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    fuchswaldcrows

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    fuchswaldcrows

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    2022年2月発行イデアズ旅小説アンソロジー寄稿作品の再録。
    執筆当時の本編進行は6章途中だった為、現時点で判明している設定と相違する描写が多々あります。
    南の島にバカンスに行く2人の話です。

    約束の海 週に一度の通話と月に二回の逢瀬が、二人の五年間を繋いでいた。
    「旅行、ですか?」
    『うん、そう。夏の間に二泊三日くらいでどうかなと思っておりまして……ほら、この前五店舗目も軌道に乗ってきたって言ってたし、今ならちょっと時間取れないかなって』
     週の半ばの十一時過ぎ、いつもの時間。電話口から届く低い声に耳を傾けながら、アズールは柔らかなシーツの上へ身体を横たえた。
     寝室の明かりを落として、先週末から枕元に置きっぱなしになっているスウェットの上着を指先で手繰り寄せつつ脳内に思い出せる限りのスケジュールを羅列する。
     商談、店舗の視察、今も続けている個人的なお悩み相談。日程の動かせない予定とジェイドに調整を頼めそうな仕事をざっと計算して、アズールは小さく頷いた。
    「そうですね……少し先にはなってしまいますが、来月の半ば辺りなら連休が取れると思います。それでいいですか?」
    『ほんと!?』
     食い気味に返された弾んだ声に、アズールの唇から小さな笑みがこぼれる。
     ナイトレイブンカレッジに通っていた頃から数えれば、もう七年以上。単なる先輩と後輩の関係であった頃も含めれば八年程の付き合いになるのに、ひとつ年上の恋人は、付き合い始めの頃と殆ど変わらぬままの温度でアズールの言葉に一喜一憂をしてみせる。
     かわいい人だな。
     くふくふと笑いながら、アズールは手繰り寄せたスウェットに鼻を埋めた。すん、と息を吸い込むと、くたくたの布地の奥から馴染んだ匂いが微かに鼻先へと届く。
     先週末に泊りに来ていた恋人、イデア・シュラウドの大きな抜け殻。月に二度自室に残されていくそれを、次の逢瀬の前日まで洗濯機に入れぬまま枕元に置きっぱなしにしている事は、アズールだけの小さな秘密だ。
     忙しかった一日の疲れが溶けるように解けてゆくのを感じながら、アズールは唇を開く。
    「ええ。流石に今この場でスケジュール調整まではできませんから、具体的な日程の話は後日になりますが」
    『おけおけ、予約はこっちで取るし、都合も拙者が合わせるので、調整ついたら教えて下され』
    「おや、よろしいんですか? イデアさんだって、それなりに忙しいんでしょう?」
    『まぁ誘ったのは僕の方だしどうにかするよ。ヒヒッ、流石に天下のモストロ・カンパニーの社長よりは暇してるんで無問題ですぞ』
     笑みを含んだ声に混じって、電話の向こうで微かにタイピング音が響いている。全くの無音だと作業が進んでいる気がしないと言って、イデアが敢えて投影式のキーボードに設定している打鍵音。今聞こえているそれが真夜中にまで及んだ残業か、趣味か、或いは弟の為の作業の音であるのかまでは分からないけれど、そう簡単に暇を作れるような立場に居る訳でもないだろうに。
     まるでなんでもない事のように譲ってみせるイデアの優しさがくすぐったくて、アズールはふっと目を細めた。
     甘やかされているなと思う。きっと、出会ってすぐの頃から、ずっと。
    「分かりました、ではお言葉に甘えて休みが取れた時点で連絡します。……ところで珍しいお誘いに驚いて何も聞かずに即答してしまいましたが、どこか行きたい場所が?」
     イデアという男は、少なくともアズールの知る限りではずっと、引きこもりに限りなく近いレベルのインドア派だった。
     長く付き合ううちに少しずつ外でデートをする機会も増えたけれど、今でも二人が共に過ごす場所は大体がアズールの自宅であったし、旅行に誘われたのだって、勿論これが初めての事だ。
     アズールの当然の疑問に対して、電話口から返ってきたのは一瞬の沈黙だった。
     せわしなく響き続けていたタイピング音もぴたりと止んだ完全な無音の後、どこか緊張を孕んだ声でイデアは言った。
    『あー……君が住んでる輝石の国の南端の方の領海に、群島があるのは知ってる?』
    「知ってるもなにも。あの辺りは世界有数のリゾートアイランドでしょう」
     冬の間は雪に閉ざされる北方から年中温暖な気候で知られる南方まで、複数の気候帯を横断する輝石の国の領土の中でも、イデアの言う南方の小島群は一等人気のリゾート地だった。
     白い砂浜と穏やかな波、青く澄んだ海には熱帯特有の鮮やかな色彩の魚が多く暮らすサンゴの群落があり、海水浴場やダイビングスポットが豊富に存在している事から、特に今の季節――夏の間には、世界中から多くの人々が訪れる事で有名な土地である。
     面積の大きな島には豊富なグレードの宿泊施設が立ち並び、小さな島を個人所有の別荘地としている富豪も多いと聞く。アズールも出店を目論んでいるのだが、殆どの島の土地が一島単位で企業や富豪に買い上げられている為、なかなか新規参入が難しいのが現状だった。当然、簡単に諦める気など更々ないのだけれども。
    『そうそう、そこ。……えっと、そのリゾート地の一角に水上コテージがあってですな』
    「水上コテージ……」
    『そうそう。拙者んちの親戚……って言うか本家の方の傘下の会社が運営してるとこなんで、シーズン中でもまぁ色々すれば、なんとか予約ねじ込めそうで……だからその、一緒に行けたらなって……』
    「……………」
    『…………アズール氏? なんで無言!? やっぱり拙者と旅行とかやだった……!? わかる、陰キャがうっかり調子乗ってほんとごめんね!?』
    「……あの、すみません。つかぬ事をお伺いしますが、あなた本当にイデアさんですか?」
    『えええ……』
     だって水上コテージ。先程旅行という言葉が出てきた時点でも相当に驚いたのに、南の島の水上コテージだ。
    「いえ……だってあなた、そういういかにもマジカメ映えしそうな場所、普段絶対に寄り付こうとしないでしょう」
     学生時代にアズールが経営していたモストロ・ラウンジにだって、陽キャの巣窟になど行ける訳がないと言って、営業時間に顔を出してくれたことは一度もなかった。
     所謂『きらきらしている』ものを嫌い、人の多い場所に怯え、明るいところを避けて歩く。
     アズールの知るイデア・シュラウドは、そんな日の当たる海では生きられない深海魚のような男であった筈なのに。
    『まあそれはそう。いや、別人と入れ替わった訳でも、頭打った訳でも変な薬飲んだ訳でもないのでそこは安心して下され。……あのね、ひとつひとつはホントに小さな島なんだ。コテージは一島につきひとつずつしかないから、実質島まるごと貸切状態。一応バトラーもついてるんだけど、用がない時は近くの島にある管理棟の方で待機してて貰えるから、やろうと思えば一切顔合わせないで済むし。だから普通のホテルに泊まるより、逆にハードル低そうだと思ってですな……』
    「なるほど。今の台詞は割と本物のイデアさんっぽかったです」
    『本気で疑われてんの草。ちゃんと君のイデアさんだよ。偽者説は海にでも捨てといて下され』
    「変なものを海に捨てると不法投棄で人魚から訴えられますよ。……ふふ、冗談です。色々と驚いたのは本当ですし、イデアさんから南の島のバカンスに誘われる日が来るとは思ってもみませんでしたが」
     あなたとの約束が、楽しみじゃない筈がないでしょう?
     囁くようにそう告げると、電話の向こうの空気がふっと緩む気配がした。
     まずは明日。出社次第ジェイドとフロイドを捕まえて、休みの調整をして。日程が決まったらイデアに連絡をして、予約はそのまま任せるにしても請求書はきっちり見せて貰って折半に持って行かなければ。ビジネス用ではない旅行鞄を新調すべきだろうか。服も少し買い足して、サンダルと、日焼け止めと、それから、それから。
     唇を緩ませながら先の予定を組み立てるアズールに、イデアが言った。
    『……うん、僕も。僕も、楽しみにしてる。――ずっと、君と海に行ってみたいと思ってたんだ』
     耳に届いたその声は聞き慣れたものよりもずっと穏やかで。驚く程に、幸せそうな響きを帯びていた。

