猫の眠り『アベラルドが過労で倒れた』。
久しぶりにアスターに訪れる機会ができて、オーシディアスの王城に入るなり聞かされた言葉がそれだった。
なんであいつは自分の事となるとこうもぞんざいになるのか。俺は額に手を当ててため息をついた。
「それは心配ですね……念の為、何かの病気に罹患していないか私も診にいきましょうか」
「来ていただいたばかりのところを申し訳ないのですが……ありがたいです。ぜひお願いできますか、エレナさん」
「それなら俺も見舞いにでも行くかね」
「ええ、そうしてあげてください」
エレナと俺の申し出に頷くと、レティシアは先頭に立ってアベラルドの部屋へ向かった。
王城の廊下で人々とすれ違いながら、レティシアからあらかたの顛末を聞く。
「もうずっと人手不足が続いていましたから、アベラルドも前線から事後処理までやることが立て続けで……」
「事情があるのは分かるぜ。けどあいつももう少し体を休めないと本末転倒になるのが分からないのかねぇ」
俺が文句を言うとレティシアとエレナが同時にクスクスと笑った。
「おいおいなんだよ、俺何かおかしいこと言ったか」
「エレナさん、レイも大概素直じゃないですよね」
「ふふっ……ええ、心配なら心配だとそう言えば良いのに」
女性陣は目配せして笑う。二対一では敵わない。俺は早々に両手を挙げた。
「さて、着きました。……アベラルド、入りますよ」
レティシアがドアを軽く叩いて声をかけたが、部屋の主の返事がない。眠っているのだろうか。
ドアを開けて部屋に入ると、奥の寝台にアベラルドは横たわっていた。
「眠っていらっしゃるようですが……出直しましょうか」
エレナがレティシアに伺いをたてると、アベラルドが身じろぎしてゆっくりと瞼を開けた。
「んん……ひめ……?」
「起こしてしまったわね、アベラルド。ああ、起き上がってはだめよ。そのまま」
体を起こそうとするアベラルドをレティシアが制したが、動き方から見るに随分と辛そうだ。
「アベラルド、先ほどレイとエレナさんがいらしたわ。エレナさんが貴方の調子を診てくださるそうよ」
エレナが一歩出て軽く頭を下げる。俺はドアの傍にもたれかかって様子を見ることにした。
「お久しぶりですアベラルドさん。早速ですが少し状態をチェックさせてください」
エレナが診察をする間、レティシアは俺と並んで離れて見守っていた。
「しっかしまぁ、あいつのしれっと無理をする癖、いまだに治らねーのな」
「……気負わせているこちらにも、きっと責任があるのでしょう」
青い両眼が少しだけ伏せられる。彼女にこんな顔をさせる事だって、あいつの望むところではないはずだ。
「そんな顔するなよ。人手不足を解消するのは上の仕事だろうけど、クーデターに始まった一連の収束からそれほど経ってないんだ。仕方ないさ……それに」
眉尻を下げたまま彼女は顔を傾げる。
「レティシアがそんな顔してたらあいつ、余計に無茶するぜ。上の人間は余裕ぶってどーんと構えてるのがいいのさ。……大丈夫だ」
にいと笑ってみせると、ようやくレティシアも少し笑顔を取り戻した。
「……ええ、なんとかなる。そうですよね」
「そういうことだ」
顔を見合わせて笑い合う。と、ちょうど診察を終えたらしいエレナから声が掛かった。
「ざっと見させていただきましたが、特に問題のある箇所は見当たりませんでした。自覚症状としては発熱と倦怠感、軽い頭痛との事ですが、疲労からくる一時的なものとみていいでしょう。消化器官に負担が掛かりにくい食事で栄養をとって体をきちんと休めれば、数日で回復が見込めるかと」
「良かった……!安心しました」
レティシアが手を合わせて顔を綻ばせる。
「良かったなレティシア、アベラルド」
「ああ。……すみませんエレナさん、いらっしゃって早々、お手を煩わせました」
アベラルドも眉を下げて頷く。
「いえ、私の大切な友人の為ですし、これくらいお安いご用ですよ。ではアベラルドさん、しっかり体を休めてください。お大事になさってくださいね」
「では私たちはこれで失礼するわね。ちゃんと寝ないとだめよ、アベラルド」
主人の忠告にアベラルドは少し困ったような顔を見せた。
「はい、しかし先程まで大分眠っておりましたので……」
「ならちゃんと横になってるか俺が見張っておくかね」
言葉を遮って前に出ると、アベラルドが目を丸くした。俺の意図を察したエレナが困ったように笑う。
「レイ、相手は病人なんですからね。ほどほどにしないとだめですよ」
