「おーい」
ある雨の日。銀行から帰ってくると、家の玄関の前で見知らぬ男が寝ていた。紫色のパーカー。明るい色の癖っ毛。寝ていても分かる顔立ちの良さ。うん。初めて見る人だ。全く見覚えがない。
急病人かと思って119番に電話しようかと思ったが、それにしては幸せそうな顔で寝ているし、そもそも、倒れた人間は、眠りの小五郎みたいに器用に座って倒れたりしない。彼がどういう理由でここで寝ているのかは皆目見当がつかないが、雨が降っている訳だし、こんな所で寝られていても困るので、僕は彼を揺さぶったり声をかけたりして起そうとした。
「おーい、起きてくださーい」
しかし彼は何かにゃむにゃむと寝言のようなことを言うだけで、全く起きようとしない。僕は溜息をついた。さて、どうしたものか。僕は少し考え込んだ。
このまま彼をここに放置するわけにはいかない。しかし、僕が彼をどこかに送り届ける事も出来ない。頭の中で、僕が出来そうな事を一つひとつ挙げていったが、一番最後に残ったのは、一番やりたくなかった事だった。僕はひとつ大きな溜息をつくと、彼の身体を持ちあげ、所謂お姫様抱っこをした。そしてそのまま家のドアを開け家に入り、彼女をリビングのソファーに寝かせた。知らない人を家に上げたくは無かったが、他にいい方法を何も思いつかなかったのだから仕方がない。一人暮らしだから誰かに見られることも無いだろうし。起きた彼が何か騒ぎ始めた場合には、僕が社会的に死ぬが。
ソファーの彼はまだ暫くは起きそうにないので、僕は毛布を持ってきて彼にかけてやった。揺さぶっても、声をかけても、お姫様抱っこをしても起きないなんて、どれ程良い夢を見ているのだろうか。僕には全く見当がつかない。
寝ている彼にはそれ以上触れずに、着替えたり、夕飯を食べたり、スマホを弄っていたりすると、ソファーの毛布がガサゴソと動いている事に気付いた。ソファーの方に目をやると、どうやら彼が起きたらしかった。彼は気持ち良さそうに伸びをした。そしてキョロキョロとあたりを見渡すと、
「ここどこ?」と呟いた。
「ここは僕の家です」
僕が後ろから声をかけると、彼はびっくりしたようにこちらを向いた。
「なんでボクが君の家に?」
「知らないですよ。あなたが僕の家の玄関の前で寝てたんですから」
「そっかあ。ねえ、名前なんて言うの?」
「御手洗暉です。あなたは?」
「ボクは……、あれ、なんだっけ」
「はぁ?」
冗談としか思えない。そうとしか思いたくない。しかし、目の前の彼は思い出す様子が全くない。どうやら真実らしい。
「じゃあ自分の家とか、職場とか……」
「うーん……」
「免許証とかは? そこに名前とか住所とか書いてません?」
僕にそう言われて、彼はパーカーのポケットなどをまさぐったが、それらしきものは全く出てこなかった。唯一、スマホだけは出てきたが、個人が特定出来るような情報は何もなかった。
「もう一度聞きます、本当に何も覚えてないんですね? 自分につながるようなことは」
「うん。さっぱりだね。何も思い出せない」
自分の名前も、年齢も、住所も何もかもが分からないのに、彼はかなり楽観的に見えた。普通は不安がるものだろうが、そんな様子は全くない。それどころか、この状況を楽しんでいるようにも見える。