告白 冷たく澄んだ空気が頬に刺さる。目を開ければ、カーテンの隙間から弱々しく青白い陽の光が覗いていた。温い毛布を引き剥がす作業は誰だって苦痛だろうけど、俺も例に漏れず苦手だった。洗面台で顔を洗って、制服に着替える。この制服を着るのもあと一ヶ月だ。
リビングに向かうと、父が既にテレビでニュースを流しながら新聞を読んでいた。
「おはよう」
キッチンに向かい、既に沸かしてあるお湯で珈琲を淹れる。温かい湯気と一緒に珈琲の香りが鼻を刺激して、少しだけ虚ろだった目が冴える。何となく流れているニュースを流し見しながら、登校時間を待った。
「おはよう、羽風先輩。」
学校に着くと、背後から既に聞き馴染んだ声がした。男だったら、誰でも一緒だけど。この声だけは、俺にとって特別なものに変わっていた。
「アドニスくん、おはよう。」
既に部活のユニフォームを着て、汗を流している。少し前の俺だったら暑苦しいって、無視してたかも。
「朝からお疲れ様。寒いし、風邪ひかないようにね。まあ大丈夫だとは思うけど。」
「ありがとう。」
アドニスくんの柔らかい笑顔に、ついつられて顔が緩んでしまう。ああ、もしかしたら今変な笑顔だったかも?気が緩んだ間抜けな顔、アドニスくんに引かれてたら嫌だな。そんな事でどうこう思う子ではないのは分かってるんだけれど。
「随分と腑抜けておるのう。しゃきっとせいよ。」
放課後、日直の俺しか残っていない教室にズカズカと入り込んできたおじいちゃん。黒板の掃除をしながら、適当に相手をする。
「何?嫌味を言いに来ただけなら帰ってよ。レッスンならちゃんと顔出すつもりだし。最近はずっと真面目にやってるでしょ。」
「最近やけに浮き足立っているようじゃ、気が抜けたように顔が緩んでおる時もある。我輩の勘違いか?」
「…」
「アドニスくんの事じゃろう。」
「なっ、何言って…え?」
手に持っていた黒板消しを落として、床と上履きが粉まみれになる。こんな反応、どんな馬鹿だって図星って気付く。我ながら滑稽だった。
「ククク、そんな分かりやすい反応をするとは思わなかったのう。」
この人に、隠し事なんて出来ない。なぜか全部お見通しなんだ。結構腹が立つけど、仕方ない。
俺は、アドニスくんが好き。理由とか、きっかけとか、そういうのは分からない。人を本気で好きになるって、正直ピンとこなかった。でも、全部全部、アドニスくんが教えてくれた。嫉妬に塗れた愛情とか、独占欲に支配された愛情。多分俺はそういったものを持ち合わせてる。あの、純粋無垢で真っさらな彼に、インクを一滴垂らしただけでその色に染まりそうな彼に。俺の愛を明け透けに見せることができたら、どんなに幸せだろうか。アドニスくんなら、きっと全て受け入れて、抱きしめてくれるんだろう。心に空いた穴さえ、埋めてくれるんだろう。
「告白してしまえばよいのに。」
「そんな簡単に言わないで。あ…いや、そもそも好きでもないし。男なんて、ましてや暑苦しい筋肉馬鹿なんて…」
「今更隠しても手遅れ。」
「…俺には無理だよ。」
朔間さんが俺を見つめて、少し眉を垂らす。臆病な奴だと馬鹿にしているのかは分からないけれど、貧しい子供を見るような顔だった。
「どうしようもないのう。」
放課後のレッスンが終わり、一口しか残っていないペットボトルの水を手に取る。
「羽風先輩、良ければこれを飲むか?」
アドニスくんからまだ半分以上入ったスポーツドリンクのペットボトルを差し出される。気を使ってくれたんだろう。なんて優しいんだ。この優しさに甘えたいなあ。そう思えたら良かったけれど、突発的な行動に、ついしどろもどろになってしまう。
「そ、そんな。いいって。間接キスになっちゃうし。」
変な言い訳をしてしまって、我ながらダサい。勢いで手に持ってた残りの水を飲み干すと、少しむせてしまった。
「ケホッ…ッ、」