    * * *
     
     イデアの希望で、当日はアズールの家の最寄り駅で待ち合わせる事になった。
     真夏の太陽が顔を出してから一時間程過ぎた頃、旅行鞄を片手に家を出たアズールは徒歩で十五分程の距離にある駅へと向かった。
     誰も居ない早朝の街を早足で歩きながら、額にうっすらと浮いた汗を片手で拭う。
     アズールの住むこの街は、広大な輝石の国の領土の丁度中心辺りに存在している。
     今日の目的地である群島からは遠いが、かつての同窓であるジャックやヴィルの故郷よりも大分南方に位置するこの街は、夏ともなればそれなりに気温が高くなる土地だった。
     ましてやそれが八月の半ば、真夏の盛りとあれば猶更だ。
     ナイトレイブンカレッジを卒業後、起業へと進路を切ったアズールはモストロ・ラウンジの学外一号店を輝石の国に出店する為にこの街に居を構えたのだが、越してきてから暫くはこの暑さに随分と苦しめられたものだった。
     引っ越しの翌週にイデアが勝手に取り付けていった冷暖房装置のお陰で家の中は随分と快適になったが、この国で四度目の夏を迎えた今もなお、夏の暑さにだけはどうにも慣れる事ができずにいる。
     サンダル履きの足の裏に、温められた石畳の熱が伝わる。
     雲一つない空から降り注ぐ日差しの眩さに、アズールは微かに目を細めた。
     きっと南の島というのは、ここよりももっと暑い場所なのだろう。
     服と一緒に帽子も買っておくべきだっただろうか。それから持ち運びのできる水分も。
     卒業旅行の行き先には避暑地を選んだ為、アズールが仕事以外で暑い地域に足を運ぶのは今日が初めての事だった。
     色々と考え事をしながら歩くうち、気付けば約束の駅前に辿り着いていた。
     人影のまばらな駅舎の周囲を探すまでもなく、アズールの視界に青色が映る。
    「イデアさん!」
     名を呼ぶ声に、スマートフォンへ視線を落としていたイデアが顔を上げた。
     不安気だったきんいろの目が、アズールに向けられた瞬間やわらかくゆるむ。
    「アズール氏。おつおつ~」
     小さく片手を上げるイデアへと小走りに近寄って、アズールは小さく息を吐いた。
    「お待たせしてしまいましたか?」
    「や、割とさっき着いたとこ。乗るの始発だから、あんまり早く来てもホームで待たなきゃいけないだけだし」
     小さな声で「ねむい」と呟いて、イデアがくわりと欠伸を噛み殺す。
    「まさか昨日も徹夜を?」
    「海に行くなら徹夜は危ないって言って、九時くらいにオルトが拙者の部屋強制的に消灯したからそこそこ寝てる筈」
    「流石はオルトさん」
     改札を通ってホームに向かうすがら、アズールは一歩先を歩く男の姿をじっと見つめた。
     シンプルな白いシャツに薄手のパーカー、暗い色のスキニージーンズ。いつも広い背中を覆うように揺らめいている長い髪は、今日はひとつに纏められ、頭には黒いキャップが載っている。
    「……腹が立つくらいにスタイルがいいな」
    「急になに……」
     ぼそりと呟いたアズールの言葉に、イデアが振り返る。
     少しばかり細すぎるきらいはあるし、健康美とは真逆を行くタイプではあるものの、綺麗な男だと思う。特に今日のようなシンプルで身体の線に沿う服を着ていると、手足の長さがよく分かる。
    「いえ。お似合いですよ、今日の服装」
    「あー……君は好きだよね、こういうぴったりした服。熱中症になるよりマシと思って着てきたけど、拙者は正直落ち着かん……」
     言葉の通りに居心地の悪そうな顔をして、イデアが背中を丸める。
     そんな事をしなくても、郊外へ向かう電車のホームには二人の他に誰も居ないのに。
     相変わらずのイデアの様子に小さく溜息を吐いて、アズールは時計に目を落とした。
     始発が来るまであと十分。
     高くなり始めた日の光は、ホームの内側にまで容赦なく射し込んでくる。流れた汗が首筋を伝う感触の不快さに、思わず眉間に皴が寄った。
    「アズール」
    「うわ!?」
     名を呼ぶ声と同時に冷たい何かが右頬に押し付けられて、アズールは思わず悲鳴を上げた。
     顔を上げると、ミネラルウォーターのペットボトルを手にしたイデアが楽しげに笑う姿が視界に映る。
    「……何するんですか」
    「ふひひ、油断大敵ですぞ。脱水症起こした事あるんだからちゃんと水分摂っときなよ」
    「それ、一年生の頃の飛行術の補習の時の話でしょう。八年も前の話じゃないですか」
     顔を顰めたまま、アズールは手渡されたペットボトルに口をつけた。
     冷たい水が喉を通り落ち、身体を冷やしてゆく感覚が心地良い。ボトルの中身を勢いよく空けるアズールを見て、イデアが笑った。
    「……ありがとうございました。おいくらですか?」
    「流石にいらんて。あとついでにこれもあげる」
     苦笑を浮かべたイデアが、アズールに向かって手を伸ばす。
     ぽん、と軽い感触と共に自身の頭上に何かが載せられたのに気付き、アズールは手探りでそれに触れた。
    「帽子……?」
    「そうそう。荷造りしてる時、なんかオルトがめちゃめちゃ張り切ってて、横から鞄に突っ込まれたやつ。キャップあるのに麦わら帽子は要らんのではって思ってたけど、普通に役に立ちましたな」
    「やけに準備が良いと思ったらそういう事ですか。……そんなに準備を張り切っていたのなら、オルトさんも一緒に来れば良かったのに」
     アズールがそう言うと、イデアは笑みを浮かべたまま少しだけ困ったように眉を下げた。
    「僕もそう言ったんだけどね。流石に今回は一緒に行ける訳ないでしょって怒られた」
    「おこられ……?」
    「……っと、電車が来ますぞ~」
     かたたん、かたたん。
     線路が鳴って、真っ黒な車体がホームの前へと滑り込んでくる。
     午前五時五十五分発、ターミナル駅行き。
     がらんとした車両にふたりきりで乗り込んで、二泊三日のバカンスが始まった。

