犬友「ええよ」
朱に交われば赤くなる。
それはまったく確かなことで、悪い仲間が出来ればどんな優等生も段々悪いほうへ染まっていくし、行儀が良い連中の中に放り込まれればどんな悪童も少しはましになる。態度もそうだし、言葉もまたしかりだ。
西国訛りに囲まれれば西国の、京の都で京言葉を聞けば京言葉に、知らず知らず染まっていく。
もともとは壇ノ浦の生まれで、生まれた時からずっと彼の地の訛りで話していたはずの友一も、都で十年あまりを過ごすうちに最近はすっかり生粋の“みやこびと”のような言葉遣いをするようになった。
たとえば、頷くときの、ため息のような「はぁ」という言葉ひとつとってもなんともはんなりしている。まるで上品な深窓の令嬢のようだ。
いやだ、と言うときの「いやや」もそう。
一番困るのは、「ええよ」と言われたときだ。優しく「ええよ」と言うときの友一は大抵微笑んでいて、それを聞くたびに犬王は背中の鱗のあたりがぞくぞくした。
まるで、彼にすべてを許されているみたいで。包み込まれるような錯覚に、息の仕方を忘れてしまう。
「ええよ、犬王」
「な、にが」
はっとした。どうやら自分は考えを虚空に飛ばしていたらしい。目の前に、朋がいるというのに。
なんや、聞いてなかったんかと、友一は呆れて見せた。
「うん、だから次の公演。夜に演るんやろ? それでええよ、うちの若い衆も張り切っちょるわ」
「あ、ああ……ではそれで頼む」
「なんや、上の空やないか。いつもの威勢が無いなぁ。風邪でも引いたんか?」
どれ、と友一が犬王の仮面の下へ手を伸ばした。目が見えないので、友一は相手の顔色が分からない。だから相手の顔色を【知る】には、こうして触れてみるしかない。
触れてみるしかないのだが、誰にも触らせたことがない仮面の下をくすぐられると、犬王はぶるぶると心が震える心地がするのだ。
震えると、心の水面は波打つ。
波はやがて大きくなり、犬王そのものを飲み込んだ。
ゴクリ、と喉が鳴った。
友一、と名前を口の中で転がす。
友一、友一。俺の唯一の朋。躊躇なく俺の素顔に触れる、盲目の琵琶法師。色の無い瞳で、指先で、全てを見透かすように俺を見る。
ひとしきり犬王に触れた友一は、首を傾げた。
「熱やないなぁ」
ああ、またその言葉遣いだ。まったりとして重く、甘い菓子のように犬王の耳に残る。胸が切なかった。この気持ちの名前がわからなくて、不安になる。
矢も盾もたまらず、犬王は立ち上がった。
「どこ行くん?」
「厠!!」
ドタドタと派手な足音をさせながら部屋を飛び出した犬王。なんだろう、一体。
友一は手の中の琵琶をべべん、と鳴らした。
「あのぉ、俺たちもいるんですが」
「ああ、せやった」
同席していた門弟に文句を言われてもどこ吹く風の友一はさらりと流した。
「どうせ見えんから良いと思ってるんでしょ」
「いちゃつくならよそでやって下さいよぉ」
門弟たちは口を尖らせた。尖らせても、どうせ友一には見えないのだが。
「はぁ? お前らなぁ、揃いも揃っておぼこか」
「おぼこに決まってるでしょ!」
それもそうかと、傍らに置いた湯呑からぐいっと一口白湯を飲むと、友一は琵琶を爪弾きながら鼻歌を歌い始めた。頭の中は次の曲のことでいっぱいである。
新しい曲が出来たら、犬王に真っ先に聞かせてやるのだ。
「あーあ、犬王のやつ帰って来んのぉ」
ちょっとからかい過ぎたかと、友一は先程のやりとりを反芻する。
友一は知っている。
自分の年下の朋は友一の話す京言葉に弱いことも、不意に肌と肌が触れ合うとどうして良いか分からずいっぱいいっぱいになってしまうことも。それが楽しくてついつい遊里の姐さんが話すようなまったりとした言葉遣いをしてしまうのだ。友一は耳が良い分、口調を真似るのも容易かった。
我ながら性質が悪いと思う。
(俺はお前が可愛いくて仕方ないのだ、犬王)
べべん、と琵琶を鳴らした。
だからいつでも「ええよ」と言ってやる覚悟がある。友一の全てが欲しいと言われたら、喜んで差し出す覚悟が。
その時期はまだ遠そうだが、それまでは初々しい反応楽しむとしよう。犬王は面白い。
「兄者、犬王さんが可哀想ですよ」
「なにがや」
はぁ、と門弟の大仰なため息が聞こえる。
「俺はなーんにもしてへんよ」
それが問題なのだと声を上げる者はいなかった。誰だって、犬に食われる趣味は無い。ましてが相手が犬の王ならば、尚更だった。