本当に何をしても上手く行かないし、情けない。
「なんか最近変だよな。臭ェ女の臭いもしねえし。もしかして不感症になっちまったか?」
「これ、わんこ。アドニスくんが居るところで変な話するでない。」
「不感症?とはなんだ?羽風先輩は病気にかかってしまったのか?」
「ほれ。わんこが責任もって教えるんじゃ。」
ただでさえ好きな人の目の前でよそよそしくなって、むせちゃって惨めなのに。追い討ちをかけるような晃牙くんのフリ。
「くそ…冗談ってことくらい分かれよ…。あれだよあれ!セックスで何も感じなくなっちまうことだよ。女と遊びまくってる奴は結構あるらしいぜ、そういう事…って俺様に何言わせてんだよ!」
「だから最近女性と遊んでいないのか。」
「アイドルにスキャンダルはいらんからのう。こっちとしても好都合じゃ。」
「もう辞めて、違うから!」
気付いたら少し強めに言ってしまった。適当に笑って流すつもりだったけれど。部屋は静まり返って、皆俺の方を見る。居ても立っても居られない状況に、逃げ出したくなった。
「そ、それじゃあ俺は帰るよ。じゃ、明日ね。」
それだけ言って部屋を後にする。アドニスくんの顔だけは、見れなかった。どうせ可哀想な者を見る顔だったんだろう。情けないし惨めだし、本当に嫌だ。目から、熱い涙が滲んでくる。こぼれないように、奥歯を噛んで耐える。冷たい空気が肌を撫でて、手足を悴ませる。まるで俺の心も一緒に凍っていく様だ。
「羽風先輩!」
遠くの方から、声がする。振り向きたくなくて、そのまま早歩きで校門を抜ける。しかし、気付いた時には真後ろにアドニスくんが立っていた。相変わらず足が速い。
「一緒に帰ってもいいだろうか。」
「やだよ。どうせすぐ道分かれるんだし。」
嘘だよ。本当は一緒に帰りたい。手を繋いで、寄り道なんかしちゃったり。
「街のカフェで新作のパフェがあるんだ。苺とガトーショコラのパフェだそうだ。一緒にどうだ?」
「クラスの子といけば?」
違う、ほんとうは行きたいよ。その新作のパフェ、バレンタイン期間限定のやつだよね。俺も、アドニスくんと行きたいと思ってたんだ。
「本当は明日で、終わってしまうんだ。羽風先輩と一緒に行きたくて、でもなかなか誘う機会がなかった。でも一人で行くのも勇気が出ない。明日は忙しいし、断られてしまったら俺は諦めるしかない。」
そんなんで撒ける筈がないアドニスくんを撒こうと、ずっと早歩きだった足を止める。アドニスくんの方を向くと、冷たさで頬と鼻先を少し赤くしたアドニスくん。
「明日、バレンタインか。」
「そうだ、駄目か?」
沢山の女の子とさよならしたから、気付かなかった。今までだったら、一大イベントだったけど。嫌いになるほどチョコを貰う日。今年は多分、誰からも貰わない。
「いいよ。」
街はピンクや赤のハートがたくさん並んだ装飾が目立つ。男二人でこの道を歩くのは、少し恥ずかしい。カフェもまた、バレンタインの可愛らしい装飾が加えられていた。席に座ってパフェをふたつ、ホットコーヒーをふたつ頼む。
「さっきは怒鳴っちゃってごめんね。びっくりさせちゃったかな。」
「いや、気にしていない。それより大神の方が心配していたな。気に触る事を言ってしまったと。」
サラッと気にしてないと言われて、少し胸が荒んだ。アドニスくんの優しさなんだろうけれど。
「晃牙くんにも明日謝らなきゃな〜。」
「羽風先輩…」
アドニスくんは真っ直ぐ俺を見て、何か言いたそうにしていた。ソワソワした雰囲気が伝わってくる。
「どうしたの?」
「悩みがあったら…俺を頼って欲しい。俺は、羽風先輩の様に経験があるわけではないが、話を聞くくらいなら…出来る。」
もしかして不感症の事なのだろうか?真面目に捉えてしまったのか、相変わらず冗談が通じない。
「ふふ、晃牙くんが言った事、間に受けないでよ。女の子と遊んでないのは、事実だけどね。」