    * * *

     最寄駅からターミナル駅を経由して、高速鉄道と各駅停車を乗り継いで港まで。そこから更に迎えの高速船に乗って一時間。
     目的のコテージに辿り着いたのは、時計の針が正午を過ぎた頃だった。
    「つ……疲れた……」
     青い顔でよろよろと部屋の中を歩いたイデアが、青い海より先に花びらの散るシーツの海へとダイブする。
    「せめて荷物を置いてからにして下さいよ」
     ばふん、と音を立てて俯せにベッドに沈むイデアに呆れながら、荷物を置いたアズールは、同じベッドの端に腰掛けて息を吐いた。
     時間にして丸半日、電車と船を乗り継いでの長距離移動は、流石に少しばかりくたびれる行程だった。
     ふかふかのベッドの弾力に誘われて、そのままイデアの隣に身を横たえたる。
     ほのかなサボンが香る滑らかなシーツの感触の上等さに、なるほど流石はジュピター財閥傘下の高級宿泊施設だと、内心で密かに感心をおぼえた。
     広いベッドの中心に転がる身体ににじり寄り、半分布地に埋まったイデアの白い頬を指先でつつく。
    「イデアさん、イデアさん」
    「なに……」
    「なぜベッドの上に花びらが?」
    「ムード作りでしょたぶん……知らんけど……」
     薄い頬を爪の先で飽きずにつついていると、イデアがもそもそと顔を上げる。
     きんいろの目とまっすぐに視線が重なって、次の瞬間には自然とくちびるが触れ合っていた。
     ただ合わせるだけの口づけは一瞬のことで、離れてゆく熱に、アズールは伏せたばかりの瞼を持ち上げる。
    「……っ、ふふ……! あはははは……!!」
    「なんでわらうの……」
    「だってイデアさん、今にも死にそうな顔をしてますよ」
    「いや笑うとこか……? 労わってよ……」
    「本当に体力がないですねぇ、あなた」
    「アズール氏には言われたくない……」
     よしよしと頭を撫でてやると、すっかり弱火になっていた青色が少しだけ元気を取り戻したように見えた。
    「やっぱり闇の鏡みたいに一瞬で移動できる装置作れんかな……」
    「いいですね! 開発が成った暁には是非僕にご連絡を。悪いようにはしませんよ?」
    「ヒヒッ。その台詞はもう、完全に悪いこと考えてる奴のそれじゃん」
     くしゃりと笑ったイデアが、もそもそとベッドの上から起き上がる。
    「元気出てきました?」
    「少しはね」
     同じように身を起こして、アズールは改めてコテージの中をぐるりと見まわした。
     全体的に白を基調とした開放感のある広い部屋に、天蓋付きの大きなベッドがひとつ。ソファーやテーブルなどの調度品はリゾートらしいテイストの品で纏められ、ベッドの向かいの天井にはロールスクリーンらしき設備が見える。
     テーブルの上にセッティングされたウェルカムフルーツの皿に、この国の名産品であるジュエルパインがあるのもポイントが高い。
     やろうと思えば普通の調理ができそうなサイズのキッチンと、大きな冷蔵庫。
     海に面した壁面はほぼ一面がガラス張りになっており、窓の向こうには木製の広いデッキと真っ青な海が続いている。
     床に視線を落とせば、そこも一部はガラス張りになっており、覗き込むと熱帯特有の鮮やかな鱗を持つ魚たちが泳いでいるのが見えた。
    「イデアさん、バスルームの方も見てきていいですか?」
     声をかけると、ソファーに腰掛けて荷解きをしていたイデアが、アズールを見上げて愉快そうに笑う。
    「すっかり仕事モードの顔じゃん。なに、アーシェングロット社長は次はリゾート経営に乗り出すご予定で?」
    「ノウハウがある分有利ですので飲食店経営から始めましたが、元よりそれだけで終わるつもりはありませんよ。特に宿泊施設はレストランとの親和性が高いですし、次に手を広げる分野の最有力候補です」
    「いきいきしてますなぁ。ふひひ、いいよ、好きなだけ見といで。元々君がそういう意味で喜ぶかなと思ったのもあってここ選んだし」
     アズールを見上げる瞳のきんいろが、やわらかな熱を帯びている。
     決して善人ではないし、万人に愛されるような性格ではないけれど。ああ、この人は、なんて。
    「イデアさん」
    「うん?」
    「愛してますよ」
    「ひょわ……」
     青く燃える炎の髪の先がぱっと桃色に変わるのに満足を覚え、アズールはバスルームに向かって歩き出した。

    * * *

     一通りの設備を見て回りメインルームに戻ると、スマートフォンを操作していたイデアが顔を上げた。
    「気が済んだ?」
    「ええ、ありがとうございます。とても参考になりました」
