旅の夜 最終話 ◇
ひたすらに求めあったあと、二人は広々とした浴槽の中で熱っぽい余韻に浸った。ひたひたと肩まで浸かる湯は心地よく、まったりとした肌馴染みのよさに疲れの溜まった四肢がほぐれる。
ケンジを背中から抱き締めた零次は、その耳許でこしょこしょと甘い睦言を囁いた。「可愛い」と「愛してる」を繰り返し、ほてりきったケンジの身体を耳朶をはみつつ愛でていく。
「んー、んー……くすぐったいよ、レイ君、ホントにのぼせちゃうから……」
初めはくすくす笑って身をよじるだけのケンジだったが、強烈な快感にさらされ何度も達ってしまったせいか、ついに零次の腕の中でくったりと伸びてしまった。
このとき、体力に自信のある零次はすっかり失念していた。愛しすぎて無理をさせてしまったが、この数日間のタイトなスケジュールは身体に堪えて当然だ。
疲労がたたりすっかりのぼせたケンジを脱衣場へ運び、零次はひどい狼狽ぶりで介抱に奔走した。
「すまない、ケンさん!頭痛い?吐き気は?」
真っ青になりながら、零次はケンジの濡れた身体を手早く拭いた。備えつけのバスローブを羽織らせたあと、冷蔵庫の冷えたミネラルウォーターを飲ませ、しっかりと体内の熱を冷ましてやる。
少し気分が落ち着いたのか、ケンジは脱衣場に置かれた籐製のイスに腰掛けて、心配顔でかたわらにしゃがむ零次に頬笑んだ。
「もう大丈夫……ごめんね、レイ君……」
せっかくのいいムードを壊してしまったと、ケンジはすまなさそうに謝った。
「いや、ケンさんは悪くない。無理を強いたのは俺だから……」
慌ててケンジをフォローして、零次はケンジののぼせが治まるまで、資料の小冊子でゆるく首元を仰いでやった。絞った濡れタオルを持たせると、ケンジは気持ちがいいと言って、上気した頬や首の後ろに当てていた。
ケンジのために何かしてやりたいと、そわそわと気を揉む零次は濡れた黒髪に目をやった。
「ケンさん、ドライヤーかけようか」
「うん。お願いしようかな……」
尽くされて照れくさがるケンジが、肩を竦めてふふっと頬笑む。
聡明な眼差しはいつもと同じ優しさを湛えて、零次をほっと安堵させた。
ドライヤーを操る甲斐甲斐しさに甘えるケンジは、髪の毛をそよがせる温風と、時折地肌に触れる指の感触に気持ちよさそうに目を細めた。
時計の針は零時を少し回っていた。眠る支度を整えて、二人は窓辺のソファに寄り添って座った。
暗い夜空に煌々と浮かぶ半月は、眠りに就いた汽水湖の上空でゆったりと軌道を傾けている。なんとも言えず神々しく、すべてを包み込む慈悲深い色合いの月だった。
今、あの場所には盟友がいる。
零次とケンジは六太が月に発ったその日から、ある種の誇らしさを共有している。これまでも、ことあるごとに揃って月を見あげてきた。そのたび六太の活躍を慕わしく思い描き、今度は自分達が飛び立つ番だと、来たるべきその日に思いを馳せた。
いつでも最善と自由の振るまいの中にいる六太は、零次とケンジの希望、そのものだった。
月を見守る心地よい沈黙——それは宇宙への憧憬を抱く二人だからこその、心の通いあった沈黙だった。
「……今夜の月もきれいだね」
おもむろに、ケンジが静かに口を開いた。
昔聞いた偉人の逸話を思い出す零次は、それは少々うぬぼれがすぎると、浮かれる心を自制して答えた。
「あぁ、きれいだな……」
吐息交じりのつぶやきで抱き寄せた身体は、まだいくらか熱が滞留している。
ケンジは上半身を零次にもたせかけ、硬く厚みのある肩に頭を預けた。
薄明るい照明に包まれる室内が、暗闇を投影する窓ガラスにうっすら映る。暗い鏡面の中で寄り添う自分達を見つめ、ケンジは自慢の親友のことを誇らしげに語った。
「今、あそこにムッ君と日々人君がいると思うと、本当に不思議な気持ちになるよね。すごく遠い場所なのに、月にいる〝兄弟〟たちのおかげで、月に対してとっても親近感が湧いてくるというか」
嬉しそうに肩に甘えてくるケンジに、零次もくすぐったさを堪えて相槌を打った。
「そうだな。あれはホントに南波らしいと思ったよ。俺たちも紆余曲折、大変なことだらけだったけど、南波兄弟も試練の連続だったろうからな。
