかりをつけられているところを。私に、不敬だと」
「ああ、あれか。大した事ではないよ。君のことでなくても、僕に何かしら文句を言いたいだけなのだろうし」
「いつもあんなことがあるようなら尚更心配です。だから、私になにかしてあげられることはないかと思って。アルフレッドは私にいつも沢山の愛情をくれますが、私は全然返せていないのではないかと……そう思ったんです」
私はあなたのパートナーなのに。ぽつりと漏らすと、アルフレッドはほんの少しだけ抱擁を緩めた。ようやく覗き込めた彼の顔はまだ少し赤かったけれど、もう顔を隠そうとはしない。
「まさかあなたがこんなに照れてしまうとは、思いませんでした」
「自分でも驚いているよ。あんなに沢山、僕に気持ちを伝えてくれる人なんて今までいなかったからね」
「じゃあ、私が最初ですか?」
「うん、君が最初だ」
「私が、アルフレッドの最初……嬉しいです!」
「わっ」
リュールにとってアルフレッドは沢山の「最初」をくれた人だ。目覚めた時にはもう立派に経験豊富な大人だった彼の最初になれるのが嬉しくて身体を弾ませると、ぐらりとアルフレッドの身体が傾いだ。そのまま二人揃って寝台に倒れ込み、どちらからともなくクスクスと笑い出す。
「随分ご機嫌だね?」
「だって、アルフレッドに会うためだけに来たんですから。あなたと一緒にいられるのが嬉しいんです。あっ、でも公務は」
「セリーヌが上手くやってくれているから問題ないさ。神竜様がお忍びで来ていると聞いて、母上は驚いていたようだったけれどね。君が会いに来てくれたんだ、一人この部屋に放っておくなんてできないよ」
「じゃあ、今日はずっと一緒にいられますか?」
「もちろん。何かご希望はあるかな? さすがに城下でデート、とはいかないだろうけど」
「希望、ですか……えっと」
リュールはただアルフレッドに会いたかっただけで、何かがしたかったわけではない。一緒にいられればそれで十分すぎるくらいだったから、何か希望はあるかと問われると少し迷う。
けれど、ずっと――指輪を渡した時から、アルフレッドにしてほしいことは一つだけ、あった。
「あの、名前で……呼んで欲しいです」
「名前で?」
「二人きりの時だけでいいですから。神竜であることも、王であることも忘れて……あなただけの私でいたいので」
アルフレッドは敬意も込めてリュールの事を神竜様と呼んでくれる。それは対外的にフィレネは今後も神竜信仰を続けていくという意思表示の意味も持っているのだとリュールだって理解はしているが、二人きりの時くらいはただのリュールでいたい。
下からリュールを見上げていたアルフレッドの目にはすぐ理解の色が浮かび、彼は肘を突いて半身を起こすとリュールの耳元に唇を寄せた。
「……リュール」
「んっ」
自分の名前をただなぞるだけなのに、その声はとびきり甘くて思わずリュールの肩がぴくんと跳ねる。それに気をよくしたのか、アルフレッドはリュールの髪を掻き上げてもっと耳に唇を近づけてきた。
「リュール。僕の愛しい人。ずっと君の名前だけを呼びたかった……本当に、いいのかい?」
「は、い。私も、ずっとそう呼んで欲しかったんです。あなたの、声で」
くつり、と耳元でアルフレッドが笑うのが分かった。軽く腕を引かれれば、リュールの身体はあっさりとアルフレッドの上に倒れ込み彼を組み敷く格好になる。寝台の上で軽く広がった彼の金髪と自分の髪が無造作に混ざり合っていて、それが尚更これからするだろうおこないを思わせた。
ある種の期待を込めて見下ろす顔ははしたなくはないだろうか。自分の顔がどんな風にアルフレッドに見えているのかが気になって、彼の瞳の中を覗き込む。
「ふしだらだと思うかな。こんな、日のある内になんて」
「私はそうは思いませんけど……でも、ふしだらだったとして」
こんな風に自分から迫っているような体勢も初めてだったから、無性に胸が高鳴っていた。不思議な高揚感とふわふわとした幸福感――それに紛れもない、興奮。リュールはアルフレッドの方へいっそう身体を傾け、それらを混ぜ合わせるようにして囁いた。
「ふしだらな私は、嫌いですか?」
――明日になれば、彼女はリトスへ帰ってしまう。
