後悔ブランドン・ニュートの怪我の程度を慮ったメルはパスタを巻き取る手を止めてため息をついた。
数日前に新人を庇って大怪我をしたという彼。庇われた彼によれば、魔獣に脚を噛まれたらしい。
噛まれたといっても彼の脚、特に右脚は太ももの辺りまでの骨が所々粉砕されているらしいので、その状況的には「噛み砕かれた」が正しいようだ。
なぜ新人を庇ったんだろうか、とメルは砂糖を入れたコーヒーを啜りながらふと思った。
ニュートは冷徹で厳しい。利己的とまではいかないがそれに似た性質を感じ取れるような言動が多い。
仕事に厳しすぎる彼の指導で脱落した新人は多い。
ずっと前も号泣している新人に追い打ちをかけるように詰っている彼の姿を見た気がする。
そんな彼が新人を庇うなんて、どんな風の吹き回しだろうか。しかもそれで大怪我を負うだなんて。
甘苦いコーヒーの熱さが口の中から胸の辺りに流れ込んでくる。
「メル、聞いた? ニュートさんの話」
いつの間にか隣の席に座ってきたフランが、早速その話題を口にする。
「今日はコーヒーなんだ。珍しいね」
ついでにめざとく飲み物の事も言ってくる。彼女は快活で明るくて、よく気がつく女性だ。
「うん、そう。ニュートさんの事も今考えてたところ」
メルは言いながらわずかに残ったパスタを巻き取って口に運んだ。トマトソースの酸味と口内に残ったコーヒーの苦味が混ざり合う。しばらく戦っていたものの、苦味はやがて酸味にかき消された。
「怖いよね、魔獣に噛まれるなんてさ。銃持っててもダメだったのかな」
フランは言いながら、千切ったパンを齧った。パリ、と軽い咀嚼音が聞こえる。
銃。彼が見回りや緊急呼び出しの時に常備している小銃の事だ。
彼が医療班によって運ばれてきた時、小銃は真っ二つに折られていたし銃身にも爪痕と噛み跡がはっきりとついていた。
銃を撃つことすらできなかった。そんな余裕もなかったというのは、安易に想像できる。
「もうダメかもね、あの人」
フランが呟いた言葉に、メルは何も言えなかった。
彼自身も心の奥ではそう思っていた。しかし同じ考えだとしてもその言葉に同調することはできなかった。
どこかでは彼が再起不能だということを、メルはまだ信じたくない気持ちでいた。
これまで散々彼と衝突してきた。
何故か彼はメルを目の敵にしてきて、辛辣な態度を取り続けてきた。そのせいで殴り合いの喧嘩になったことも度々あった。
温厚なメルだとしても、怒りの感情はある。ただ我慢強いだけだ。
彼が我慢できなくなり、感情を剥き出しにする程の言動を何度されたことだろう。
だがそれでもメルは、ブランドンを完全に嫌うことはなかった。
そうでなければ今もきっと彼を気にすることなどなかっただろう。
何故なのかメル自身もわかっていなかった。同族のよしみという概念だけでは表せないほどのもっと曖昧な感情を彼に感じていたからだ。
とりあえず少しくらいは仲良くなりたいし、話もしたい。何故か彼のことを知りたい、とさえ思っていた。
メルは食べ終わった食器を片付けるために、皿を手に立ち上がった。
「じゃあ僕行くから」
フランに声をかけると、彼女はパンを口に入れたままモゴモゴと何か言って手を振った。
「ずっと羨ましかったのかもしれない」
ようやく口を開いたブランドンの言葉は、これまでとは比べ物にならないほどに弱々しく感じた。
昼食を食べ終わった後、やはりブランドンの事が気にかかったメルは彼のお見舞いにと医務室を訪れた。
切断を免れたものの深い傷を負った右脚には包帯が分厚く巻かれていた。
もう強がる気力も無くなった彼と取り留めもない話をした時に、その言葉が出たのだった。
「お前が持っているのは、俺が無くしたものばかりだ」
そう言ってブランドンは俯いた。
虚な目がぼんやりと足に巻かれた包帯を見つめている。
メルは何を言おうか、やはり分からなかった。考えながら、自分が持っているものを考えた。
自分にあって彼にないものはなんなのか。
普通の顔、失明してない片目。見た目のことしか思いつかない。
考えれば考えるほど頭がぐちゃぐちゃになってくる。
「……なんで後輩を庇ったんですか?」
彼の言葉を無視するように、メルは問いかけた。
ブランドンはしばらく黙り込んで思案しながら、やがて口を開いた。
「理由なんてねえよ。体が勝手に動いたんだ」
言ったきり口を開くことはなかった。
いつもだったら憎まれ口を叩いたりしてくるブランドン。そんな元気はもうなかった。
居た堪れなくなったメルが立ち上がり「じゃあ、僕いきますね。はやく元気になってくださいね」と言いながら彼に背を向ける。
その時、メルの背中にブランドンが投げかけた。
「お前にとっていい奴らを大事にしろよ。そういう奴らがいるのが一番いい事だからな」
メルは彼の顔を見られなかった。
そうだ。彼にないものは、きっと温もりだ。
フランシェスカであり、オクタヴィアであり、ライノックスだ。そんな人達がくれるものだ。
辛くなった時に寄り添ってくれる人達だ。
「……今度もっと話しましょう。僕はあなたと仲良くなりたいから」
そう言ってそっと外に出た。
しかし、ブランドンは3日後ひっそりといなくなった。
ギルドを辞めたのだと医務室長が言っていた。
彼に散々厳しくされた職員は喜んでいたしこぞって彼の愚痴を言っていたが、メルの心は晴れなかった。
結局彼と向き合うことができなかったという後悔だけがただ残った。