     聞こえてきていた音楽からして、恐らくゲームをしていたのだろう。すぐに電源を落としたそれをポケットにしまい、イデアがソファーから立ち上がる。
    「折角だし、海行く?」
    「ええ、折角ですから泳ぎましょうか」
     昼食は船の中で軽く済ませてきていた。外の日もまだ高く、今からならば日の入りまでの間に十分に海を楽しめるだろう。何せ海は目の前だ。やろうと思えば十秒後にだって飛び込める。
    「ゆうて実際、拙者は見学専門だけどね。泳げないし」
    「あなたはそう言うと思ったので、水中呼吸薬を持ってきました。流石に水着の用意はあるんでしょう?」
    「浅瀬に足つけるくらいならできるかなと思って、一応持ってきてはいるけどさぁ……」
    「なら大丈夫です、僕が引っ張って行って差し上げますよ」
     窓を開けて踏み出した先は、覚悟していたよりもずっと過ごしやすい気温だった。
     素足で踏みしめた木製のデッキの床はほんのりと温かく、絶えず吹き込む海風は涼やかだ。
     他のコテージの建つ島までは距離があり、見渡す限りのエメラルドの海に判別のつく人影はない。
     アズールは身に着けていた半袖のシャツを脱ぎ、それをデッキチェアの上へと放った。
     白い綿のパンツと下着、一番最後に眼鏡を外して、そのまま目の前の海へと飛び込む。
     ぱしゃんと小さな音を立て、水に浸かったつま先が解けてゆく感触がする。
     二本の足が四本ずつに分かれて質量を増やし、白い肌が足先からじわじわと浸食されるように黒へと変じる。
     やがてアズールがすっかりと元の姿を取り戻した頃、コテージから水着に着替えたイデアが海に向かって歩いてきた。
    「戻ったんだ」
    「ええ。ここにはあなたしか居ませんし。こちらの僕もお好きでしょう?」
     アズールが胸を張ってそう言うと、イデアはやわらかく目を細め、ほっそりとした首を縦に振った。
    「……うん、大好き。別にアズールならなんだっていいけど」
     黒くて巨大な北の海のタコの人魚。この姿はアズールの生まれたままの本性であり、そして同時にコンプレックスの塊だった。
     体型には常に気を遣ってはいるけれど、今でも決して好き好んでこの姿を他人に見せたいとは思わない。だが、今ここに居るのは他人ではなくイデアだった。初めてこの姿を晒した時からずっと、アズールがアズールであるのならなんだって良いのだと、本気の顔で告げてくれる少し変わり者の人間。アズールの特別。
     青い唇を小瓶につけたイデアが、中身の液体を一息に飲み下す。
     その瞬間を見計らって、アズールは海の中から伸ばした触腕で骨ばった細い腰を巻き取った。
     目を見開いて驚くイデアを、昔話に出てくる海の魔物のように、澄んだ水の底へと引きずり込む。
    「うぉあああああー!?!?」
    「あっははははは!!!!」
     ざぱん。
     大きな音と共に視界一面が細かな泡に覆われて、辺りをのんびりと泳いでいた小魚たちが、先を争うように逃げ出した。
     底へ、底へ。イデアの身体を小脇に抱えたまま、アズールは真っ青な海の中をサンゴ礁に向かって泳いでいく。
    「いきなり何してんの!?」
    「驚くかと思って」
    「驚くに決まってるだろ!? はー、死ぬかと思った……」
    「おや、僕の作った魔法薬に不安でも?」
    「そういう意味じゃなくてさぁ……」
     元より種族的にあまり泳ぎが得意ではない上に、イデアを抱えている為、アズールの進みはひどくゆっくりとしたものとなった。
     先程逃げ出した小魚達もどうやら危険はないと悟ったものか、暫くすると再び二人の周りでのんびりと泳ぎだす。
     赤、黄色、青、縞模様。様々な色の魚が目の前を横切ってゆくのを眺めたアズールは、随分と呑気なものだなと少しばかり呆れにも似た感情を抱いた。
     海面から差し込む眩いばかりの日の光と、北の海で育ったアズールにとっては暑さを感じる程の高い水温。形成されたサンゴの群落による豊富な餌場や穏やかな波も、彼らがこんなにものんびりと暮らせる理由の一端なのだろう。
    「水族館より魚が多い……」
     物珍しげに辺りを見回していたイデアが感心したようにそう呟くのに、アズールは思わず笑ってしまった。
    「海ですからね。水族館に行ったことが?」
    「うん。僕もオルトもちっちゃかった頃に、一回だけね」
     つまりはそれは彼の弟が、まだイデアの言うところの『今のオルト』ではなかった頃の思い出なのだろう。
     遠い記憶を辿るように目を細めたイデアに何も言えなくなって、アズールは黙って温かな海を泳ぎ続けた。


