猫から始まる出会い窓の向こうに猫がいた。
目が丸い、とても可愛らしい顔をした黒猫だ。
ここの所黒猫は、毎日のように窓の向こうに香箱座りになってじっと見つめてくる。
九条はふと、その猫に目線を合わせる。
猫は嫌いじゃない。むしろ好きだ。犬ほどではないが、とても愛らしいと思っている。
ふわふわつやつやした体にしなやかな所作。何を考えているかわからないミステリアスな瞳。
猫は可愛い。
ふい、と猫が目を逸らすと九条は「嫌かあ」と呟いて、帰路につくために改めて踵を返そうとした。
「あの、何か用ですか?」
背後から声をかけられて、彼は突然声をかけられた驚きに大げさに体を跳ねさせた。その後、大柄な体を縮こませた。
恐る恐る振り返ると、灰色の髪の男性が立っていた。中年に差し掛かっているように見える。
穏やかな顔立ちをしている彼は、困ったような顔で九条を見つめている。
「あ、あの、その、怪しい人じゃないんです」
ようやく絞り出した言葉は不審者そのものだった。
自分で怪しい人ではないと言うのは、その怪しい人くらいなものだ。
彼は黙って九条を見つめている。穏やかではあるが、目に奇妙な凄みを感じて逸らしたくなってくる。
「その、猫が。猫と目が合って、あの、猫と」
「猫。その黒猫のことかな」
男は言いながら、ガラスの向こう側でツンと澄ました顔をしている猫を指さす。
「そうですそうです。その……ここを通ると猫と目が合うので、つい見てしまって……。すみません、変な人間って思われても仕方ないですよね」
言いながら九条が後ずさる。とにかく早いところこの尋問から逃げ出したいという気持ちでいっぱいといった面持ちだ。
「大丈夫ですよ、怒ってないから」
男の声に九条はその顔を見る。
彼の表情は柔らかく、不審者に向けるような冷たさはかけらもなかった。
「猫が理由なら仕方ないですよ。それに少し前からああやってポピーを見てくれていたでしょう」
九条の生白い顔が恥ずかしさで耳まで赤くなる。少し前から、という事は前から猫を見ていたのをこの男に見られていたという事だ。
「あの、あの、すみません、本当にすみません、その、嫌とか気持ち悪いとかそう思ったらもうやらないです……」
恥ずかしい、よりは申し訳なさの方が勝る。
自分のようなうどの大木の如く大男が、例え猫がそこにいたとしても家を見ていたら誰でも嫌な気持ちになるだろう。九条はそう思った。今にも泣きそうなほどに体を小さく猫背にして平謝り。
バンドのリーダーというよりは、単なる気の弱い青年にしか見えない。
「ああ、そういう事じゃないですから。別に怒ってるわけじゃないから大丈夫ですよ。もし良かったら家の中で猫を見ませんかって言いたかったんです」
男の声に彼は顔を上げる。
「いいんですか? もし俺が本当に変なやつだったらどうするんですか?」
「そうしたら縛り上げて警察を呼べばいい。それにこういう所からご近所づきあいは始まるからね」
そう言って男は笑った。
九条はその時、この家が自分が住んでるアパートのすぐ近く、ほんの歩いて5分もかからないところにあった事を思い出した。
男は西園秀馬と名乗った。表札には確かに西園と書かれていたし、西園なんとかが彼のフルネームである事は最初から推察できた。
秀馬は九条をリビングに通すと「カフェインは平気? コーヒーと紅茶とアップルジュースがあるけど」と問いかける。
「あの、大丈夫です。さっきコンビニで買ったお茶があるんで」
こんな招かれざる客に出される茶があるものか、申し訳ないにも程がある。
九条が断ると、秀馬は「遠慮しなくていいよ。お客さんはもてなされる為にいるんだから」と仏像のような穏やかな微笑みを浮かべて静かに言った。
「はぁ……。じゃあ、紅茶で」
「紅茶ね。分かったよ。ちょっと待っててね」
秀馬がリビングに繋がっている台所に立つと、チリリン、と鈴の音がした。