規則正しい寝息と共に眠るリュールを、アルフレッドは静かに見つめていた。本来ならば寝床を抜け出して鍛錬に行く頃合いだが、彼女を起こすのは忍びないしまだこの寝顔を見つめていたい気持ちの方が強い。もう少しだけ、と繰り返し自分に言い訳をして、まだ彼は寝床にいる。
(ずっと眺めてきた君の寝顔と今の君は、全く違う人に見えるね……不思議なものだ)
小さな頃から母に連れられてソラネルを詣でていたアルフレッドにとって、リュールの寝顔は最も見慣れた光景のはずだった。けれど、今こうして彼の腕の中で眠っている彼女の寝顔とあの頃の寝顔は重ならない。面差しが変わったわけでもないのに別人に見えるのは、きっとアルフレッド側の心境が変わったからなのだろう。
子供の頃の憧れは、神竜という神様に対する信仰からくるものだった。フィレネの民にとって神竜に対する畏敬の念は身分問わず心の底に刷り込まれるものだから。
眠るリュールの顔を眺め、時にフランやクランたちと一緒にその目覚めを待ち遠しいと語り合いながら、その実アルフレッドは自分が生きている間に彼女が目覚める日なんて来ないと思っていた。ましてや親しく語り合うだけでなく、褥を共にする伴侶になるなんてどうして想像できただろう。
神竜王城が襲撃されたあの日、アルフレッドにとってリュールというひとは神竜ではなく一人の女性になった。憧憬は親愛へ、そして思慕へと変わり今や疑いようもない強い恋情と愛情へと変わっている。
神たる神竜を一人の女性にするなど、確かに不敬の極みなのかもしれない。数日前、リュールがお忍びでやってきた日に不敬であるとアルフレッドを糾弾した貴族の言い分も、実はわからないでもなかった。アルフレッドだって、リュールが別の誰かを選んでいたら同じようなことを絶対に思わないとも言い切れない。それを直接相手に言うような無分別なことはしないつもりだけれど。
(リュールが望まないものを僕がただの女に堕としたのなら詫びもしよう。でも、そうじゃない)
目覚めた時からリュールは自分でそう言った通り、赤ん坊のように無垢だった。あの時アルフレッドが赤を青いと、西を東と言えばそのまま信じたのではないかと思ったくらいだ。だから、あのときのままの彼女をアルフレッドが自分の意のままに染め、篭絡したのなら今のこの状況だって大変に不敬だろう。リュールの本意は置き去りにされ、半ば傀儡としてアルフレッドのためだけに生きる――そんな彼女など、想像したくない。
アルフレッドに会いたい一心でリトスを飛び出してきたのも、アルフレッドを気遣ってあんなに好きと繰り返してくれたのも、全てリュールの意思だ。邪竜との厳しい戦いを生き抜き、人として神として揺るぎない強さを得た彼女の紛れもない本心だ。それに応えることを不敬と言うのなら、アルフレッドだって全力で抗う準備がある。相手には、アルフレッドを鍛錬にしか興味のない無能と侮った報いを受けてもらうことになるだろう。
「う……ん……」
小さく言葉にならない寝言を言って、リュールがころんと寝返りを打った。アルフレッドの胸元に額をこすりつけ、ぎゅっと寝間着を握ってくる。アルフレッドが傍らにいることを微塵も疑っていない、無防備で甘えた仕草にアルフレッドの不機嫌は速やかに失せた。リュールの眠りを妨げないように、そっと彼女の背に腕を回す。
「参ったね。僕の方こそ、君のためだけのアルフレッドでいられたらよかったのに」
出来ない話ではないのだろう。セリーヌだって王族として立派に成長しているし、鋭い舌鋒は時にアルフレッドや母だって驚かせる。伴侶とする相手ももう内心定めているようだし、そちらとの調整がつけば妹にフィレネを任せて自分はリトスに渡る道だってあった。そうしないのは、どれだけ母が、そしてフィレネの民が自分に期待してくれているかをアルフレッド自身が痛感しているからだ。
自分がここまで成長し生きてこられたのは家族の献身と愛情だけではない。王太子として国を挙げて大事にされ、尊重されてきたから今のアルフレッドがいる。本来ならば死に至るはずの病を乗り越えて生きているのだって、フィレネという国が彼を――大事な後継者を生かすために莫大な金銭と労力とを費やしてくれたからだ。
決して安いものではなかっただろうそれは全てアルフレッドが王になるために拠出されたもので。王家に生まれ、生きるために民が多くを捧げてくれたその信に応える責務が彼にはあった。