    「あ。ウミガメ」
     イデアが突然そう声を上げたのは、サンゴ礁の終わりが見えてきた頃合いの事だった。
     細い指の示す先へと目線を向ければ、確かに大きなウミガメが、ゆっくりとこちらに向かって泳いでくるのが見える。
    『おや珍しい。お前さん達、人魚かね?』
    「ヒョワアアアアア!? シャベッタァアアアア!?」
    「……おや、これはどうも。ええ、僕は見ての通りタコの人魚ですよ。隣に居るのは人間ですが」
     近付いてきたウミガメにしわがれた声で話し掛けられた途端、腕の中のイデアの身体がびくんと跳ねた。
     うっかり離してしまわぬよう細い身体にしっかりと触腕を巻き直しながら、アズールは傍に寄ってきたウミガメに作り慣れた笑みを向ける。
    『なんと。それはますます珍しい。最近のニンゲンは海でも息ができるようになったのかい?』
    「いいえ、魔法薬の力です。……珍しいと仰いましたが、この辺りにはあまり人魚が居ないんですか?」
    『この辺で泳いでるのは一度も見掛けた事がないね。もう少し深いとこに行けば町があるよ』
    「一度も、ですか? ……ああ、なるほど。あの水上コテージ、おそらくは島だけではなく海の一部も纏めて買い上げて私有地化しているんですね。確かにそうでもしないと、プライベートビーチ付きの宿泊施設は成り立たないか……」
     道理でこんなに過ごしやすく魚も多い海なのに、同族の姿をただの一匹も見かけない筈だ。
     綺麗で呑気な南の海の人魚と顔を合わせたいとは、正直微塵も思えない。アズールは老ウミガメの言葉に内心でほっと安堵を覚えた。
    「いやアズール氏、なんでさっきから普通にウミガメと話してんの……? もしかして拙者が知らんだけで、ウミガメってみんな会話できたりする……?」
     ぐるぐる巻きになったイデアに腕の中からそう問われ、アズールは首を横に振る。
    「ああ、いえ。別にそういう訳ではありません。クジラや彼のようなウミガメ、あとはサメなんかもそうですね。そういう海洋生物としては比較的長命な種族の一部に、たまに会話をできる方が居るんです。人魚が言語で意思疎通をするので、それを覚えるんでしょうね」
    「あっ、この人……いやヒトではないな……オスなんだ……?」
     アズールの言葉を、のんびりと首を縦に振ったウミガメが肯定する。
    『そうそう。わしもな、普段は人魚の町の近くを泳いどるから』
    「ああ、それから僕の実家のある珊瑚の海では、時折例外的に言語を習得した小型の魚類が、王宮に取り立てられるケースもあるそうですよ」
    「魚類界のエリートじゃん……」
     イデアがぼそりと呟いた言葉の耳慣れない言い回しがおかしくて、アズールはくつくつと笑った。
     ふよふよとその場に留まっていたウミガメが、ゆっくりと瞬きをしてアズールを見る。
    『なんと、珊瑚の海か。そうか。お前さん、随分と遠いところから来なさったんだなぁ。……旅の邪魔をして悪かったの。この辺りは年中温かくて良いところだよ、楽しんで行きなされ』
    「ええ。ありがとうございます」
     大きなヒレをぱたぱたと振って、ウミガメがゆっくりと去ってゆく。
     遠ざかってゆく甲羅が青に紛れて見えなくなった頃、イデアが大きく息を吐き出した。
    「あーびっくりした……心臓に悪い……。なるべく他人とエンカウントしないで二人きりで居られそうなとこ選んだのに、ウミガメに話し掛けられるとか予想外にも程があるんだが……!?」
     細い両腕が水を掻き分けて、アズールの頭を縋るようにぎゅっと抱きしめる。
     抱きしめられた瞬間、ふっと身体から力が抜ける心地がして、アズールは自身が酷く緊張していた事にその時初めて気が付いた。
     寄せられた身体を、上半身から生えた二本の腕でそっと抱き返す。
     腰に巻き付けた触腕が一本に、背中に回した腕が二本。捕食にでも間違われそうな光景だなと些か物騒な事を考えて、アズールはふっと微笑んだ。
    「……僕、初めてウミガメと話しました」
    「エッ、そうなの……!?」
    「ええ。実家の方は冬になると流氷に覆われるような場所なので。彼らは寒さに強い種族ではないので、恐らく普通に死にますね」
    「死……」
     薄い胸板にそっと耳を押し付けると、いのちの鳴る音がした。ゆっくりと聞こえる鼓動とあたたかな体温が、アズールの心を落ち着けてゆく。
     絡めていた腕をすべて離して、代わりに長い指先を捕まえる。
     掌を重ね合わせるかたちに右手を繋ぎ合わせて、アズールはイデアの顔をじっと見上げた。
     日の光の射し込む海に、溶け込むように青い炎が揺らめいている。
     全部僕のものだ。少なくとも今この瞬間のこの人は、僕だけの。
     そしてアズールの予想が――今回の旅行の誘いを受けたその日から胸に抱き続けているこの期待が、もしも正しいものであるならば、きっと――。
    「……イデアさん。そろそろコテージに戻りましょうか」
    「いいけど、日の入りまで多分あと二時間くらいありますぞ。もうちょっと堪能しておかなくていいの? 陸の重力が重いとか二足歩行なんか不安定過ぎるとか、散々文句言ってたじゃん」
    「そうやって僕が陸に上がったばかりの頃の事を持ち出すの、イデアさんの悪い癖ですよ」
     笑う顔をじとりと睨め付け、伸ばした触腕の先で頬をつついて抗議を示すと、イデアはますます楽しそうに唇を吊り上げた。
     趣味が悪いな、この人。知ってたけど。
     ひとつ溜息を吐いて、アズールはイデアと右手を繋いだまま浅瀬に向かって泳ぎ始める。
    「帰りましょう、イデアさん。――僕も、あなたと二人きりがいいです」