俺がひらひらと手を振ってみせると、レティシアとエレナは揃って部屋を出て行った。
寝台の傍らに、エレナが診察中座っていた椅子が一脚置いてあったので、そこへ腰掛ける。
アベラルドは髪を解き、リネン生地のような乳白色の寝衣を纏っていた。
「久しぶりだな、アベラルド」
「ああ。クロエさんやアントニオ殿は元気にしておられるか」
「みんな元気にやってるぜ。ったく、お前は少し自分の心配をしろっつの」
「む」
アベラルドの長い前髪をかき上げて額の熱を測る。なかなかの熱さだ。これは辛いだろう。
「なぁ、レティシアの為に頑張るお前を否定するつもりはねーけど、あんま無理をするなよ」
「……今後はこのような不様を晒すことはせん。もっと上手くやってみせる」
これは、上手く伝わっていないな。頭を掻いて言葉を選び直す。
「あのな、みんなお前を心配してるんだよ。
頑張りたい時に頑張る為にも、適度に体を休めることを覚えてくれ」
アベラルドが眉を下げて視線を僅かに彷徨わせる。
「しかし……いや、うむ……善処しよう」
「ああ、そうしてくれ」
コイツにしては良い返事だ。俺はアベラルドの頭をポンポンと叩いてやった。
「子供扱いをするな」
「はいはい」
アベラルドは軽くあしらわれたのが不満なのか、少し口を尖らせている。
「さてと、どうだ?眠れそうなら眠っておいた方がいいぜ」
「……いや」
珍しく歯切れの悪い返事に俺は首を捻る。
「それより、今回はしばらくこちらに留まるのか」
「んん?ああ、そうだな。俺も仕事が一区切りついたからな、邪魔にならない程度に留まるつもりだぜ」
「……そうか」
納得した様子のアベラルドから視線を外し、部屋を見渡す。窓からの日差しはたっぷりと入り込んで室内の彩度を上げていた。室温も暖かく保たれている。
椅子から立ち上がって窓辺に立つと、外にはよく晴れた空が広がっていた。
ふと寝台の軋む音がしてそちらを見ると、アベラルドがじっとこちらを見ていた。
俺はぱちくりと瞬きをする。
「あー……」
特に何か言うわけでもなくずっとこちらを見ているアベラルドに、もしかしてと思った俺は、少し伸びをする振りをしてから、寝台の方に向き直った。
「俺はここでお前が寝てるか見張ってるから、眠くなったら構わずにちゃんと眠れよ」
「……ああ」
アベラルドはこちらを向いたまま少し布団に潜り直した。
記憶にある昔のことを思い出す。熱を出して寝込んでいた時のことだ。ちょうど、今のアベラルドのように。
看病の為に家族がそばにいて、話し相手になってくれる間はいい。だが熱で具合も悪く寝付けない中、一人で寝台に横たわっていると心細く感じることがあった。誰かそばにいてほしい、一人になりたくないと思うことも。
彼も今、そう感じているのだろうか。
相変わらず無言の視線を感じながら、寝台の傍に回り込んで縁に腰掛ける。掛け布団の皺を軽く直して山になったあたりをトントンと叩いた。
今度は特に文句が返ってくることもなかった。
目を開けると夕陽に照らされる室内が視界に入った。どうやらあのまま自分も眠ってしまったらしい。組んでいた腕を解いて肩を回すと、腰の辺りが温まっていることに気がついた。
視線を移すと、アベラルドがその背中を自分の方に寄せて、丸くなって眠っていた。
衣服に温度調節の機能がついていたから、暖かかったのだろうか。まるでなかなか懐かない猫でも見ているようだった。
よく見ると掛け布団の端を両腕で抱え込むようにして、そこに顔を埋めてアベラルドは眠っていた。
いつもの彼の毅然とした姿からは想像もつかない寝相に笑みが溢れる。背中に布団を掛け直しておくか。
「息、苦しくねーのかよ」
「……ぅん……」
思わず呟くと、アベラルドが答えるように声を発した。驚いて動きを止める。寝言か。起きているわけではなさそうだ。
「…………れいも ……」
目を見開く。今、名前を呼ばれたか?……自分の?
驚きが落ち着くと喉の奥で笑いが溢れた。一体どんな夢を見ているのやら。
「お前、そこはレティシアか、せめてテオ辺りにしとけよ」
まあ、光栄ではあるけどな。心の中で付け加える。
こいつが今見ている夢の中の世界は、せめて平和であってほしいと思う。そして願わくば、この先の王国が、この星が、平和であるようにと祈った。
それこそ、かつて文献で見た何処だったかの彫刻の、眠る猫の背で戯れる鳥達のような、穏やかな平和を。
まあ俺が願うまでもなく、アベラルド達が努力の末に手に入れていくであろうことも想像できる。
だからどうか、今はこの働き者の騎士に穏やかな休息を。