小さな頃から人ならざるものが見える質でして、そりゃあもう、嫌な思いをしたものでした。廊下の先の暗がりや、家と家の間の薄暗い隙間、そう言った場所に人ではないものがたむろしておりまして、私の方に手を伸ばしてくるのです。普通の人と違うものが見える。幼い子どもには大きな心労となりまして、私はいつも目玉を抉り出そうとしていたそうです。
「ダメじゃないか。血が出てしまうだろう」
そう、話しかけてくれたのは、軒向かいの大きな家に住むおにいさんでした。おにいさんはとっても優しい人で、挨拶を交わしたり、お菓子をくれたりと良くしてくれました。おにいさんは、私の目のことを知っていて、それでも気味悪がらずに心配をしてくれました。
「君の目は素敵だよ。だって、俺たちとは違った世界が見えるんだから。人と違うことは怖いことかもしれないが、父さんや母さんからもらった大切な瞳だ。すこし赤みがかった綺麗な瞳なんだ。大切にするんだぞ」
おにいさんはそう言って、私の瞼を愛おしそうに撫でてくれました。その手のひらは、とても硬くてザリザリしています。それでも、優しい手つきで撫でてくれるので、私は大好きでした。
私はおにいさんが大好きでした。それに、おにいさんに憑く幽霊さんも好きでした。
これは、内緒の話なのですが、おにいさんの家には幽霊が住み着いています。黄色の髪の毛に赤い髪が混じった、異国の方とはまた違った雰囲気の幽霊さんです。幽霊さんは、いつもおにいさんの書斎にいました。おにいさんの書斎には、私も片手で足りる程度しか入ったことがありませんが、いつ訪れても、おにいさんの部屋の隅に幽霊さんが佇んでいました。
私にとって、幽霊は一番怖いものでした。人間の形をしており、たいていの者が恐ろしい形相をしているからです。血をダラダラと流して、目の奥には暗い闇を灯し、じっとその場に佇んでいる幽霊は、私にとって恐怖の対象以外のなにものでもなかったのです。
しかし、その幽霊さんは違いました。まず、目が違うのです。恨みとか辛みとか微塵も見せないで、ただただ愛おしそうにおにいさんを見つめます。髪の毛と同じように黄色と赤の混じった瞳は、その奥に希望と愛情をいっぱいに湛えて、ゆるりと揺らぐ炎のようにキラキラと輝くのでした。
「幽霊さんは、おにいさんのお友達なの?」
おにいさんがお手洗いで席を外したとき、私は勇気を出して幽霊さんに話しかけたことがありました。私が見えているのだとわかると、幽霊さんはパア、と花が開くような笑顔を私に向けてくれました。手をブンブンと振って、何か話しているのか口をパクパクするのですが、何一つ聞こえません。私は目だけが特別のようで、耳は普通だったのです。声まで聞き取ることはできませんでした。
「見えるだけで、お話しは聞こえないみたいなの。ごめんなさい」
そういうと、幽霊さんは眉を少し下げてしょんぼりしました。幽霊さんは見たところ、おにいさんよりも少しお若いように見えました。それでも私よりずっと年上です。年上の男の人が、そんなふうにしょんぼりしているのを見て、私は可愛らしいな、と思ってしまいました。少し失礼かな、とも思いましたが、黄色の髪の毛もしょんぼりと下を向いているように見えます。やっぱり可愛いです。
幽霊さんと会ったのは、たった五回。それから、話をしたのは三回だけです。
おにいさんのお友達か尋ねたのが一番最初のこと。それから、次に会った時は、幽霊さんのお名前を聞こうとしました。成仏させる手がかりになるかもって思ったのです。でも、会話のできない私。モノに干渉できない幽霊さん。情報を共有する方法がなくて、断念しました。
そうして、最後にお話しした時のことを、私は今でも鮮明に覚えております。
おにいさんが、体調不良で寝たきりになってしまった時のことでした。
まだ若いのに、急に、どうして、と近所の人たちは心配しておりました。そのうちの一人が私です。横になっていても食べやすいように、と擦った林檎を家から持って書斎に入りました。書斎の真ん中には布団が敷かれ、おにいさんが苦しそうな顔で眠っていました。
