いいなずけたちの事情最後に見えたのは、琥珀色の瞳と絹糸のように細い髪で。
直後暗転した世界にもたらされたのは、マシュマロみたいに柔らかくて溶けそうな唇の感触、だった。
熱い。頭が熱い頬が熱い目が熱い。唇が、燃えるように熱い。
そのうえ今しがた口の中でとろけてしまったモノのせいで、甘い。圧倒的な甘さが脳を麻痺させてくるから。
唇が……あまい。
「なっ……ななななになになにすすする」
「なにするんだって?キスよキス」
「キッ………!!!」
「落ち着きなさい、たかがキスで」
「おっ、落ち着けるかっ!!!!」
バン!とオイラはテーブルを叩いた。くしゃくしゃになった金色の紙がポコンと跳ねる。甘さの元凶、チョコレートの入っていた包み紙。
アンナが、いかにもどうでも良さそうにスーパーから買ってきた、2月の真ん中頃のイベントのアレ。しかも今日は当日でさえない。その日はとうに終わってる。つまりこれは売れ残……適当にも程があるがそれでもくれると言うなら尻尾を振って受け取ってしまうのは。悲しいかな惚れた弱みというやつか。
なのに。
「べつにいいでしょ、減るもんでもないのだし」
「へっ、減るとか、そーいうことじゃなくて!なんでこんな……急、に」
言いながら声が小さくなる。オイラだけ喚いてるのが虚しくなってくるほど、アンナは顔色ひとつ変えず、それどころか残りの包みを開けて口に放り込んでいる。全く、動じていない。
「なんでって、して欲しそうだったから」
「……っ!」
図星を突かれて息が止まる。チクタクと柱時計が針を進める。たっぷり30秒くらいの沈黙を経て、口を開いたのはアンナだった。
「あのね」
はぁ、と、面倒くさそうにこちらを向く。
「あたしがあんたを愛してる、っていうのは知ってるわよね?」
「…………」
さらりと言われるが心臓が飛び出そうになる。一点の曇りもなく澄んだ2つの瞳は、その言葉が嘘ではないことをきっちり証明していた。
「それであんたとあたしは、許婚同士よね」
「………」
なぜか正座になる。ドッドッと胸の音がますますうるさくなる。
「あんたはあたしのチョコを喜んで受け取った。あたしがあんたにキスするのに、何か問題でもあって?」
最後のほうは凄まれた、とでもいうのか、とにかく有無を言わせぬ感じだったので。オイラはもう熱いとか甘いとかそういうどころではなくなって、けどとにかくひと言だけ、訴えた。
「は……初めてだったんだが……」
情けないとはこのことで。けどせめて。せめてせめて、初めてくらい、こう…オイラにも夢見てたシチュエーションがあったというか、なんというか。
「へえ」
渋めに入れていた煎茶をコクンと飲んで、アンナはその細い首を傾げた。
「そう。あたしも初めてよ。奇遇ね」
言ってにこりと笑った。その顔があまりにきれいすぎて圧倒されて、オイラはその瞬間、完全なる敗北を認めた。
「……葉殿?葉殿…っ!?」
阿弥陀丸が呼んでいる。しばらく意識を失っていたらしいオイラは、その声にようやく身体の感覚を取り戻した。気づけばあたりは真っ暗で、慌てて台所に入る。夕方、アンナに呼ばれるまでに手をつけていた夕飯の支度はそのままで、上の空のままでもなんとかごはんと味噌汁とおかずらしきものは、出来上がった。
「な、なにかあったのでござるか葉殿?」
尋常ならざる様子に阿弥陀丸が心配してくるが、オイラとて上手く説明などできない。
「…奪われた」
「なっ!?何をでござるか!?」
と叫びつつ室内をぐるり見渡したものの春雨が入っている包みを目に留めると「ん?」という顔になって(一番大事なものではなくて安心したのだろう)それからは理由も聞かずそのまま浮遊していた。そのときちょうどアンナがやってきたのを見てオイラが固まると、「ムムッ!」と眉を吊り上げ口を△にしたまま一瞬にして姿を消した。ただただ、すげぇな、とか思う。
黙々と、いつも以上に静かに夕食の時間は進んだ。
「ずっと見てるのね」
食後のみかんを食べながら、アンナは急に言った。
「…何を?」
「これ」
と自分の唇を指さしたからオイラは茶を吹き出した。
「したかったら、していいのよ?」