見るとそれまで窓際で横になっていた黒猫が、そこから飛び降りて秀馬の元に歩いていくのが見えた。
「ポピー、お客さんの所に行ってなさい。君を好きな人だって」
そう秀馬が言ったが、黒猫ポピーは聞いているのかいないのか。彼の元から離れようとしない。
(そりゃあそうだわな。初対面だしなあ)
九条はそう思いながら、猫が発するチリチリとした鈴の音をソファに座って聞いていた。
程なくして秀馬が紅茶を持ってリビングに入ってくる。それに続いて猫も鈴の小さな音を立てながら歩いてくるのが見えた。
九条は歩いてくる猫を、地面に対して顔を平行にするようにしながら覗き込んだ。
それは見向きもせずに、元々の家族である秀馬にピッタリとくっついている。体を時折すりすりと擦り寄せては、小さく鳴いてみせる。
「少し彼女は恥ずかしがり屋で気まぐれでね」
紅茶をテーブルに置きながら秀馬が言う。
慌てて九条は体を起こして、彼を見た。
彼女、とは恐らく猫の事だ。まるで人に対する呼び方のようだ。
「お客さんが来ても慣れるのに時間がかかる。でも、決して無視する事はない。穏やかに根気強く待ってごらん。きっと側に来るはずだよ」
秀馬が言いながら九条の正面に座る。
九条は秀馬の顔を見る代わりに、リビングをそっと見回す。リビングには本棚があり、さして分厚くもない本が並んでいる。そしてその本の何冊かは表紙をこちら側に向けるようにして飾ってある。
その表紙の絵は繊細で佇む少女だったり笑っている少年だったり、あるいは動物が描いてあったりする。
タイトルも「わたしまいご」や「森のよる」とシンプルなものが書いてあるのが見えた。
恐らくは絵本だろう。
九条はその絵本の表紙を見つめながら、独り言のように問いかけた。
「絵本、お好きなんですか?」
ほぼ初対面の年上男性に突然聞くには少し幼すぎるかもしれない、と言ってしまってから思った。しかし秀馬はさして気にする素振りもなく答える。
「ああ。そういう仕事をしてるからね」
「編集とか、本屋の店員とかですか?」
九条が聞き返す。
「じゃないねえ。実は絵本作家をしていてね、そこにある本は僕が書いたものなんだよ」
秀馬の言葉に彼は「ええっ」と声を上げる。そうしてまた改めて絵本をまじまじと見つめた。
よく見ればその絵本には「西園しゅうま」と彼の名前が、作者として書いてある。
音楽を生業にしている自分が言えたことではないが、身近に創作を職業にしている人間がいるとは想像もしなかった。
「すごいですね……絵本作家なんて初めて会いました」
九条が言うと、秀馬はニコニコと笑みを浮かべた。
「まあね。なかなかいないでしょう。あ、もし読みたかったら汚したりしなければ自由に読んでいいからね」
「じゃあ、一冊だけ……」
九条は立ち上がると、猫が描かれている表紙の絵本を手に取った。
絵本を読み終わる頃には、いつの間にか窓の外は暗くなっていた。
猫はいつの間にか九条を信頼したのか、ソファに登って彼の隣に陣取っている。
猫という当初の目的は、すっかり失われていたがそれを気にすることもなかった。
それに、このさりげなく寄り添うような距離感が心地よく感じる。
「もうこんな時間かぁ……じゃあ俺は帰ります。絵本、すごく良かったです。今度本屋で見つけたら買ってみます」
すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干すと、彼は立ち上がった。
「また来てもいいですか?」
「ああ、連絡をくれたらね」
短く言葉を交わし、連絡先を交換して、九条は外に出た。
仲間やマネージャー以外とそこまで密接な交流がない日常。そこに一つの新鮮な水が流れ込んできたような、清涼感。
初めての人と話すのも悪くない。それに良い人でよかった。
いつになく明るくなった気分を軽く弾ませ、彼は家路につくのだった。