気づくと、おにいさんの枕元に幽霊さんが座っていました。じっとおにいさんを見つめ、その表情はとても悲しそうでした。死ぬな、死ぬなと言っているようです。大抵の幽霊は、憑いた人間を早く殺そうという悪意を持っているものです。が、幽霊さんは真逆でした。生きてくれ。頑張れ。と、言っている様子なのです。苦しそうなおにいさんに負けないくらい、幽霊さんも苦しそうな顔をしているのです。
幽霊さんは、モノに触れられない手で、おにいさんの頬を撫でました。撫でるといっても、空を掻くような無意味な行為だったのかもしれません。汗の一つも拭えぬその行為。でも、愛情に溢れて、なぜか尊ささえも感じさせる行為でした。幽霊さんは、触れられないおにいさんの頬を、額を、一生懸命に触れました。苦しそうな顔をしながら。
私は何も言えませんでした。そこは二人の空間だったので、書斎の戸を開いたまま動けなくなっておりました。りんごが酸化して茶色くなった頃に、やっと幽霊さんは私に気がつきました。照れ臭そうに笑って、いつもいる部屋の隅へと戻ってしまいました。
「幽霊さん」
声を掛けると、幽霊さんは首を傾げました。何? と言っているようです。
「幽霊さんは、おにいさんに触れたいのね?」
尋ねると、幽霊さんはとても悲しそうな笑顔をしました。無理矢理口角を上げているけれど、歪で、モゴモゴと舌触りの悪い物でも食べたかのような顔でした。
触れたいのに、触れられない。
触りたいけど、死んでほしくない。
幽霊さんは、そんな感情と戦っているのでしょう。
私はあの時、人のままならない感情というものをまざまざと目にしました。幽霊さんはずっと、そんな感情と戦いながらこの書斎にいたのでしょう。
そうして先日、ついにおにいさんが亡くなってしまいました。
大好きだったおにいさんが亡くなってしまって、私はわんわんと泣いてしまいました。おにいさんのあの手の感触を二度と味わえないのだと思うと、幼いながらに虚無感に囚われて、心に穴が空いてしまったように思います。
そうして、近所で仲も良かったことから、火葬に立ち合わせてもらいました。
おにいさんは綺麗な顔をしていました。あんなに苦しそうだったのに、人は死ぬ時、こんなに穏やかな顔をするんだなあ、とどこか他人事のように考えました。おにいさんの身体は窯に入れられ、あっという間に炎に包まれてしまいました。
嫌だ。死なないで。
悲しくって涙が溢れた時、私の横を風が通り過ぎました。爽やかな風。あとを追って振り返ると、そこにはおにいさんがいました。——おにいさんが幽霊になってそこにいました。
しかし、姿が違います。私の知っているおにいさんより、幾分か、幼くなっているように見えます。そうして、いつもの緑の市松模様の羽織を着て、黒い軍服のような服を着ています。私にはその服装に見覚えがありました。おにいさんの書斎の棚に飾ってある写真。そこにはその服装のおにいさんや、知らない人たちが写っていました。そういえば、その写真に幽霊さんにも似た人が映っていました。今、思い出したことです。
おにいさんは駆けました。火葬場を抜けました。びっくりするくらいの速さです。私は後ろから母がなにか言うのを耳にしつつ、その後を追いました。
向かった先は、おにいさんの家でした。私はキョロキョロとおにいさんを探して、書斎に入りました。
おにいさんは涙を流して、幽霊さんに抱きついていました。私の知っているおにいさんは、とても大人びた優しい人です。ですが、今は見た目も若いながら、子どものようにわんわんと泣いているのです。幾粒もこぼれ落ちる涙を、幽霊さんが優しく拭います。
幽霊さんは、やっとおにいさんに触れることができたんだ、と思うと私の心に空いた穴が、ゆっくりと塞がるのを感じました。別れは寂しいことなんかじゃない。またこうして会えるんだよ、と励まされたような気がしたからです。
二人はきつく抱き合い、周りにほわりほわりと光が溜まったかと思えば、朝露のように姿を消してしまいました。
私はこの時、初めてこの目でよかったと思いました。
きっと普通の目の人は知らない。素敵な終わりの形を目にすることができたんですから。