    * * *
     
     イデアが口にしていた通り、コテージに戻ってシャワーと着替えを済ませても、日の入りまでには少し時間がありそうだった。
    「そういえばここって、食事はどういったシステムになっているんですか?」
     ごお。耳に響く音と共に、背後から届いた温風が銀糸の髪を揺らす。
     大きな手が洗いたての髪を梳く感触の心地良さに、アズールはうっとりと瞼を閉じた。
     ことんと首を倒して骨張った感触の腿に頭を載せると、床に座ったアズールの身体を足の間に挟むかたちでベッドに腰掛けているイデアが、がたがたと膝を揺らす。
    「こら、寝ないで。乾かせないしズボン濡れるでしょ……」
    「イデアさんって、昔から案外面倒見がいいですよね」
    「君は昔から案外人の話を聞かないよね……あっ、ホントに膝冷たくなってきた、早くどいて!!」
     髪を梳いていた手にそのまま側頭部を掬われて、アズールは傾けていた首を渋々元に戻した。
     ドライヤーの風が、先程まで頭の下敷きになっていた髪の水気を飛ばしてゆく。
     海中散歩での先導の対価として、髪を乾かす事を強請ったのはアズールだった。
     アズールは、イデアの手が好きだった。人に作れないものなどない。その言葉の通りにあらゆるものをこの世に生み出すことのできる大きな手。
     髪を乾かすという行為に慣れている筈もないであろうに、器用な男の指先は微睡みを呼ぶ程に優しい。
    「で、何の話してたんだっけ……あ、ご飯か。ヒヒヒ、聞いて下され、普段の我々にはあまりにも縁のないメニューですぞ」
    「縁のないメニュー?」
    「バーベキュー」
    「バーベキュー!? ……僕とあなたでですか?」
    「そう、僕と君で。……ん、大体乾いた。はい終わり。乙っした~」
     髪に当たる風が冷風に切り替わり、ざっと全体を撫でた後にぴたりと止まった。
     ゆるく頭を振ったアズールが顔を上げると、自身を見下ろし笑うイデアの顔が視界に映る。
    「ありがとうございます。……イデアさん、バーベキューなんか召し上がれるんですか? あなた、物凄い偏食でしょう」
    「要は焼いた野菜と肉でしょ。食べられない事はないんじゃない、知らんけど。ここの食事、ざっくり三択なんだよね。管理棟のある島まで移動してレストランで食べるか、逆にそこに注文入れてこっちまで届けて貰うか、チェックイン前に冷蔵庫に材料一式突っ込んでおいてもらってバーベキューするか」
     アズールは床から立ち上がり、その足でそのままキッチンへと向かった。
    「成程、それでチェックイン前に準備が終わっているバーベキュー一択になったんですね」
    「ヒヒッ、ご明察~。まぁ流石に明日はレストランからなんか持ってきて貰おうと思ってるけど。なんか最近陽キャの間で流行ってるんでしょ、こういう全部用意して貰ってキャンプのおいしいとこだけ体験するみたいなやつ」
    「グランピングですか?」
    「そうそう、それ。この前ケイト氏がマジカメに写真アップしてた」
     アズールが好奇心のままに大きな冷蔵庫を開くと、確かにそこには綺麗にカットされた野菜と、色艶の良い肉の盛り合わせが一皿ずつ鎮座していた。
     そうであろうとは思っていたが、どちらもかなり品が良さそうだ。
     仕入れ先が気になるな。イデアさんの伝手で聞き出せないだろうか。思考の端を少しばかり脱線させながら、アズールはメインルームに向かって声を掛けた。
    「イデアさん、何か飲まれますか?」
    「ドクペある?」
    「…………ありますね」
    「神では?」
     何故あるのだろう。
     冷蔵庫にある品々の中で、小豆色のポップな缶だけが物凄く浮いている。
     首を傾げながら冷蔵庫の中からドクターペッパーの缶と自分用のミネラルウォーターを取り出して、ベッドの前まで戻る。
     隣に腰掛けて冷えた缶を手渡してやると、イデアは嬉しそうに笑った。
    「トンクス」
     かしゅ、と小さな音がしてプルタブが開けられる。
     缶飲料を口にした事など数える程しかない筈なのに、缶を開ける音ばかりがすっかりと、アズールの耳に馴染んでいる。
    「前から思っていたのですが、イデアさん、案外マメにマジカメをチェックされてますよね」
     ぽつりと溢したアズールの言葉に、きんいろの目が隣を向いた。
     卒業から五年が過ぎた今でもなお、イデアの口から時折かつての同窓の名前を聞く事がある。
     特に多いのがクラスメイトだったケイト・ダイヤモンド、それから同学年の寮長だったレオナ・キングスカラーに、ヴィル・シェーンハイト。基本的に他人と関わりを持ちたがらなかったイデアらしく、殆どの話の出どころは彼らのマジカメの投稿だけれども、リリア・ヴァンルージュやマレウス・ドラコニアの話に至っては、どうにもそれ以上の関わりを感じるような話題を口にする事も、偶にある。
     当時から彼らと特別親しくしていた訳でもなかっただろうに。アズールには、イデアのその行動が、ずっとどうにも不思議でならなかった。
     隣から見上げるように顔を覗き込むと、困ったように笑うイデアの顔が視界に映る。
    「うん。卒業する時に、寄ってたかってアカウントだけは消すなって言われたからね。別に連絡来たり、こっちから連絡したりする訳じゃないけど……」
     するりと伸ばされた指先が、アズールの手の甲に触れる。
     大きな掌がアズールの手を包んで、少し痛いくらいの強さでぎゅっと握り込んだ。
     窓から差し込む日の光が赤に変わって、イデアの真っ白な顔を、揺らめく炎の青を、ほの赤く染めている。
     緊張を帯びたきんいろの目が、まっすぐにアズールを見ていた。
     青を乗せた唇が僅かに震えて、低く小さな声を吐き出す。
    「あの……あのさ、アズール。帰ってきたばっかであれだけど、少し外に出よう。君に――君に、どうしても聞いて欲しい、話があるんだ」

