金木犀と五線譜 ごめんと謝る声が聞こえて顔をあげると、深緑色のジャケットをはためかせながらヒロが駆けてくるのが見えた。薔薇園にいたのだろう。僕の前で息を整えているヒロからほのかな薔薇の香りがする。ベンチの真後ろで咲いている金木犀の香りと混じる。僕は腰を浮かせて横にいざった。座ったヒロは脚をぶらぶらさせて横目で僕を窺うように見つめた。
「待たせてごめん」
「全然待ってないよ。僕もさっき来たところ」
これは嘘で本当は少し、いや、だいぶ待ったかもしれない。でも、ヒロを待つ時間は苦痛でもなんでもなかった。今日はどんな話をしてどんなレッスンをしてどんな歌を歌おう。そればかりを考えていた。この瞬間を想いながら五線譜にシャープペンシルで書いて四小節分のメロディーを早く披露したくてたまらなかった。
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