お互い様「なんですか?」
「……なんでもねぇよ」
休日前夜の店内の賑わいに耳を傾けながら、高明は割り箸を手に取ったまま、敢助に問いかけた。
なんとも歯切れの悪い返事に、高明の眉間に皺がよる。けれどそれ以上追求したところで、返事は変わらないだろう。高明はあからさまなため息をひとつ溢すと、目の前にある蕎麦に箸を付け始めた。
明日はお互い非番なのもあって、夕飯を外で食べようということになっていた。相変わらず蕎麦とパスタで一度揉め、今回は高明が譲ったが、もやは次は譲まいと心に決める。
けれど、食べ物に罪はないと啜った蕎麦が喉を通り過ぎていく。
やはり蒸し暑い日に食べる冷たいものは良いと、食べ進めようとした時だった。
「あ……」
耳にかけた髪がはらりと落ちて頬を滑った。どうしても食事中は邪魔になると、無作法とは思いつつ箸を一度置く。そして、指先を額にかかる長い前髪と一緒に耳にかけた。これでよし、と思うと同時に、見なくても分かる強い視線。
今度は視線だけを対面の席に座る敢助に向ければ、かち合う視線にもうため息も出ない。
(僕の顔に見惚れた、などと君が言えるはずもありませんからね)
(こいつの顔に見惚れたなんて言えるわけねぇ……)
敢助は深く深く、ため息をついた。そして、視線だけを目の前に座る高明に向ける。同じものを食べているだけだというのに、蕎麦を箸で口に運ぶ動作から目を離せない。
(俺もいい加減見飽きてもいい頃だろ……)
そう思うのに、今でも高明の顔から目を離すこともできず、敢助は無理矢理手の止まったままの蕎麦へ意識を戻した。
高明と付き合い出したのは割と最近のことだが、敢助が彼を意識し始めたのは随分前だった。もともと他人とはどこか違うとは思っていたが、決定的になっだのは高校生の頃だろうか。
何を話していたかなんてもう覚えはないが、敢助の一言に高明がふと笑った瞬間があった。切れ長の目を僅かに細め、一瞬だけの優しい笑み。春の柔らかい日差しに照らされたその横顔を、敢助はもうずっと忘れられずにいる。
けれどそれから何年隣にいるだろうかと冷静に考えて、数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの月日に頭を抱えたくなるのも事実だった。
今も毎日顔を合わせているのに、目の前の顔を見飽きる気配はない。
一体いつになったら見飽きるのかと、自分に問いかけたところで答えはなくて。
(コイツ、俺が顔だけが好きとか、勘違いしてねぇよな……?)
視線を感じると苛立ったような瞳を向けられるのを思い出し、敢助はもう一度高明へと視線を戻した時だった。
「あ……」
はらりと落ちた髪を耳にかけるだけの動作と、上目遣いのように視線だけをこちらに向けた顔に、暑さのせいではない眩暈を覚えて頭が痛くなる。
その瞬間、高明の目が『またですか?』と問いかけてきているようで、敢助は慌てて視線を逸らした。
いい加減にしたいのはこちらも同じだと、言ったところで意味はない。敢助は、もはや何度目になるか分からないため息を深く吐き出した。
夏とはいえ、夜の空気は昼より少しだけ涼しくて気持ちがいい。
店から少しだけ離れた駐車場までの道中も、この気温ならば悪くはないと高明は街頭に照らされる敢助の横顔をこっそりと視線だけで追っていた。
敢助が高明の顔をよく見ていることには、随分前から気づいていた。
それはもう学生の頃からで、すでに敢助に友情以上の感情を抱いていた高明はその視線の意味を分からずにいた。けれど、叶わぬ恋の相手からの視線を厭うことなどできるはずもなく、見られていること自体も慣れてしまい、受け入れることにしていた。
それが今、恋人同士という関係に変わり、どうやら彼は高明の顔を気に入っていると気づいてからは複雑な思いに変わった。敢助に思いを伝える前に知っていたならば、いくらか利用しようと思えたかもしれないが、今はもうそんな気にもならない。それどころか、顔だけが好きなのかと余計な不安に煽られる。
(敢助君に限って、そんなはずは……)
湧き上がる不安を自分で打ち消しても、また消えることのない疑問が浮かんでは無理矢理蓋をする。
好きだと伝える前ならば、こんな思いをすることも、敢助を疑うような気持ちを抱くこともなかったというのに。じっとりと嫌な汗が手のひらに滲んで、高明は思わず強く瞳を閉じた時だった。
「高明」
「敢助、く……?」
不意に聞こえた、今は彼だけが呼ぶ呼び名に反射的に肩が震えた。
なんですか、と問うより早く伸びてくる手に指一本動かせない。
「なんかついてんぞ? ほら」
そう言ったかと思うと、敢助の指が頬の辺りを強く拭った。うまく取れなかったらしく、何度も指先が同じ場所を擦る。
「痛い、ですよ。敢助君」
「……悪い」
今度は先ほどの場所を優しく辿る指が、どこかくすぐったい。けれど、そんなことを思ったのも一瞬だった。
「あ……」
間近に迫った彼の顔に、鼓動が強く脈を打つ。見慣れた顔だというのに、唇が触れた瞬間を思い出して身体がうまく動かない。
こんな往来で、そんなことをするはずがないと分かっているのに、近すぎる距離に要らぬ想像が頭の中を埋め尽くす。
以前とは変わってしまった距離感に、未だ慣れない高明は思い出してしまった感触を打ち消すように強く首を振った。
「どうした?」
「なんでもありません……」
こんなことを考えてしまうだなんて、と深く息を吐く。もう一度視線だけを敢助に向ければ、同じようにこちらに視線を向けていた彼とかち合って、慌てて二人でそっぽを向いた。
いい歳をして何をしているのかと、二人揃って吐いたため息が夏の夜に消えていった。