パフェとコーヒーがふたつずつ、机の上に置かれる。パフェに視線を奪われてしまうアドニスくんを見つめる。目をキラキラさせて、喉を鳴らす仕草。女の子でもパフェに対してこんな可愛い反応しないよ。すぐ我に帰った様に、アドニスくんは俺に視線を戻す。
「それならいいんだ。」
暫くパフェを食べる。ガトーショコラと苺の組み合わせは当然最高だった。チョコソースが少しビターで、苺ソースも甘すぎない酸っぱさで食べやすい。目の前で、一生懸命食べているアドニスくんも、当然のように可愛い。
「ほら、口の周りにクリームついてるよ。きれいに食べてね。」
アドニスくんの口元に指を置いて、クリームがついてる肌を撫でる。無意識にやってしまって、後から恥ずかしさが込み上げてきた。
「ありがとう。」
俺の行動に何も感じていなさそうにアドニスくんは残りのパフェを食べていた。それから、卒業のこととか俺のこれからのアイドル活動についてとか、アドニスくんは色々質問してきた。
店を出る頃には、すっかり外は暗くなっていた。2月といってもまだ夜ははやい。キラキラした可愛らしい装飾の道をもう一度アドニスくんと並んで通る。
「何故、最近女性と遊んでいないんだ。」
突然、脈略もなくそんな話をふられて、驚く。アドニスくんの顔を見てみると、街灯に照らされていて、瞳は潤んでいる様に見えた。
「知りたい…俺が気にするのもおかしいかもしれないが…。」
「えっと…。」
「苦しそうで、最近は特に…」
アドニスくんは、決して俺から目を離そうとしない。此処で、この視線から逃げたら駄目な気がした。脈を打つ鼓動が強くなって、痛くて、頭が揺れる。
「女性と一緒にいる羽風先輩は苦手だ…だが、苦しそうな貴方は…もっと嫌だ。」
アドニスくんはそんな風に、思ってたんだ。軟派な俺は、もういないのに。
「好きな人がいる…それだけだよ。」
「羽風先輩…」
小さな唇が、俺の名前を呼ぶ。慈愛に満ちたアドニスくんの顔も、どこか切なく、俺を見つめる。俺の勘違いなんだろう。好きなんて、伝えるつもりなかった。でも、今がその時な気がした。しなきゃ全てが終わる気がした。
「アドニスくん…」
もう既に街並みを抜け、街灯しか灯のない暗い道まで来ていた。此処の信号を渡ったら、アドニスくんと俺は分かれる。足を止めて、アドニスくんと向き合う。最近は本当に自分らしくなくて、何をしてもうまくいかなかった。でも、今ならきっと大丈夫…
カーテンから青白い光が弱々しく差し込む。朝は、容赦なく俺を出迎える。いつもの様に、顔を洗う。パジャマのまま、いつものようにキッチンで珈琲をマグカップに注いでいると、普段あまり話さない父は、俺の方は向かず新聞を読みながら口を開く。
「何かあったら、言いなさい。」
今日ほど学校が嫌な日はない。本当は休む気でいたけど、父の一言で逆に行かざるをえなくなった。
「おはよう…って、薫ちん、目が腫れてるりょ!」
「なずなくん〜おはよう…」
「どうしたんだ?」
「ちょっとね…あんまり触れないでくれると助かるな。」
クラスメイトにも何人かに声をかけられる。腫れ上がった瞼は、誰が見ても滑稽だし、アイドルとしては致命的だ。今写真とか撮られたら、本当に黒歴史になる。
放課後、誰もいない教室に残っていると、誰からか聞きつけたのか。朔間さんがニヤニヤしながら教室に入ってきた。
「どれどれ、薫くんが蜂に刺されたと聞いてのう。見舞いに来てやったぞい。」
「冷やかしに来たならやめてよ。本当に嫌なんだから。」
「まあ冷やかしには来たぞい。ほれ、氷嚢。」
ひらひらと手に持ってる氷嚢を、ニヤニヤと俺に見せつけてくる。手渡され、近くの椅子に座りながら瞼に当てる。
「ありがと…」
「何かあったのかえ?」
「…」
「過去の女性達に集団復讐されてるとか?」
「違う…俺、昨日アドニスくんに、告白したんだよ…」
