旅の夜 2 ◇
いつからから、抱擁を解いた空っぽの両手には淋しさと名残惜しさが染みついていた。次はいつ、とも確約の取れない関係だから、部屋に残るケンジの残り香が切なかった。
帰したくない、ずっと抱き締めていられたなら……と、零次はもう何度願ったかわからない。
けれど、今夜は違う。
制約も誰の目も気にせず、この隔離された密室でケンジを独占できるのだ。
語らいながら見つめあったり、飽くまで抱き締めあったり、いつもはできない恋人らしい触れあいが、今夜ならできる。
朝までのタイムリミットを心得た一方で、零次にはこの一夜が洋々と広がる時のようにも思えた。
「なんて豪勢な部屋なんだろう……スイートなんて初めて泊まるよ、僕」
「俺もだよ」
贅を凝らした室内に、自然と二人の表情も明るく晴れる。先ほど抱きしめ合った時の悲痛さは消えて、指先を繋いで室内を見て回る二人の足取りも軽かった。
大きなベッドの並ぶ寝室も落ち着いた照度に包まれて、あまりのムードの良さに否応なくその時を期待してしまう。
さすがのケンジも意識しているのか、きれいな潤みを帯びた瞳がそわそわと零次を見上げた。
「あの……レイ君。汗も流したいし、ひとまず一緒にお風呂に入ろうよ」
「えっ!?一緒に……!?」
「うん、一緒に……。お風呂も素敵だったし、せっかくだから一緒に入りたいなって」
普段できないことをしたいと思っていたのはケンジも同じだったようで、胸を躍らせる笑顔が温泉をひいた贅沢な内風呂を指差した。
飾ることも身構えることもしない、零次を信頼しきった屈託のない誘いがただただ嬉しい。
こ、これは訓練後にザッと浴びる個室でのシャワーとは訳が違う……!
「あっ、ああっ!ケンさん……!一緒に入ろう……!」
念願だったケンジと浸かる日本のお風呂が、こんなに最高のロケーションのもとで叶うなんて……!
神様、どうもありがとう……!
思わず心でつぶやいて、感極まる零次はグッ!とこぶしを握った。
浴槽の框に檜の香る浴室は、洗い場に天然の石を敷いた小さな温泉場そのものだった。
「レイ君、早く早く!」
あっけらかんと裸になり、先にケンジが浴室に飛び込む。前だけはタオルで隠しているものの、興奮を抑えきれないまるで子供の無邪気さに、後に続く零次の頬もユルんでしまう。
「ケンさん、はしゃいだら危ないよ」
「大丈夫!あ、ほら……お湯、なめらかで気持ちいいよ。弱アルカリ性の泉質って言ってたよね」
たっぷりとお湯をたたえてほの白くかすむ湯面を、パシャパシャと叩いてケンジが頬笑む。
「この辺りの温泉は、美肌の湯で有名なんだよ。ここも人気の宿だし……なんにせよ、こんな部屋に泊まれるのは役得だな」
「うん、僕もそう思う!」
零次はケンジに倣って隣にしゃがみ、湯面で跳ねる指の戯れに見惚れて訊いた。
「ケンさん家は、みんなで温泉に行ったりしないの?」
「うーん、そういえばうちは行かないなあ……。今のところ、休みの日は風佳のリクエストで、遊園地に行くことが多いかな」
「ふふっ、そうか……。安ちゃんもじきに喋り出したら、また賑やかになりそうだな、ケンさん家」
「うん……。二人とも絵本が好きでね、夜になると、風佳が安に読み聞かせしてるよ」
「フーちゃんも、すっかりお姉さんだ。きっと、仲のいい姉妹になるよ」
「ふふっ、そうだといいな。ありがとう、レイ君」
愛しさの赴くまま笑いあい、充分にほぐれた心をたわいない会話で近づけあう。
照明の揺らぐ湯面を映す瞳が、にっこり零次を見つめた。
「やっぱり、レイ君とお風呂に入れて、よかった」
「……」
「いつもより、レイ君を近くに感じるから」
「……かわいい」
「え……?」
「ケンさんが、かわいい……」
零次も無意識のうちに、止めどない気持ちが唇を突いて溢れ出た。今年三六になったケンジは、零次の「可愛い」に全身を真っ赤にして反論した。
「カッ、カワイイ訳ないよ!オジサンなのに!恥ずかしいし、いたたまれないよ」
「年齢なんて関係ないよ。
ケンさんは、俺には最高に可愛いひとだよ」
懲りずに本心をたたみかけると、うろうろと視線をさまよわせたケンジが弱々しい声で言った。
「また……レイ君のが年下のくせに。
僕のこと、からかってばっかりだし」
「からかってなんかないよ。
怒らないで、ケンさん」
「…………ん、もう、怒ってないよ」
笑ってもムクれても、どんな表情のケンジもどこかコケティッシュで実に可愛い。
じっと見ていると、スッと切れ込んだきれいな奥二重の瞳に吸い込まれてしまいそうになる。
この数年ずっと見続けてきた彼の中に新たな魅力の種を見つけて、零次はよみがえる胸のときめきに少し震えた。
バスチェアを並べた石の床は光沢を放ち、腰を下ろす二人の影をおぼろに映し込んだ。
二人の目の前には長方形の姿見がある。磨きあげられた鏡面は曇り止めの加工がなされ、タオルを剥いだ無防備なケンジを余すことなく映し出した。
クリアな鏡の中で目が合うのは双方に気恥ずかしくなりそうだ。零次は極力、鏡から視線を外すことにした。
アメニティのシャンプーで頭をしっかりと洗い立て、なめらかなリンスを洗い流す頃には、二人の髪の毛に艶やかな輪っかができた。
