笑顔が見たくて(2023.11.02)「そんな顔をしないで、ベイビー」
椅子に座るヘンリーの前に膝をついたアレックスは、そう言って悲しみの表情を浮かべた。凛々しい眉はすっかり八の字に下がってしまっている。
「……わかってる」
ヘンリーは納得しているとは言い難い声で返事をして顔を逸らした。大好きなアレックスにこんな顔をさせていることが申し訳なくて、自分の不甲斐なさに鼻の奥がつん、と痛くなる。
「ヘンリー」
アレックスが大きな手で恋人の頬を優しく挟んでちゅ、と鼻先に口づける。
「笑ったのは、僕も昔同じ失敗をしでかしたことがあって、それを思い出したからだ。決して君を馬鹿にしたわけじゃない。でも、君を傷つけたね」
ごめん、と真摯な声音で謝るアレックスに、ヘンリーは頭を振った。
「僕の方こそ悪かった。間違えただけじゃなくて、君に要らない気を使わせた」
テーブルの上に置かれた、開封済みのコーヒーの袋から漂う芳しい香りが鼻先をくすぐる。その袋の中身――「コーヒー豆」こそがこの状況の原因だった。
一緒に暮らすようになって実感したが、アレックスはコーヒーが好きだ。深夜遅くまで勉強しているときなど、アメリカ人好みの薄いコーヒーをポットに淹れてひっきりなしに飲んでいる。だから、愛用のコーヒーメーカーの側に置いてあるストックが切れかけていることに気づいたヘンリーは、デイヴィッドの散歩にでかけたついでに、早朝から開いているコーヒーショップでコーヒーを買って帰ったのだ。ただ、ヘンリーは知らなかった。その店で販売されているコーヒーには「粉」と「豆」があること、そして自分が買った袋には「豆」とプリントされていたことを。
意気揚々と家に帰り、アレックスに「今朝は僕がコーヒーを淹れる」と宣言したヘンリーは、袋を開封した途端に悲壮な叫び声を上げた。そしてその声にキッチンに飛び込んできたアレックスは、事態を理解して思わず自分が子供の頃に同じミスをしたことを思い出し、笑顔を浮かべてしまった。それを誤解したヘンリーの瞳がじわりと濡れ、アレックスは己の失態に気づいて恋人の前に跪いたのだった。
「君が僕のためにコーヒーを買いに行ってくれたってことが、どれだけ嬉しいかわかる?」
「そんなの……僕だって君の喜ぶ顔が見たいと思って……でも、表示を見落として」
「ヘンリー」
アレックスは再び視線を落としそうになる恋人の名を呼び、自分の方を向かせる。ポケットからスマートフォンを取り出し、手早く操作して表示された画面をヘンリーに見せた。
「それは……」
「コーヒーミル。これがあれば君の買ってきてくれた豆を挽いて最高のコーヒーが淹れられる。ランチのついでに買いに行こう」
「その、それはどこにでも売っているものなのか?」
恐る恐る尋ねるヘンリーにアレックスは「もちろん」と力強く頷く。
「いつものコーヒーショップに置いてるはずだよ。なければニューヨーク中のコーヒーショップを回ってやる!」
その大げさな言葉にヘンリーは思わず吹き出した。
「やっと笑ってくれたね、ベイビー」
アレックスの指がヘンリーの目尻を拭う。
「やっぱり君はそうやって笑っているのが一番可愛い」
そう言って自分を見つめるアレックスの蕩けそうな笑顔に、ヘンリーは「君もだよ、ダーリン」と抱きついて勢いよくキスをした。
Fin.