「そうか振られたのか。」
「違う!OKだったの!朔間さんの愛しの我が子は俺がもらったから!残念だったねー!」
「情緒がおかしいのう。」
「…アドニスくん、ずっと俺のこと好きだったって。出逢ってからずっと…俺、最初の頃はアドニスくんに酷いことばっか言ってたから…自分が嫌になっちゃって…ずっと、好きでいてくれてたのに、傷付けてたんだって…昨日までそのことに気付かなかった俺も…全部嫌だ。」
「それで一人おうちで泣いておったと…」
「我ながら…ダサいなあ…」
目を瞑って、氷嚢の冷たさがじんわりと目の奥まで染み込む。
「火に油をさすようで申し訳ないが、アドニスくんの好意は我輩も気づいておったよ。わんこは多分…気付いておらんが。」
「何でもっとはやく教えてくれなかったの?あ〜でも、朔間さんに借りなんて作りたくないし…」
「そもそもお主がアドニスくんを好きと認めるのが遅い。」
そんなの、易々と認めれるわけがない。男なんてゲロゲロって言っていた奴が、いきなり男を好きになるなんて。自分でも理解できないのに。
「噂をすれば何とやら…我輩はこの辺でお暇するぞい。」
「何が?」
目を瞑って氷嚢を瞼に当てたままだったから、朔間さんがそのままどっかに行ってしまう音だけ聞こえた。同時に、俺に近づく足音が聞こえる。急いで目を開けて正面を向くと、アドニスくんが心配そうに俺を見ていた。
「っ?!アドニスくん!!こ、こんな所で、奇遇だね??」
今のこの不細工な顔、一番見られたくない人に見られてしまった。遅いと分かっていても、少し顔を横に逸らす。
「朔間先輩に呼ばれて…」
ああ、本当に最悪。
「ごめんね、今ちょっと顔の調子悪くて…また明日、話そう。」
「…やはり、俺は変な事を言ってしまったんだな…」
「え?」
「羽風先輩に好きと言ってもらえて、嬉しくなってしまって、つい出逢った頃から好きだったと、重いことを言ってしまった。嫌だったなら、忘れて欲しい。」
「ちがっ…」
「以前、重い女性は苦手だと言っていたのを思い出して、後悔していたんだ…すまない」
「嫌なわけない…嬉しすぎて、アドニスくんの好意を踏み躙ってた自分が情けなくて…だから、アドニスくんは謝らないで。」
もう、こんな顔で、情けない所も見せて、全てがどうでもよくなってしまった。昨日の様に格好なんてつけずに、ありのままをぶつけてやる。そんな投げやりな状態だった。俺は余裕のある男でも心の広い優しい男でもないんだって。孤独が嫌いな、ただの子供なんだ。こんな俺を知ったら、幻滅する。手に持っていた氷嚢を強く握って、水滴がポタポタと垂れる。
「アドニスくんが好きだよ。笑った顔も拗ねた顔も困った顔も照れた顔も全部全部好き。その優しい声も好き。好きすぎてたまらないんだよ。本当は全部俺にしか見せて欲しくないんだから。でも俺のものでもないから、指を咥えて見てるしかなかったんだから。俺以外に向ける笑顔が憎いくらい、それくらいアドニスくんが愛おしいんだよ。重いって、俺の方がずっと重いし、嫌いになっても今更逃してあげられないから。」
つらつらと言葉にしてしまう。溢れた気持ちがなだれ込む様に。
「嫌いになんてならない。」
「…本当?」
「羽風先輩がずっと好きだ。」
「薫って呼んで…」
我ながら我儘を言う子供の様だ。
「薫が…好きだ…」
恥じらう様にそう言うアドニスくんがたまらなく可愛くて、胸の奥がチリチリと鳴る。
「もう一回…」
「薫が好き…」
アドニスくんを抱きしめる。昨日は勇気が出なくて、駄目だったけど、ずっとずっとこうしたかった。温かいアドニスくんの体温がじんわりと染み込んだ。
「俺も、アドニスくんが好き…」
泣き腫らした目から、また涙が溢れる。瞼が涙で滲みて、少し痛い。アドニスくんに泣き顔なんて見せれないのに、どうしようもなく止まらない。
「好きだよ。」
