名前「千景さん今日帰りゲーセン寄りましょマジでどうしても落とせんプライズがある諭吉溶かしたけど無理だったあれはチートにしか落とせん鬼畜仕様」
出勤の車中、助手席の後輩がソシャゲの画面を見つめながら、運転席のこちらのことはノールックで早口にそう言い切った。
「……人にモノを頼む態度とは思えないな茅ヶ崎」
「千景さんならいける、おねしす」
後輩はふてぶてしくも、iPhoneから目線を外さず二度目のお願いと来た。俺は青に変わった信号を確認して、ゆっくりとアクセルを踏み込む。
「……いいよ、行こうか。クレーンゲームの筐体蹴り上げて落としてやるよ、そのゲーセン出禁になるね、おめでとう」
バッ、と元から大きな目がまん丸に見開かれて、やっとゲームから顔を上げてこちら見る。そういう顔がいちいちおもしろいから俺はこんなしょうもないことを言ってしまうんだな。
「やっ。できたら、正攻法で、お願いしたいかな〜なんて、…いやでも先輩なら蹴り上げて…落とせそう」
「ふは、なんだそれじゃあほんとうにやろうか」
「いやちが、ね〜千景さんお願いしますて」
「お前こういうときだけ名前呼びだよな」
「え〜、んなことないですよ、ねえ〜お願いしますて〜」
■ ■ ■
卯木千景。
これはオーガストがくれた名前。
あいつがくれた、かたちあるなにかを俺は少ししか持っていない。
うつきちかげ。
うつき、ちかげ。
俺は小さく自分の新しい名前を繰り返した。
卯木千景。
オーガストがくれた名前。
■
オーガストが死んだと聞かされた。
ディセンバーが裏切ったのだと。
知らせを聞いた時の記憶は白く光って黒く澱んで曖昧で、でもそれ以来、頭の中に止むことのないノイズが鳴り続けている
オーガストがいないなら、ディセンバーが家族じゃないなら、俺がいまここに存在している意味がわからなかった。
俺はなぜ生きて存在しているのだろう、意味がわからなかった。いままで立っていたと思っていた世界の地盤はいまや消え去った、俺は虚空を落下し続けていた、そしていつまでたっても新たな地面は現れず、だからおれはひとのかたちを保っていた、意味がわからなかった、おれはなぜ存在し続けているのだろう、おれをひとたらしめていた力はもうこの世から全て消え失せたのに。
復讐しなければならない。
復讐?
そんなわけがないだろうそんなわけがないはずだディセンバーがそんなわけがない、復讐をしなければならないと言われた、そんなわけがあいつが、そんなわけが、復讐しなければならないと言われた復讐しなければならない、何も考えたくない何も考えられない何も、
何も考えられないのにそれは許されないらしかった、復讐しなければならないと脳内に響いている、これは俺の考えなのか組織に言われ続けたことを脳が反芻しているだけなのか、おれにものごとをまともに考える能力などなかった、おれはひとのかたちをした何かだった、おれをひとたらしめていた力はもうこの世から全て消え失せたのだ。
頭の中に止むことのないノイズが鳴り続けている
オーガストがもういないという現実、それを認識しようとすると脳が激しく拒否反応を起こす、ザーザーと脳にノイズが走る、オーガストがいない、もう会えない、おれはじゃあなんでいまここに存在し続けているんだ、存在しているのが怖い、存在していたくない、消えたい、ディセンバーが裏切ったのだということ、そんなことが、受け入れらるわけがない、ほんとうのことをあいつにきかなければ、あいつのことを、ほんとうのことをあいつにきかなければ、あいつはおれの、憎まなければいけないと言われた、復讐しなければならないと言われた、何も考えたくない、存在していたくない、何も考えたくない、何も考えられない、もう許してほしい
■
……復讐しなければ
結局俺の頭に残った意識らしいものは、このこと一つに収斂することを選んだらしい。
俺の頭はノイズとバグだらけで役に立たず、ノイズだらけのそんな脳にも響くように奴らは復讐について俺に語り続けたから。
人間というのは、なにかの力がなければ人間であることを保てないらしい。それが憎悪の力であったとしても、なにかにすがらなければ、生きられないのだ、生きているのならば存在し続けなければならないのなら、なにかにすがってしまうのだ、それが例え偽りであっても、それが例え憎悪であっても、偽りの憎悪であっても、なんであれ、
復讐しなければ。
■
御影密。
ディセンバーはオーガストにもらった名前で生きていた。
劇団に入って舞台に立っていた。
あいつが舞台上に現れた瞬間、気が狂うかと思った。
頭の中のノイズが頭を割った。
舞台にのぼってぶん殴って抱きしめたかったし胸ぐらを掴んで問いただしたかったしこの世から存在を消したかった。
頭の中に響くノイズはあいつの姿をこの目で見て以来、さらに強いものになった。
■
ディセンバー、ディセンバー、ディセンバー、そんなことがあるわけがない、あいつに、あいつを
オーガスト、なぜいないんだろう、俺に何か言ってほしい、なんでもいい、そしたらぜんぶその通りにするよ、なにも言い返さない、なんでもいうことを聞くから、俺になにか教えてほしい、
オーガスト、オーガスト、オーガスト、俺はお前が、お前がいたから、お前がいなければなにも、なにもかも
クソ、クソ、クソ、あいつがいなければ、ッ、
クソ、違うそんなわけない、そんなわけない、あいつがそんなことするわけない、でも、じゃあ、でも、なんで、なんで、クソ、クソ、じゃあ俺は、
オーガスト、俺はお前がいたから、お前がいなければなにも、なにもかも、
ディセンバー、お前が、お前は、そんなわけ、お前のせいで、なんでだ
オーガスト、俺のせいで、
ディセンバー、俺が、俺があいつを拒み続けていれば、
オーガスト、俺のせい、俺が、俺の、
俺のせい、俺の、俺の、
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御影密。卯木千景。
いつだか、オーガストは声に出して二つの名前を読み上げた。
いつだか、二つとも綺麗な名前だとあいつは言った。
俺もそう思った。口に出しはしなかった。
今、そのときのことを思い出そうとすると、そのときの嬉しそうなオーガストのようすや、そのようすに自分でつけといて何言ってんだと呆れたこと、その隣にはいつもどおり話を何にも聞かずにまどろんでいるディセンバーがいたこと、その瞬間の記憶が脳をかすめるだけで気が狂いそうだった。ささやか記憶の一つ一つが俺を引き裂いた。気が狂いそうだった。何かで脳を塗りつぶさなければならなかった。
例えば憎悪で。
気が狂いそうなときが辛いのだ。痛いのだ。狂ってしまえば、楽なものだ。
人間はなんにでも慣れることができる。幸福にも、狂気にも等しく慣れることができる。
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