    * * *

     イデアが言っていたように、コテージのある島の面積は本当に小さなものだった。
     白い砂浜と少しばかりの南国らしい植物。一周十五分程の外周を、長さの違う二対の足が並んで辿る。
     寄せては返す緩やかな波が、つけたばかりの二人分の足跡を海へと攫ってゆく。
     アズールをコテージの外へと連れだしてから、イデアはずっと無言のままだった。
     繋がれたままの右手が酷く熱い。汗をかいた掌が、指が、一回り小さなアズールの手を離すものかと捕えている。
     見慣れた整った横顔が、決して夕陽の所為だけではない淡い赤を帯びていた。
     気遣うような余裕すらどこかに置いてきてしまったのか、酷く早足に砂浜を歩き続ける男に歩幅を合わせて歩きながら、アズールは小さく微笑んだ。
     本当に、かわいい人だな。
     僕の答えなんて、そんなの聞く前から分かっているようなものだろうに。
    「……イデアさん」
     囁くように名を呼ぶと、イデアの歩みがぴたりと止まった。
     繋がれた手をそのままに、一歩前へと回り込んだアズールは、緊張を孕む白い顔をまっすぐに見上げた。
     期待と不安に揺れる満月のようなきんいろの目が、アズールを見ている。
    「イデアさん。――何か、僕に言いたい事があるんでしょう?」
     空いた左手を伸ばして落ち着きなく燃える髪をそっと撫でてやると、真っ赤になったイデアの顔が、くしゃりと歪んだ。
    「……アズール」
    「はい」
    「アズール、あのね。……やっと、全部片付きそうなんだ。卒業してから五年も掛かったし、まだ全部が終わった訳じゃないけど……それでも僕はやっと……やっと君に、ずっと言いたかった言葉が言えるようになった」
     白い頬を、透明な雫がほろほろと伝ってゆく。
     隈の浮いた下瞼へと指を伸ばして、アズールはとめどなく流れる涙を拭ってやった。
     薄い唇が戦慄いている。沈みかけた日の光が頬を伝い落ちる雫をきらきらと照らす光景の美しさに、アズールは思わず息を呑んだ。
     涙を拭う左手に、イデアの掌が重なった。
     熱を持った両の手でアズールの手をぎゅっと握りしめ、震える声でイデアが言った。
    「アズール。君が好きだよ。これからも、僕が君を好きで……君が僕のことを好きで居てくれる限り――――ずっと、僕と一緒に居て欲しい」  
     鼻の奥が、つんと熱くなる。
     分かっていたのに。この旅に誘われたあの日から、アズールはこの旅の目的を――イデアが自身に伝えようとしている言葉を、とっくに知っていた。それなのに。
     予想通りの筈のこの言葉が、こんなにも嬉しい。
     だって五年。学生時代から数えれば、もう七年だ。
     そんなにも長い年月の間ずっと、アズールはこの言葉を待っていた。
     溶け落ちそうなきんいろが、アズールの答えを待っている。
     ぐしゃぐしゃになった顔を目の前のシャツに埋めて、叫ぶようにアズールは言った。
    「……っ、勿論です……!!」


