心配性 ざわつく店内で、高明は深く深く、ひとつため息をついた。その間にも目の前に座る幼馴染であり恋人でもある敢助がスラスラと店員に注文を告げていく。こちらの意思を聞く気がないあたり、何か思うところはあるらしいと察して、高明は無言のまま店内を見回した。
ホワイトボードに並ぶ手書きの文字と、壁に貼られた期間限定と赤字で書かれた手作り感満載のメニュー。夕方とはいえ、すでに出来上がった人たちや、家族連れで賑わう店内は、居酒屋と定食屋を足して二で割ったような雰囲気だろうか。普段敢助が選ぶ店としての違和感はないが、高明を連れ出す意図はなんなのか。
(可能性があるとすれば……)
頭の中にある思考をまとめようと、高明が年期の入ったテーブルに肘をつこうとした時だった。
「お待たせしました!」
どん、と勢いよく置かれたビールとウーロン茶に、敢助が礼を言って、グラスをこちらに手渡してくる。
「飲みすぎないでくださいね」
視線だけを彼の手元に向ければ、敢助にも意図は伝わったらしい。
普段ならば人に運転させて……と嫌みの一つでもこぼすところだが、その言葉を飲み込んで高明は受け取ったグラスをジョッキに軽く押し当てる。カン、という小気味よい音と同時にジョッキに口をつけた敢助の飲みっぷりは、見ているこちらも気持ちがいいほどだった。
「これは……」
お通しをつまみながら、他愛ない話をしている間に、気づけばテーブルの上には隙間がないほどに料理が運ばれてきていた。
「ほら、食えよ。ここの料理は何食ってもうまいからな」
そう言って敢助がいくつか皿を入れ替え、高明の方へ寄せた。冷奴やトマトのスライス、枝豆や唐揚げなど、居酒屋の定番メニューから、なぜかナポリタンまで並ぶテーブルの上に、高明はまた一つため息をこぼした。
「注文しすぎでしょう。物には限度があるかと」
「そうか? こんなもんだろ」
十年前ならまだしも、お互い三十路を超えてしばらく経っている。そうでなくとも……と、高明はそっと自身の胃の辺りに手を添えた。元より健啖家というわけではなかったが、しばらく続いた異常な気温のせいでさらに減った食欲は、ついにゼリー飲料くらいしか受け付けなくなっていた。
敢助がそのことに気づいていなかったはずはないと、高明は罪悪感から僅かに眉を寄せた。普段は鈍感すぎるくらいだというのに、目の前の男は意外に目敏くて。
高明の隠したいことばかり気づくのだ。
(君のそういうところが好きだと言ったら、どんな顔をするんでしょうね)
高明は知らず、口元に笑みを浮かべると静かに割り箸を手に取った。
テーブルに並んだ料理に視線を落とせば、確かにどれも美味しそうだと、まずは胃に負担の少ないものを選んで口に運んでいく。その様子に納得したらしい敢助が、ジョッキに口をつける姿が、ひどく満足そうに見えた。
「これは……確かにおいしいですね」
高明が最初に手に取ったのは冷奴だった。ただし、豆腐にかかっているのは醤油ではなく、梅肉とごま油を和えたもので暑い日でも食べやすいはずだと、敢助は視線を高明から外さないままビールに口をつけた。少し前に教えてもらったこの店は、近所の人が客のほとんどを占める定食屋だった。
夜は居酒屋のようになるが、基本的には頼めばなんでも出てくるらしい。ハンバーグやオムライスも平然と出てくると聞いていたが、隣の席の家族づれのテーブルにはお子様ランチらしきものもある。酒の種類も豊富で、それは店の主人の趣味だと言うから驚きだと、敢助は視線を壁に貼られたメニューに向けた。そのまま目が合った店員に次の酒を頼めば、元気のいい声が返ってくる。
店内はざわついているが嫌な雰囲気はなく、どちらかというと家庭的な空気感が心地良い。テーブルのほとんどは常連らしい客で埋まり、どこも会話が弾んでいるようだ。それがより店の雰囲気を良くしているのだろう。
(ここでなら、人目を気にする必要もねぇしな)
普段は知り合いに会うことを気にして高明の家で食事をとることが多いが、この店は職場からも離れているおかげでその心配は少ない。
高明の家で二人きりでは、この暑さであまり食事をとりたがらない高明も、敢助の目を気にして無理をしてでも食事を取ろうとするだろう。
それでは意味がないのだと、高明に視線を戻した。
思いの外料理が口にあったらしい彼は、口当たりのいいメニューを選んで手を伸ばし始めたところだった。それをつまみに、残っていたビールを飲み干せば、タイミングを見計らったように日本酒が運ばれてくる。店員に短く礼を告げて、升に入れられたグラスに手を伸ばそうとすれば、高明の視線が鋭く敢助を射抜いていた。
「分かった分かった、これで最後だ。それでいいだろ」
敢助一人で飲んでいることより、敢助が飲みすぎることを気にしているらしい高明がまたひとつため息を吐く。そしてまた、食事に戻る姿に、敢助は思わずその髪を撫でたくなる衝動を堪えていた。
敢助がこの程度で酔うほど酒に弱くないということは、高明も知っているはずだ。今のは純粋にこの暑さからのアルコールで、脱水やその他の体調不良を心配してのことだろう。今度は魚に手を伸ばそうとした彼に、敢助はそっとその皿を近づけた。
「それ、うまそうだな」
「ええ、敢助君もお酒ばかり飲んでいないで食べてください」
ほら、と彼が気に入ったらしい冷奴を一皿こちらに向けてくる。
敢助をまっすぐ捉えたその目にはアルコールばかりでは身体に良くないと、心配の色が滲んでいた。
「分かってる」
自分自身の体調も思わしくないはずなのに、彼の心配事はやはり自分のことかと敢助は思わず浮かべた笑みを気付かれないように、皿に手を伸ばした。
代わりに、空いたスペースを埋めるように魚の干物を高明の近くに寄せる。普段からあまり食べない彼に、あれもこれも食べさせようとする癖が抜けきらず、どうしても高明の方にばかり料理を寄せてしまうことに気づいたのはいつだったか。それを見かねて、困ったように『そんなに食べられませんよ』と笑う彼を見るのが敢助は好きだった。
(まぁ、そんなこと言ったら照れて、一緒に飯食ってくれなくなりそうだがな)
冷奴を一口、口に運んでから敢助はゆっくりと目の前の彼に視線を向けた。
どの料理も気に入ったらしい高明は、普段より良く食べているように見える。ここ数日あまり食事を摂れていなかったのだから、急に大量に食べるのは良くないが、これくらいならまだ許容範囲だろう。
それになにより、好きなヤツが美味しそうに食べる姿はどれだけ見ても飽きないものだと、敢助は満足そうに高明を見つめた。
「敢助君?」
その視線に気づいたらしい高明が、不思議そうに敢助を見つめ返す。その目が少し幼く見えて、敢助は思わずその頭に手を伸ばした。
くしゃりと撫でた髪の感触は柔らかくて、愛おしさで胸がいっぱいになる。酔っているのだろうと言われればそれまでだが、この心地良さは何物にも変え難いものだった。
手放したくないと切に願ってしまうほどに。
「いや、なんでもねぇよ。ほら、もっと食え。これも好きだろ?」
「そんなにいっぺんに食べられませんよ」
そう言って困ったように笑う高明に、敢助はつられるように笑みを返していた。
賑やかな店内は変わらず、あたたかい雰囲気が二人を包み込んでいた。