俺はこう見えても、日々人さんのことも含めて、南波のこと尊敬してるんだ」
「知ってるよ。僕も同じ……」
同調するまろい声とともに、肩口からまっすぐな瞳が零次を見あげた。冴えた覇気を放ちながらも、失望や焦燥の哀しみも心得た、優しさに満ちた眼差しだった。
「ムッ君だから、あの日『行ってらっしゃい』って、心から叫べたんだよね、僕ら」
「あぁ……」
頷く零次の脳裏にも、六太が月へ発つ前に、ケンジと二人で送り出したあの日の記憶がよみがえる。
あのとき胸を占めていたのは、月へ赴く同期への底なしの誇らしさと、無事に地球を発って欲しいという切なる願いだけだった。
「南波のやつ……一番乗りで月行きまで決めて、めちゃくちゃ羨ましいんだけど、なんかコレ、嫉妬とも違う感覚っていうか……ケンさんならわかると思うけど」
「うん、わかるよ。月行きも、ムッ君だからってなんか納得しちゃうんだよね。実際、ムッ君はできる男だから、文句なしに自慢の同期なんだけどね」
ふふっと、本当に嬉しそうにケンジが頬笑む。
いやいや、前から思ってたけど、ケンさんて、心底南波のこと大好きだよなぁ……。
ルナランダーの一件だって、画面越しで、二人にしかわからない合言葉で握手とかしちゃうし。
零次は自分とはまた違う、確かな絆で繋がったケンジと六太の関係に、ちょっとだけジェラシーを覚えてしまった。
さっき六太には嫉妬しないと言ったけれど、前言撤回——ケンジにまつわることには、素直に嫉妬してしまう。零次はボロの出た自分自身に、仕方ねえなとちょっとだけ笑った。
「レイ君、今さらだけど……」
ふいに、ケンジが肩に回した右手を掴んだ。熱っぽさを宿す痩せた指が、戯れるように零次の右手のひらに搦みつく。
零次もきゅっと指を握り返して、ケンジへと首を傾けた。
「なぁに?ケンさん。そんなにかしこまってどうしたの?」
無意識のデレが顔を出し、まるで小さな子供をあやすような口調になってしまった……。
二人きりで過ごす夜がやっぱり嬉しくて、どうしてもケンジを甘やかしたい衝動に駆られてしまう。さいわいなことに、ケンジも甘い顔の零次をくすぐったそうに受け入れてくれた。
ケンジは頭をもたげて、涙の余韻が残る赤い目許を柔らかくほころばせた。はらはらと落ちた前髪が額を覆う、どこか幼さの香る可愛らしい頬笑みだった。
「本当に、今さらなんだけど……。
僕のパートナーでいてくれて、ありがとう」
「……」
「月を諦めなきゃいけなかった時、一人じゃすごく苦しかった……。でも、レイ君がいたから乗り越えられた」
月への道が断たれた二年前、人生の岐路に立つ零次とケンジはまさに逆境の中にいた。結果的に揃ってスウェッツのメンバー入りが叶ったが、この二年、二人には二人にしか知り得ないたくさんの苦難があった。
「レイ君がいつも側で支えてくれたから、僕らの道は拓けたんだと思う」
「そ、それは俺のせりふだよ、ケンさん」
衒いない心の声が胸に沁みて、思わず言葉に詰まってしまう。
零次がケンジを代わりのいないパートナーだと思っているように、ケンジも零次をかけがえのない存在だと思ってくれている。相思相愛にも匹敵するこれほど幸福なことは、ほかにないように思えた。
思えば地球の重力を振り切って命がけで宇宙へ飛び立つのだから、夫婦よりも、なお強い絆で結ばれた運命共同体と呼んでも過言ではないのかもしれない——。
それも、大切に育んできた夢を叶えあえる、唯一無二のパートナー。
「ありがとうを言うのは、俺のほうだよ。
ケンさんには感謝しかないんだ、本当に」
感謝の言葉を口に出すと、声まで潤みを帯びてしまう。でも、それももう隠さない。ケンジを思うと涙ぐむ、こんな一途さを秘めたまま、ひたむきに彼を愛していきたい。
零次は空いている左手でケンジの丸い頬に触れた。
頬に五感を傾けるように、ケンジがそっと目蓋を伏せる。耳にかかる彼の髪の毛を優しく梳くと、まぶしそうに開いた瞳が澄んだきらめきで零次を見た。
「ねぇ、レイ君。お互いに褒めあって、ありがとうって言いあえて……ほら、たまには白熱の議論もするでしょ?