「俺も…好きだ。」
お互い気持ちを確かめ合う様に、呟く。『好き』の二文字だけで、どうしようもなく愛おしくて、胸が幸せで溢れる。暫く、アドニスくんの温かさに甘えていた。
「みっともない所、見せてごめんね。」
「俺は嬉しい…俺だけしか知らない…薫が見れた。」
「皆の前でも薫って呼んで…」
「それは…やめておく。」
「だよね…」
名残惜しくも、抱きしめた身体を離した。もう、俺のアドニスくんなのに、離れるのが怖いとさえ感じる。目があって、全身がむず痒さに襲われる。本当は物足りない。もっと、もっと欲しい。
「そういえば、薫に渡したいものがあって、ちょっと待っていてくれ。」
アドニスくんは自分の鞄から何かを探しだす。彼の手にあったのは、黄色のリボンでラッピングされた小包だった。
「なあにそれ。俺にくれるの?」
「ああ、バレンタインチョコだが…」
「え!うそ…嬉しい、本当幸せすぎてどうにかなりそう…」
「薫は毎年沢山貰うと聞いたから、少し迷っていたんだが…手作りならば唯一無二のものが出来るかと思った。『本命チョコ』というやつだ。」
「手作りなの?!凄い!開けていい?」
恥ずかしそうにコクリと首を縦に振ったアドニスくんを確認して、黄色のリボンを解く。中にはドライフルーツやナッツが入ったタブレットだった。アドニスくんにしては、やけにおしゃれで少し驚いてしまう。
「流石に一人では無理だったから、姉に教わりながら作った。」
「食べていい?」
「…ああ。」
一口かじる。美味しくて、もう一口、一口と口に運ぶ。
「美味しいよ!最高、アドニスくん。」
「それならよかった。」
少し緊張していたのか、肩を落として大きく息を吐いていた。柔らかく笑って、俺を見つめてくれる。アドニスくんにチョコを差し出してみると、少し戸惑いながらもパキッと一口かじった。小さな口をもぐもぐさせて、こんなに大きいのに、まるで小動物にも見えてしまうのは不思議だ。
「キス、したいかも。」
「キス?」
「え、あ…。」
あまりに無意識な発言に、自分でも驚いてしまった。突然の事にびっくりしたのか、アドニスくんも固まってしまっていた。
「キス、したいなぁなんて!まあ別にいつでもいいんだけど!ほら、アドニスくんにも心の準備とかあるし!?うん。」
「…しないのか?」
「へ?」
予想外の返事に、間抜けな声を出してしまう。キス、していいの?付き合って間もないのに?アドニスくんのお姉様方に絞められないかな。でも、ただでさえアドニスくんに対してかっこいい所見せれてないし、ここでしておかないと、本当にずっと出来ないままな気がする。
「したい…」
3年間通った教室で、好きな人とキスだなんて。ベタな少女漫画みたいだ。今後この教室にくる度に、今日の事を思い出してしまう。残り数日しか来ないけれど、それでもこんなに胸がドキドキする事って…今までなかった。アドニスくんが教えてくれたんだ。一歩前に出て、アドニスくんの唇に触れる。はじめてのアドニスくんの唇は柔らかくて、心地いい、チョコの甘い香り。両手のやり場に困って、アドニスくんの両腕を掴む。今まで、女の子にはどうしてたかなんて、思い出せない。このキスが、きっと俺にとって初めての思い出になる。今までが無かったことになる訳じゃないけど、『特別』なのは間違いなかった。
腕を掴んでいた手は、するりと上に登り肩に乗せて、首元に添える。もっと欲しいよ。俺のどうしようもないこの思いに、答えて欲しい。アドニスくん。
「ふはっ…」
唇を重ねている間、息を止めていたのか飛び跳ねる様に離れるアドニスくん。
「息…止めないで。鼻で呼吸するんだよ。」
「分からなっ…」
「じゃあもう一回…しよっか」
離れた身体を引き寄せて、またゆっくりと想いを重ねる。
教室の窓から吹く風は、まだ肌寒い、それでも冬の終わりを告げる様な優しい風だった。