平然とした顔でツンツンと唇を突く。
「おっ…まえ、なあ…!」
「あら。じゃあ、いつあたしにしてくれるの?」
あんたからの初めて。
そう言って茶を啜った。あのなあ、そういうことを軽々しく言われると、だな…
「…オイラにだって、考えるところはあったんだぞ」
悔しくなって言うが。
「ぜひ聞きたいわ」
興味津々という風に微笑まれ、後に引けなくなってしまった。
「…例えば、花火大会の夜とか」
「夏なんてまだずっと先よ」
「……放課後の教室とか」
「なんでわざわざ学校なのよ。毎日同じ家に帰るのに」
「………突然の停電で」
「そんなこと言ってたら一生できないでしょ」
一生。と繰り返し言われて、もしかして本当にそうなのではないか、と、不安になる。
「なんて顔してんのよ。だからほら、どうぞって言ってるの」
アンナはわざわざオイラの隣にやってきて、ストンと座った。ほのかに香る髪の匂い、見上げてきた目を縁取る長いまつげ、桜の花びらみたいに薄く色づいた、くちび……
「………また、今度」
グイッとアンナの肩を押して立ち上がる。そのまま湯呑みを持って台所に向かった。頬がまた、熱くなる。数時間前に触れた柔らかい感触が自分のそこにも蘇り、熱が燻る。
「…葉?」
咎めるようでもなく本当に気がかりな様子でオイラを呼ぶと、アンナは後を追ってきた。いや。もう、これは。
「……無理だから」
振り絞って、言う。その声は予想外に刺々しいものになってしまい、慌てて振り向いてーーー猛烈に後悔した。
「……わかったわよ」
俯いたアンナは早口でそう言って踵を返した。咄嗟にその腕を掴み引き寄せる。アンナの身体が翻った瞬間、パン!と音がして、右頬に鋭い痛みが走った。
「悪かったわね嫌な思いさせて」
ひと息に吐き捨てたアンナの目が濡れている。あっヤバい、と思った時には手を伸ばしていた。その琥珀色の瞳が大きく開いて、絹糸のような細い髪が指にかかって、気がついたらまたあの、柔らかいマシュマロのような唇が。
「……ちょっと」
アンナが言う。すぐ目の前で。お互いの吐息がやけに熱くて、うるさいなと思い、もう一度塞いだ。
「葉…、ねえ、待っ」
切羽詰まった声。なんだよ、それどころじゃねーんだよ。今。
「苦しい……ったら!」
怒りと困惑が混じったような妙に色っぽい声で言って、アンナはオイラの胸を両手で押しのけてきた。
「……アンナって案外力弱いんだな」
「……っ!」
真っ赤になったアンナは今度は右手を振りかざそうとしたが、オイラが構えもしないのを見てそのまま手を下ろした。
その、肩が小さく震えるのを、見た。
「………だから、無理だって」
ハアア、と、なるべくゆっくり大きく息を吐くと、アンナの纏ってた空気が緩むのがわかった。
「……オイラから触れたら、ダメなんだって。少しは自覚してくれんか」
アンナの顔は見れなかった。けど、だいたいわかる。
「……自覚、って。何を」
こういうところ。一体どこまでわかってるのか。どこまで、オイラを。
「…許嫁なんだろ?」
「…そりゃ」
まだ、言わすつもりなのか。唇の熱がまだ残っている。ああ、もう、本当に。
「…どこまで許すのか、ちゃんと考えててくれんと、その」
さすがに。息を呑むのが聞こえた。わかったか。今度こそ本当にわかったのか。確かめる術はないので。
「それで……キスで終わりじゃなくなるから、無理だって言っとるんよ」
言ってしまってから今度は激烈に後悔した。ああ、これで最後…なんてことは、ない、とも言い切れないな…とか、なんとか。オイラのバカ、なんで正直に言っちまったんだ。
「……するわ、自覚」
「…は?」
囁くような声だった。気まずさを忘れて思わず顔を近づけると、真っ赤な顔で気丈にもオイラを睨みながら、アンナは言った。
「……次はする前に言うようにするわ。どこまでって」
「い、いや、アンナ!?言われたからって我慢できるわけじゃ」
アンナはオイラの叫びを最後まで聞くことなく、そのまま勢いよく部屋から出て行った。
「……なんなんよ…」
ハァ〜〜とまたため息をついて床に座り込む。これは来月お返ししなくちゃなぁ…など考え、オイラは自分を励ました。