整髪料を落とした素顔で見つめあうと、たまらないと言うふうにケンジが笑みをこぼした。
「レイ君ってさ、髪の毛を撫でつけてないと、途端に顔が幼くなるよね」
「……」
まさか、それをケンジに指摘されるとは……。
「いやいやいやいや、ケンさんも大概だからな」
俺よりもよっぽど童顔のくせに……。
オールバックをほどいたケンジを初めて見たとき、容姿のまとう学生のような雰囲気にひどく感動したものだ。純粋に、自分が好きになったひとは可愛いのだと思った。
前髪をひとすじ垂らしたトレードマークの髪型も好きだけれど、二人きりのときに見せてくれる、素のままのナチュラルな黒髪姿はもっと好きだ。
梳くように撫でたり、口づけたり、今夜は存分に彼の黒髪を愛でられる、そう思うと胸が至福に高鳴った。
「心外だなあ、僕は年相応だよ。レイ君、頭の次は身体を洗うよ。タオルはしっかり泡立てようね」
ソープの入ったディスペンサーを傍らに引き寄せ、いたずらっぽく目を細めるケンジがボディタオルを零次によこす。
「あー!ケンさん、今、俺のこと子供扱いした……」
こう見えても、零次は二歳の歳の差を気にするデリケートな一面も持っている。眉をひそめぶすくれた顔を作る零次は、それでも差し出された手から素直にタオルを受け取った。
ごめんね、と笑うケンジを横目に、ディスペンサーからタオル目がけてソープを押し出す。片手でタオルを揉むと、すぐにきめ細やかな泡が立った。
また、これは……。
ボディソープはシャンプーよりも、より濃密に、熟れた果実の甘い匂いがした。
「いい匂いなんだけど……ほら、言い方はあれだけど、柔軟剤の甘すぎる香り、みたいな」
すらっと伸ばした腕から上半身にタオルをすべらせてケンジがつぶやく。零次もわかるわかると相槌を打った。
「俺もたまにやっちまうからな、柔軟剤の入れすぎで、洗濯物が甘ったるくなっちまうの……。まあ、あっちだとみんな香水がきつめだから、さほど気にはならないけどね」
「ふふっ。そういえば、レイ君のブルースーツ、たまに甘い匂いしてるよね。僕は好きだけど、あの匂い」
「なっ!……うん……アリガト」
春色の砂糖菓子がほどけるような優しい笑顔を向けられ、ドキンと心臓が跳ねあがる。
きっとケンジは無自覚だろうが、こんなに煽られては風呂を出るまで身がもたない。さんさんと好意をちりばめた言動で、どれだけ零次を有頂天にさせれば気がすむのだろう。
そうでなくても、充満する風呂場の熱気で身体が熱い。密室の甘やかな閉塞感がやんわり首に巻きつくようで、零次は逃した視線の先で、つい鏡越しのケンジを見てしまった。
「!」
案の定、鏡の中でバッチリ視線がかち合ってしまう。どうやら、彼は彼で零次の動向を気にしていたようだ。
その理由はすぐにわかった。
「レイ君……。恥ずかしいから、ちょっとのあいだ、こっち見ないでくれる……?」
「……ハイ」
ばつが悪そうに赤面するケンジに鏡の中で釘を刺され、そっと背を向ける零次もみずからの股間を念入りに洗った。
愛しあう準備のための面はゆい沈黙のあと、じゃあ、とケンジが立ちあがった。
「レイ君。背中、こすってあげる」
「い、いいの?」
「もちろん!たまにはバディ孝行しなくちゃね」
親愛のこもった柔らかな口ぶりで、ケンジが零次の背後に回る。観念する零次は彼が洗いやすいように、肩を内側に丸めてうつむいた。
「レイ君の背中、とってもきれいだよね。理想的な筋肉がついてるし、肩甲骨のかたちも、ギリシャの彫刻みたい。あの、白いやつ……わかる?」
ほどよい力加減で上から下へとタオルをすべらせ、うっとり歌うようにケンジが言う。
火照る顔をうつむけてその声を聞く零次は、のびのびと背中を縦断する甘美な刺激に、必死で自我を繋ぎ止めていた。
や、やばい、勃つ……!
もはやケンジに何をどう褒められても、上の空でしか応えられない。
背中をこする行為が思慕からくる触れあいでも、ケンジがもたらす刺激というだけで勝手に身体が燃えあがってしまう。ケンジに点けられた小さな炎は、衝動という名の導火線を焦がしながら、背面から全身を駆け抜けた。
「どう?レイ君、もっと強くしたほうがいい?」
「!」
不意に、背後のケンジが肩越しに零次を覗き込んだ。
吐息とともに耳朶に吹きかかるのは、遠慮がちにくぐもる優しい声。間近に迫った唇に息を飲んだ零次をよそに、ケンジは大胆な両腕を零次の首筋に巻きつけた。
「ケ、ケンさ……」
骨張った温もりが隙間なく密着して、一気に花の匂いが強くなる。
背中から抱き着かれたのだと気づいたとき、うるさく早鐘を打つ鼓動がどちらのものかわからなくなった。
「レイ君……ちょっと勃ってる……」
ケンジは静かに主張する零次自身を認めて、どこか安堵したように微笑した。
「よかった、興奮してるの、僕だけじゃなかった」
「……ケンさん、——」
唇を突いた声が上擦ったのは、ひときわ高い熱を腰のあたりに感じたからだ。
ケンジもまた、どうしようもない昂りに翻弄されている。
好きだよ、と恐る恐る開いた唇に耳朶をはまれ、欲望を戒めていた零次の理性がぷつッと音を立てて弾け飛んだ。