     ――週に一度の通話と月に二回の逢瀬だけが、あの学園を卒業したイデアとアズールの五年間を繋ぐ全てだった。
     アズールは、月に二回自宅を訪うイデアが、何処から来て何処へ帰って行くのかも、普段どんな事をしているのかも何ひとつ知らない。
     ジュピター財閥の分家、シュラウドの嫡男。世界地図の何処かに存在する嘆きの島に本部が置かれる、非政府組織『S.T.Y.X.』の次期所長。
     生まれながらに極めて秘匿性の高い組織に属し、本人の意思を問わずやがてはそれを継ぐ事を定められていたイデア。
     ナイトレイブンカレッジを卒業してからの五年間。一月程前のあの日に旅行の誘いを口にするまでの間ずっと、この男がアズールに対して先の約束をした事は一度もなかった。
     それはきっとイデアなりの、アズールに対する不器用な誠意であったのだろう。
     イデア自身の為ではない、影の統率者『シュラウド』としての人生。どこで何をしているのかも口にする事ができない、ある日突然自分自身の意思とは全く無関係に、世界の表側から完全に姿を消さなければならない日が来るかもしれない特異な立場。
     かつてナイトレイブンカレッジで彼と同学年だった者達が、学園を卒業してもマジカメのアカウントだけは残しておけと迫ったのも、恐らくはそれが理由なのだろう。
     アカウントが何らかの形で動き続けている限りは、世界のどこで何をしているのかも分からないかつての同級生が、無事に生きている事だけは分かるから。
     仲が良くないどころか、どちらかと言えば険悪ですらあったかつての一つ年上の寮長達が、それでも互いに対して一定の信頼めいた感情を抱いていた事を、アズールはよく知っている。
     初めて出会った頃には深い諦観を宿していたイデアの目。
     その目がやがて初めて知った恋に輝いて、そしてあの学園を卒業する頃には何か強い決意を秘めたものへと変わっていったそのさまを、アズールはずっと一番近くで見守り続けていた。
     月に二度、酷く名残惜しそうな顔で、「またね」の代わりに「じゃあね」の言葉を残して去ってゆく男をアズールが黙って五年間も見送り続けたのは、いつかこの日が来る事を信じていたからだ。
     夢見がちな少女のように、ただ迎えを待つだなんて全く柄ではなかったけれど。
     決して約束を口にしない代わりに月に二回律義に自宅を訪う男を、何度そのままシュラウド家から攫ってやろうと思ったか分からないけれど。
     それでもこの月の光みたいなきんいろの目が、再び諦めの色に染まらぬ限りはイデアを信じようと心に決めて、アズールはずっと待っていた。
     イデアが自分自身の手で自分の望む未来を手に入れる日を――今日、この日が来ることを、ずっと。

     互いにぐしゃぐしゃの顔のまま抱き合って、小さな島に響く子供のような泣き声が嗄れる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
     すっかり水っぽくなってしまった白いシャツから顔を上げると、泣き跡の残る顔のまま、イデアが照れくさそうに笑った。
    「…………ふひ。顔ぐっちゃぐちゃだよ」
    「今のあなたにだけは言われたくないですよ。……イデアさん。あの島を、出るんですか?」
     ぐしぐしと雑に顔を拭っていたイデアが、アズールの問い掛けに小さく頷く。
    「うん。……まぁ家業だし、性質的にも無くす訳にはいかない組織だから一生関わり続ける事になるけど、僕が普通に島の外で暮らしたり、自分の名前使って大っぴらに研究発表したりできるくらいには運営見直していこうって感じで、本家の方とも合意が取れた」
    「……いいですね!! あなたの技術力をひとつの組織の中だけで使うなんて勿体ない。僕なら世界中の国に売り込んでやるのにって、ずっと思ってたんです」
     アズールが思わず身を乗り出してそう言うと、目を瞬かせたイデアが、声を上げて笑った。
    「っふ……っひ、ヒヒヒヒヒッ……!! いいよ、一緒に商売しようか。僕が作って、君が売る。どう?」
    「…………!! 約束ですよ。後で僕と契約しましょう。絶対です!!」
     楽しそうに笑うイデアに手を伸ばし、アズールは白い両手を捕まえた。
     温かな両手をぎゅっと握りしめると、蕩けるようなやさしい光を宿した瞳が、じっとアズールを見つめた。
     夜の闇を照らす青色も、低い声も、この温かな体温も、月夜のような金色も、全部僕のものだ。
     今だけじゃない。これからは。これからも、ずっと。
    「イデアさん。住むところが決まったら教えて下さい。なんなら一緒に住んだっていいですけど。一緒にお仕事もしましょう。あなたが作って、僕が売る。僕なら他の誰よりも、あなたの技術を高く売ってみせます。それからまた旅行にも行きましょう。今度こそ、オルトさんも一緒に」
    「……うん」
    「イデアさん。……約束をしましょう。今までできなかった分も、沢山。僕と、あなたの未来のことを」
     二人きりの夜の島に、波の音が響いている。
     こぼれ落ちそうな星空を背景に、アズールの両手を大切に握りしめたまま、誓うように、祈りのように、イデアは言った。
    「うん。するよ。約束する。……あのね、君に未来を誓うなら、絶対に海に行こうと思ってた。君が生まれた世界に続く場所で――――僕はずっと、君と未来の約束がしてみたかったんだ」


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