夏の日 ガタ、という大きな音がして、高明は自販機から吐き出されたばかりの缶コーヒーを手に取った。そばのベンチに腰を下ろし、背中を壁にあずれけば、視界に入る蛍光灯の光がひどく眩しい。疲れが目にきているのかと、冷たい缶のプルタブに指をかけ、開けた瞬間に香る嗅ぎ慣れた香りに深く息を吐いた。
夕方を過ぎ、ぼんやりとし始めた頭を一度切り替えようと口に含んだコーヒーの苦味が、じわりと喉から胃の辺りへ落ちていく。もう一口、と持ち上げた缶がなぜかひどく重かった。
最近は立て込んでいて、やはり疲れがでているのだろう。
そういえば、忙しさもあって昼もあまり食事らしい食事ができていなかった。
(また、敢助君に怒られてしまいますね……)
以前、忙しさのあまり食事の時間を削って仕事をこなしていた時、敢助に無理矢理食事に連れ出されたことを思い出し、高明の口元に僅かに笑みが浮かんだ。本当に過保護だと、もう一度コーヒーに口をつける。
(そういえば、以前にも……)
霞むばかりの意識のなか、高明は遠く、蝉の声を聞いていた。
その年の夏は特に暑かった。高校からの帰り道、高明は額から流れていく汗をタオルで拭い、見慣れた道を歩いていく。アスファルトからの照り返しもキツく、蝉の声が耳障りなほどで頭が痛くなりそうだった。
そんな中で、隣を歩く敢助が話す、今日の国語の小テストのことや、夏休みの予定などに何となく相槌をうつ。
ただ、今は一刻も早く帰りたかった。うるさいばかりの蝉の声や、刺すような日差しから逃れたい一心で、足を強く踏み出す。その瞬間、くらりと視界が揺れた気がした。
「高明!」
一瞬、周囲のすべての音が消えた。強く腕を引かれ、触れた身体がひどく熱い。
「かん、すけ……くん……?」
何が起きたのか理解できないまま、見上げた顔が歪んでいた。まるで抱き止められたような状況に、頭がついていかない。
「歩けるか?」
「……ええ」
何も分からないまま返した声が、掠れていた。そのまま手を引かれ、通学路を逸れて公園に入る敢助の後を追う。強制的に座らされた木陰に設置されたベンチは、この暑さだというのにひんやりとしていて気持ちいい。
「ほら、飲めよ」
そう言って差し出された水筒を、問答無用で受け取らされた。自分のものがあると言う気力すらなく、両手で持った水筒をゆっくりと傾ける。冷たいスポーツドリンクが、喉から胃に流れ落ちていく感覚。そういえば、今日はあまり水分を取っていなかったかもしれないと、あまり重さの変わっていないカバンの中身を思い出す。
「……ありがとうございます」
「ああ」
高明から水筒を受け取り、今度は敢助がそれに口をつけた時だった。
ざわざわと木々を揺らして、風が通り抜けていく。木の葉からまだらに太陽の光が落ちて、敢助の健康的な色の肌の上を滴る汗を照らした。
青い空に遠く、入道雲が流れていく。
うるさいほどだった蝉の声さえ、その時の高明には聞こえなかった。
きっと、あの瞬間だった。
何か特別なことがあったわけではない。敢助に手を引かれ、連れてこられた公園で同じものを飲んだ。
ただ、それだけなのに。
先ほどの光景が頭から離れない。
「高明?」
一言、呼ばれた名前に鼓動が強く跳ねた。いつもならよくまわる口が、今は言葉がひとつも出てこない。大丈夫かと、触れられた手がひどく熱くて、高明は強く制服の裾を握りしめる。
陽炎が遠く、揺れていた。
「高明? お前、大丈夫か?」
ぼんやりと霞む視界の中、瞳に映った見慣れた顔に、高明は何度か目を瞬かせた。
「敢助、くん……?」
蛍光灯の光を背にしているせいで、表情が分かりにくいけれど、心配されていることは間違いないらしい。伸ばされた手が額に触れて、二人の距離が近くなる。
「熱はなさそうだな……とりあえずこれ飲め」
一瞬触れて、離れた距離に寂しさを感じる間もなく、差し出されたスポーツドリンクを受け取る。持っていたはずの缶コーヒーはいつの間にかベンチの端に移動していた。
ありがたく受け取ったペットボトルの蓋を開け、両手で包んだそれをゆっくりと口元は運ぶ。ほんのり甘い液体が喉から流れ込み、全身へ広がっていくような感覚に、高明は深く息を吐き出した。それを見届けたのだろう、敢助が呆れに近いため息を吐いたのが聞こえて、高明は思わず視線を逸らした。
「今日、ろくに飯食ってねぇだろ。あんま水分も取ってないんじゃねぇか? そんなことしてるとすぐにぶっ倒れるぞ」
何ひとつ言い返せる要素がない。気づいたら動けなくなっていたのだが、正直に言えば敢助にはあまり気づかれたくなかった。
高明が無茶をすると彼は言うが、それに関してはお互い様だ。敢助の行動に冷や汗をかいたのは一度や二度ではない。その時のことを思い出して、一瞬胃の辺りが鋭く痛む。
君だって、と言おうとして開いた口が、何も言えずに閉ざされて、手の中にあるペットボトルが嫌な音を立てた。
「……君に言われなくとも」
分かっていると、手の中に収まっていたものを突き返す。俯いたままなので、彼の顔は見えない。けれど、今は自身の顔を見られたくなかった。情けなく歪んでいるだろう顔を、敢助に見せたくない。
そう思って、無意識に視線が足元へ落ちた時だった。
「無理すんなよ」
そう言って、髪をくしゃりと撫でた大きな手。思わず見上げれば、敢助のもう片方の手には先ほどのペットボトルがあった。封のあいたそれに、敢助が口をつける。
一瞬、その背景にある蛍光灯の光と、記憶の中の木漏れ日が重なった。次の瞬間、署内の人のざわめきが木々のそれに移り変わり、遠く蝉の声すら耳の奥で響いてくる。
「高明?」
呼ばれた声が、高校生の頃の彼の声と重なって、脳を強く揺さぶられた気分だった。
大丈夫かと、髪を撫でた手がゆっくりと降りていく。触れられた場所がひどく熱くて、めまいがする。
あの日と同じだと、浅くなった呼吸を意図的に深く吐き出して、膝に落ちた手を強く握りしめた。
(あの時、きっと僕は君に、恋をした。
届く予定のない、恋を)