恋心はいつも遅れて木枯らしに吹かれながら家に帰ると、おやつにたい焼きが出た。いっこしかないそれを半分こして、あたしはたっぷり餡が入った頭のほうをもらった。お夕飯は旬のカレイの煮付け。ほんのり甘いタレが美味しくてついたくさん食べてしまう。食後のデザートにはリンゴをむいてきた。パリッとして甘すぎず酸味がちょうど好みのやつ。
だからというわけではないけれど、何となく察してはいた。風呂の後、教科書を学校に忘れてきたから貸して欲しいだなんて、冗談にしてはつまらない理由で部屋に入ってきたのだから。
とっくに寝支度を終えたあたしは布団の上にいたし、あんたはもう本当の理由を隠そうともしなかった。気づかないふりしてキスだけして、おやすみを言って離れようとした体に、腕を回された。
「アンナ……、だ」
「ダメよ」
聞かれる前に一刀両断すると、葉は口をへの字にして、ぐぬぬ、と唸った。
「なんでだ」
「そういう気分じゃないから」
「気分、って」
「気分は気分よ。おやすみ」
腕を振り解いて電気を消す。明朝は一段と気温が下がるのか手足が冷たくなってきた。湯冷めする前に早いところ寝てしまいたい。
なのに性懲りも無く、一緒に布団に入り込んでくる。
「ちょっと、何してんのよ」
「オイラだってそういう気分なんよ」
「知らないわそんなの」
そうこうしている間にもジリジリと距離を詰めてくる。ああ…もう!平手か足蹴かと迷っているうちに、力づくで抱きしめられた。抵抗するとますます変なスイッチを入れてしまいそうなので、なるべく色気なく泰然と、言う。
「わかったわ」
頭の上に乗せられていた顎が、ぴくりと動いた。
「何もしないならそのまま朝までいてちょうだい。あんたあったかいから」
湯たんぽというか、毛布みたいな。
「そ…!それはあんまりだろ…」
あからさまに落胆した声。
「なぜ?」
もうすっかりそういうつもりで、こちらも目の前の体に抱きつく。自分より高い体温。洗い立ての寝巻きの、柔らかな匂い。こんなに心地良いのに。
「あんたは、そういう目的でしかあたしと寝れないの?」
うっ、と、葉の体が固まった。
胸元に顔を擦り付けると、心臓の音が聞こえてくる。速い。まるで小動物みたい。
「あたしは、こうやってあんたにくっついてるのが好きなんだけど。ダメかしら」
ううっ、と、今度は苦いものでも食べたみたいな、変な声がした。
「……アンナはその、嫌、なんか?」
「なにが」
「………する、のが」
叱られた子供みたいにしゅんとした声が頭の上から降ってきて、思わず絆されそうになる。いけない。
「嫌とは言ってないわ。疲れるけど」
「……」
正直に言うと、今度は完全に黙ってしまった。葉?と名を呼ぶと、うん、と、静かな返答がある。
「……そーいう、わけではないが」
「…なにが?」
「くっつかれるのも、好き、なんだが」
ハァ…と、重いため息。
「が、なによ?」
「……穏やかではないというか」
要領を得ない言い方をする。
「触れていると、なかなかそれは……」
ゴニョゴニョと言葉を濁す。要するに障りがあるらしい。男とは難儀な生き物だ。
こういうとき、かわいい女にはなれないあたしを、あたしは憎む。
「なら触らなければいいのよ。おやすみなさい」
ぐるりと力づくで体を捻り、葉に背を向ける。
黙って委ねてしまえればいいのに。そうしたらこの男はあたしをますます大切にして、明日の朝もきっとご機嫌で、その顔を見たあたしも嬉しくなるに違いないのに。
「…女も難儀ね」
「……アンナ?」
背後から窺うような声。もう知らない、聞こえないふり。ハァ…とまた、重いため息。諦めてくれたーーー諦めて、しまった。そうよそれがいい。お互いが、お互いに都合の良いだけの関係なんて。
心のどこかが、しん、とする。
「…じゃー、ガマン、する」
不機嫌そうに言って、あたしを後ろから抱きしめ直してきた腕に驚く。
「葉?」
「んー…、今日、だけな」
しんどいんよこれは……と心底辛そうに言う、その熱い吐息が背中に当たったーーー
ところで、どくん、と、心臓が大きく跳ねた。
「………自分の部屋で寝たらいいじゃない」
そんな我慢するくらいなら。こんな冷たい女、放っておいて。
「いやオイラも」
好きだし。
眠たそうな声で言って、そのままおでこをコツンと首元にくっつけてきた。それだけの接触。
「…おやすみ、アンナ」
バカみたいね。
バカみたいねあたし。そんなことで、気分、変わるなんて。
「……おやすみ」
でも言わない。やっぱり抱きしめてなんて。もっとキスして欲しいし、我慢しないでとか、疲れてもいいわなんて。
あたしはいつも、そう。あんたの声に、言葉に、自分の心を自覚する。
恋心は、いつも遅れて。
「…おやすみなさい」
呟いた声は自分で思ってたよりよほど甘やかで、自分に呆れた。
そうだ、明日はたい焼きを買って帰ろう。頭のほうをあんたにあげるから。
あたしはあたしを励まして、幸福な気分で目を閉じた。
おわり。