老媼藤の家を実弥がそろそろ出立かという時に、血相を変えて尋ねに来た人がいる。これは鬼の話かもしれないと血を吐くように相談しはじめたのが始まりだった。まず彼はあやしい出来事を町の交番の巡査に相談したところ、巡査は話を聞いて青褪めてぶるぶるしている。話にならないので藤の家に来た。
話はこうだ。驚風を病んだ子を看る灯明りに鳥の影が素早く往復する。その鳥の飛ぶのが早いと子供の息が切迫し、やがて熱が高じて終いには死んでしまう。その後に嘆きや葬式準備で目を離していると、遺骸が消えて産着が衣類だけになっている。そういうあやしいことがずっと続いているという話を聞いた。
「そいつァ鬼だな」
「来て下さい」
若い父親が掴んだ手は力強かった。実弥は引かれるようにしてその家に着くと、なぜか既に悲鳴嶼がいた。他の町内の者もいて、すこしおかしくなった女がげらげら笑って、ざまを見ろ!!おまえがうちの子の消えたのを婦人会で嗤ったからだ!!と笑う。
「やめないかお前。すいませんうちの妻が、うちのも前に赤ん坊を亡くしていて、あれからちょっとおかしいんですよ」
「詳しく話せェ」
そこで聞いた話は先と同じで、子が苦しんだ後の遺骸を失って、からの棺で葬儀を出し、悲しむにもその骨もなく、妻女は泣き暮らしているという事だった。
家の中に入ると悲鳴嶼がいた。
「不死川か」
「はい」
「お前の目にはどう見える」
「……燈灯りに、影が飛び交う。それだけですゥ」
「甘い!」
叱るように言って、悲鳴嶼は斧を振るった。途端、叫喚と血の滴りが部屋の中にばたばたと飛び散った。悲鳴嶼の一撃が鬼を捕らえた。実弥は一言もなかった。
「血を追って、止めをさせ」
「はい」
実弥は血痕を追った。床や壁や天井に飛び散った滴々とした跡は、台所の勝手口に続いていた。その勝手口にいたのは老媼だった。体を苦しそうに抱えて青ざめている。鬼の匂いはしなかった。人好きするような器量で、実弥を見てにっと笑った。
「ああこれはちょっと、持病の癪がね」
「見せろォ」
実弥が刀を抜き払った瞬間、老媼は天井にまで飛び上がった。怪鳥の雄たけび声をあげ、真下の実弥を狙っている。刀を八双に構え直した実弥目掛けて老媼が首を伸ばした所を、悲鳴嶼の斧の一閃が止めを刺した。
いや、老媼の首はまだ半ば断たれていない。だが、彼はもう身動きもままならなかった。実弥に体の上を固められ、ひゅうひゅうと息をしているだけだった。
「赤子達に何をした」
「脳を啜った」
「……南無」
「脳を啜り空っぽになると死ぬ。その死体も私が食べた。肉が柔らかくて老人には食べごろの体だからねぇ」
「いつだ?」
「……」
「覚えている年号はいつだ」
「安政……」
「鬼になったは六十年近くも前か」
悲鳴嶼は蛇蝎に見えるような表情で嫌悪をあらわにした。その上に載っている実弥が、刀を素早く使った刃風が緑を帯びた。老媼の首は断たれ、その場に鬼の死骸が桐灰のように一気に朽ちた。
それで、老媼の着物や何かは気味が悪いと夜のうちに焚き捨てられてしまった。後を振り返り、実弥が言った。
「ねえ悲鳴嶼さん。俺に手柄を立てさせようとしてやしませんかァ」
「それは違う。私は見えぬ。目開きに見えぬものが時に見えるが……目開きに見えぬものを切った後は、目開きのお前が片付けるのが適当だ」
「ふぅん」
「丁度良かったではないか。赤子は守られ、我らは帰れる」
「どうも、ただで帰してくれる気はないみたいですがァ」
一升瓶入りの酒が何本も担ぎ込まれた。煮つけ。生きの良い魚を刺身にしたもの。塩辛。そんなもので今夜の鬼退治を祝おうとしている。もう朝が来ているというのに今から酒かと、悲鳴嶼も実弥も諦めて、その酒宴に付き合う事にした。