The SUN & MOON 「なあ、それってうまい?」
あまく掠れた舌足らずな声に、乱されてあちこち跳ねた黒髪が振り返った。
外したはずの眼鏡を再び掛けた男のその手には、先の赤く光った煙草がある。
非喫煙者のオクタビオに気を遣ってかテジュンは部屋の中では煙草を吸わず、必ずベランダへ出て喫煙した。朴訥そうな顔に似合わず意外とヘビースモーカなテジュンはやはり事あるごとに煙草を吸いたがり、特に食事や仕事など何かを終わらせたあとは必ずといっていいほど煙草を手に取った。もちろん行為に置いても例外ではなく、オクタビオをしっかり抱いたあと後始末をするまでの合間の時間にひっそりとひとりでベランダに出ては煙草を吸っていた。
若気の至りか二人がセックスをするときは必ず体力の続くまでしてしまうせいで、行為直後は負担の大きいオクタビオが数分だけ意識を失ってしまうか、意識は保てていても動けないほど消耗しているかのどちらだった。その隙を見計らってほんの数分だけの一服を済ませているテジュンは自分がオクタビオに見られていたなんて気づきもしなかったのだろう。投げかけられた言葉に少し目を見開きながら、振り返った先のまだベッドの上で転がったままのオクタビオを見つめた。そしてほんの少し思考を巡らせて、オクタビオの言うそれが煙草のことだと思いいたり、ひょいと下げていた煙草を持ち上げた。
「……どう、だろうな。わからない」
「なんだソレ。うまいから吸ってんじゃねえのかよ」
「吸い始めたときは確かにそうだったはずなんだが、今はもう吸いたいから吸っているだけ、だな」
「…よくわかんねえ」
「ふ、だろうな」
そう言って目尻を下げたテジュンは再び煙草の端を咥えて、深く息を吸いこんだ。
煙草を吸う理由もその答えに対してわからないと答えたオクタビオに向けられた、ただただ優しいだけの微笑みも、節ばった大きい手で煙草を吸う仕草もそのすべてが自身と男との距離を示しているようで、オクタビオはぎゅうっと胸を締め付けられる思いだった。
オクタビオはテジュンに対し、自身の出自どころか名さえ告げていない。
ほとんど勢いだけの家出だった。よくあることだった。いつもどおりの父親からの呪縛に対していつもどおり反発し、自分に関する全てのことを投げ捨てて、身一つで他の土地に移動する。そしてその時もっている有り金だけで暮らせるだけ暮らして、金が尽きたらしれっと戻る。家出に対しても自ら家を出たのにも関わらず平然と戻ってくる行為に関しても特になにか言われることもなくただひたすら無反応だった。そもそも何日も家を開けてもオクタビオ自身の心配をする奴なんてオクタビオの実家には皆無であったし、唯一本気で叱ってくれる姉代わりの幼馴染には常々連絡を取っていた。だからその時もほんの一、二週間でしれっと家に戻るつもりだったのだが、何がどうしてこうなったかいつの間にかテジュンと暮らすことになっていた。
いやその言い方には少し語弊がある。オクタビオ自身がテジュンと暮らすことを望んで、ほぼ勢いだけでその家に転がり込むことに成功したのだった。
なぜ見ず知らずの男の家に住もうなんて思ったのか、オクタビオ自身もよくわかっていない。ただ街で偶然見かけただけのテジュンのその野暮ったい眼鏡の奥に、どうしてかオクタビオの背筋が震えてその直感のまま押し切るような形で同居に踏み切った。そしてその直感の導くまま、テジュンと身体を重ねた。
決して自暴自棄になったわけでも、本当に己の身体が家賃の代わりになるとも思ってなどいなかった。最初はその磨かれた黒曜石のような瞳に感じた直感の正体を知りたくて始めたことだったが、テジュンと身体を重ねていくうちにしっかりと心惹かれていっていることをオクタビオは自覚していた。
口ぶりは冷ややかなくせにその実は優しさに満ちているところや野暮ったい姿からふと漏れ出る色気や、たまに見せる年上らしからぬ可愛げなどテジュンと一緒に暮せば暮らすほど、身体を重ねれば重ねるほどずぶずぶと、止めようもなくオクタビオはテジュンに惹かれていった。そしてふとテジュンが返すその視線からも自分の想いが独りよがりでないことを確信していた。
だからこそオクタビオは頑なに己の出自も名前も口にしなかった。
一晩二晩を過ごすだけならあの父親も我関せずの態度だが、どこの誰とも知らぬ人間がオクタビオと親密な関係となったというのであれば話は別だ。またオクタビオには到底わからぬ理屈を並びたて、別れを強要するだけならまだしも相手の存在そのものを消し去りかねない。故にこの生活もいつか終わりを告げなければいけないと、オクタビオはしっかりと理解していた。生来物事に固執しないオクタビオでもこれに関してはなんだか胸にぽっかりと大きな穴が空きそうで、珍しく気が進まないどころかそうしたくない、とさえ思っていた。だがいくら駄々をこねたところでどうしようもないことはオクタビオ自身が一番よくわかっている。
だから、この男のことに関することすべて覚えていってやろうとそう思った。
タイムリミットはおそらくあと一ヶ月。シルバ製薬の息子として参加しなければいけない会合のため、父親は必ずオクタビオを見つけ出すだろう。その間、オクタビオはこの男に関することすべて、自分の脳内に刻みつけようと決心した。別れても目をつぶればすぐにその匂いまで思い出せるように。