アルフレッドの命はアルフレッドのものであり、民のものである。一度命を永らえているからこそリュールに出会えたけれど、同時にだからこそ彼女のためだけのアルフレッドではいられない。ままならないものだと、何度思ったことだろう。
「君は、それでもいいんだと言ってくれたね。嬉しかったんだ……どうしようもなく幸せに思うんだ。君という伴侶を得られたことが……君とこうして一緒に眠れることが。例えようもなく、僕を幸せにしてくれる」
リュールはそんなアルフレッドの生き方を肯定してくれる。ずっと一緒にいることだけが愛情ではないのだと教えてくれる。会えない時間もまた、会えた時の喜びをふくらませる材料でしか無いのだと――自分は何が伴侶のあるべき姿なのかよく知らないから自分たちの形を作っていけばいいのだと言ってくれる彼女に、アルフレッドの胸は幸福でいっぱいになってしまう。
この幸せを、伝えられるうちに全て伝えてしまいたい。だからアルフレッドの愛情表現はおおらかで開けっ広げで、よくリュールを困惑させたり恥ずかしがらせてしまうけれど。いつ突然終わりが来てしまうかもしれない身だ、伝えきれずに後悔だけはしたくなかった。
(弱気はいけないね。一日でも長く君と生きる。そう決めたのだから)
思考は様々なところをぐるりと回って、いつも同じ結論にたどり着く。誰になんと言われようとリュールの伴侶として一日でも長く生きていく。彼女がそれを望んでくれるなら、それ以上の目的なんてアルフレッドの人生のどこにも存在しないのだ。
「あるふれっど……?」
腕の中でもぞもぞとリュールが身じろぎをし、綺麗な赤と青が覗く。まだ眠気にとろりとした目は、頼りなく虚空をさまよった後アルフレッドを見つけて幸せそうに弧を描いた。
「よかった、いました」
「まだ眠っていてもいいよ。出発には時間があるからね」
「……ん。アルフレッドは、鍛錬には行かないのですか」
「もう少しこうしていたいんだ。明日からはまた、君のいない朝が来るから」
「そう、ですね……さみしいです」
リュールの腕が気怠げに持ち上がって、アルフレッドの背に回る。ぎゅう、と抱きついてきた彼女はもう二度寝の縁に落ちかかっていたけれど、眠気に抗いながら彼女は言った。
「でも、もっとずっと時間が経って……あなたと私のこどもが王様になったら。そしたらきっと、ずっと一緒にいられます。こんな朝が当たり前になる日が来ますから」
「……もっとずっと、未来に?」
「はい。だから……それまで……もっとその先まで、元気で、私の伴侶でいてくださいね、あるふれっど」
アルフレッドは驚きと共にリュールを見た。彼女はもうすっかり寝入ってしまって、また規則正しい寝息ばかりが聞こえてくる。無意識にその背を撫でながら、アルフレッドの頭の中には彼女の言葉が繰り返し響いていた。
「それまで……もっと、その先まで……君は僕が生きている未来を、見てくれているんだね」
千年眠っていたリュールにとって、アルフレッドが引退するまでの数十年なんてあっという間なのかもしれない。それでも戦いや慣れない政務に追われて、今まで今日を生きることだけで精一杯だった彼女がそんな何十年も先のことを考えられるようになったことが嬉しく、我が子が――自分とリュールの子が王位を継ぎ、自分はリュールの傍らで余生を過ごしている未来の幻はアルフレッドに震えるほどの幸福をもたらした。
そんな明日がいつかやってくるのなら、どんな努力が必要だったとしても生き抜きたい。それが、リュールの願いならなおさら死ねない。アルフレッドはこみ上げてきた強い感情を胸のうちに留め、リュールをそっと抱きしめた。
「ああ……生きよう。生きるとも、君のために。僕は……絶対に生きるよ、リュール」
早朝の誓いを、眠るリュールはきっと聞いていない。それでいい。彼女は何も知らないまま、老いたアルフレッドを見送ることになる。絶対に、そうする。病で倒れる自分を、彼女に見送らせたりはしない。
静かに、けれど強く決意するアルフレッドの腕の中でリュールはすっかり安心して眠っている。いつも、この寝顔をあと何回見られるだろうと数えていたはずなのに、今はもう数える気にはならなくなっていた。
自分の現金さにくつりと笑って。アルフレッドももう少しだけこの幸福に浸るべく、そっと目を閉じるのだった。