目の前の男はベランダにある今にも壊れそうなパイプ椅子に座って、ゆっくりと紫煙をくゆらせていた。
呼吸のたびに煙草の先の光が蛍火のように明滅する。青白い月明かりに満ちた夜の中でそこだけが暖かく光っている。オクタビオはテジュンの伏し目がちに煙草に口づける姿や今までたどたどしく自分の身体を這い回っていた指先が器用に煙草を挟んでいる姿、意地悪の仕返しにグシャグシャに乱してやった後ろ髪や、感触を知りつくしている厚めの唇から煙が吐き出されてゆく姿を自身に刻みつけるようにじっくりと見つめた。たとえ離れて何年経ったとしてもこの姿はきっと忘れないと思った。
「俺もそれ吸いたい」
「……だめだ」
姿だけでなく、味も刻みつけたくてオクタビオは強請るようにそう言った。
それに対してテジュンはしばらく逡巡したあと、断った。
「えーっなんでだよお、いいじゃんか一本くらい」
「……まだ、こどもだろう」
くぐもった不明瞭な声でそういったテジュンにオクタンはにた、と悪い笑みを浮かべた。
年齢を理由に断るくせして、そのこどもをしっかりと抱いている悪い大人が何を言っているのだか。
その反論を予期してか、テジュンは煙草を口に咥えて椅子から立ち上がり、部屋に戻ってテーブルへと向かった。頑なにベランダで吸おうとしているくせに、咥え煙草は気にせず部屋を歩くテジュンを見るに普段であればこちらが普通なのだろう。おそらくオクタンがいなければテジュンは構わず部屋のどこでも吸っていたはずだ。
戻ってきたテジュンは夕食後のデザートに出した西瓜を持っていた。この国は蒸し暑い国らしくこういった瑞々しい果実を手に入れるのに事欠かない。
「おまえはこっち」
そういって差し出された西瓜の皿を受け取れば、きっとまたあの椅子に戻ってしまう。あの姿をずっと見ていたい気もしたが、同時にほんの少しの肌寒さも覚えていたオクタンは、身体がまだ少しだるいのもあって手を動かさず、あーん、と口を開けた。先んじて反論を封じてきたずるい大人への意趣返しの気持ちもある。
そんなオクタンに対してテジュンは少し目を瞠ったあと、また目尻を溶かしてオクタビオのいるベッドへ腰掛け、ベッドへ直接皿を置いた。そして手に持った煙草の火を消しに一旦ベランダの灰皿へ行ったあと再びオクタビオの元へ戻る。
テジュンの重みに沈むベッドにつられて皿が傾く前にきれいな三角形をした西瓜を掴む。そして先端の一番甘いところをオクタビオの唇へと近づけた。
しゃく、という音ともに赤い実がオクタビオの口の中へ消えてゆく。
冷蔵庫から出してしばらく経っていたせいでその西瓜は生ぬるかった。夏の果実であるそれは果汁が多分で薄甘く、瓜特有の青臭さが鼻に抜けてゆく。口の中で潰れたそれが酷使してひりひりとしている喉をゆっくり滑り落ちるのに、オクタビオは目を細めた。
もうひとくち、と口を開けたオクタビオは視線の先で男の喉仏が上下するのを見てイタズラを思いついた。西瓜の実を一欠片口に入れたまま、ぐっと身を乗り出してオクタビオを注視していたテジュンの口へかじりついた。
驚いてうっすら唇を開いたテジュンの口の中に舌とともに西瓜をねじ込む。そのまま粘膜をこすり合わせるような卑猥な口づけを交わし、口内の果実ごとぐちゃぐちゃにかき回していく。テジュンの口内に残る煙草の残り香とオクタビオの西瓜の甘みが互いの口の中でどろどろに蕩けて混ざってゆく。互いの唾液ごと果汁を飲み干し、口の中が空になっても蛇の交合のように互いの舌は絡まって離れなかった。
「ん…ぁ、は、へへ、なんだかやらしい味だな、煙草と西瓜って」
「は、ァ…。……もう、やらないぞ」
「はっ?こここんなになってるのにやらないってのか!?」
舌の付け根がじんじんとするほど舌を絡め合わせた濃厚な口づけのおかげで互いの下肢はうっすらと反応していた。
「さっき散々やっただろ…、もう打ち止めだ」
「そりゃないぜ〜。な、ちょっとだけ!」
「だめだ。…お前への負担が大きすぎる」
それよりこれどうするんだと口づけの間ずっともっていたのだろう西瓜を差し出された。その手はオクタビオが齧ったあとから流れ出た果汁にまみれている。オクタビオは迷うことなくその手を取って、果汁ごとテジュンの手を舐め始めた。今まで煙草を扱っていた手だったため煙草の残り香がきつく、西瓜の果汁の甘ったるさと青臭さが混じったそれにオクタビオは再びうっとりとしてしまう。その蕩けた目のまま挑発するようにテジュンを垣間見ると、テジュンの黒い目がはっきりと濡れ光り始めていた。
なんだかんだ言って結局の所、テジュンがオクタビオに甘いことはこの数週間の生活で知り尽くしていた。勝ちを確信したオクタビオがまるでフェラチオのように舌を卑猥に閃かせると、ぎらりと黒曜石が更に強く光った。
次の瞬間、オクタビオから手を奪い取って、その口に西瓜をねじ込む。
そしてその勢いのままテジュンはオクタビオを再びベッドに沈めた。
倒れ込んだ勢いでオクタビオの口から西瓜が落ちて、その胸に着地する。
「はぁッ、もう、どうなっても知らないからな」
「おう♡」
好きな男のすべてをを身体に刻みつけるのに己の負担など鑑みてはいられない。
テジュンの口が西瓜の落ちた己の胸へ落ちていくのをみて、オクタビオは背筋をぞくぞくとふるわせながら、テジュンの背にゆっくりと手を回した。
了