僕らって、最高のパートナーだね」
「あぁ、そうだな」
尊敬、親愛、心酔、渇望——ケンジへの最愛を構築するさまざまな感情が、零次の中でひとつに融けあい大きな波をかたち作る。ゆっくりと波が引いて残ったものは、とても純度の高い愛おしさ。それは彼を想うたったひとつの源流だった。
眠気が訪れるまでの、穏やかで静かなこんなひととき。睦言のように交わしあう短い会話は、じきにケンジにゆるい睡魔を運んだ。飲み込みきれずに漏れたあくびを、ケンジはごめんと謝った。
「まだまだ夜は長いのに、眠っちゃったらもったいないよね……。僕、さっきものぼせてムードを壊しちゃったし」
ケンジはすまなさそうに太い眉を歪めて、眠気を追い払うように零次から身体を離した。
離れてしまった体温を惜しむ零次は、すぐにかたわらのクッションを手に取った。迷わずそれを腿に置き、肌触りのいい布地をぽんぽんと叩いて笑う。
「おいで、ケンさん。ここ、ここ」
「えっ」
クッションに頭を置いて横になるように促す零次に、照れるケンジの顔面が瞬時に赤く染まる。
「で、でも、レイ君に膝枕なんてしてもらったら、僕ゼッタイに寝ると思うよ……!僕が寝たら、レイ君、淋しくならない?
まだまだその、寝るには早いかもだし……っ」
恥ずかしいのか早口でまくし立てるケンジへ、零次は腕を差し伸べてクスッと頰笑んだ。
「俺はケンさんと、こうして一緒に過ごせるだけで満足だよ。もしもケンさんが寝落ちしたら、お姫さまだっこでベッドまで運ぶから、心配せずに眠っていいよ」
「ええっ……それは、ちょっと……」
「丁重に、慎重に、宝物みたいに大切に運ぶから」
「ああ〜もう、レイ君……!僕をそんなにときめかせてどうするつもり?もうなんにも出ないから!」
両手で赤い顔を覆い隠したケンジの頭を、零次は大きな手のひらで優しく撫でた。深い黒が艶めきあう彼の猫っ毛が、さらさらと指の間をほどけていく。
恋焦がれた黒髪に胸を震わせる零次は、怖々と指の覆いから顔を出したケンジに軽快に笑いかけた。
「いいじゃん、ケンさん。これでもかってくらい、今夜はとことん俺に甘えてよ」
零次だって、今晩は飽くまでケンジの寝顔を眺めてみたい。これから先の独り寝の侘しさも、今晩の至福の記憶が慰めてくれそうな気がするのだ。だからせめて、夜が明けるまではこの腕の中でケンジを独占していたい。
ケンジは髪を梳く零次としばし見つめあったあと、愛される喜びを受け入れるように、はにかんだ笑顔を見せた。
「わかった、今夜はレイ君に甘えさせてもらうよ」
「そうこなくっちゃ」
零次の願いを汲むケンジは、ゆっくりとクッションに頭を据えた。クッション越しの膝枕は想像以上に幸福度が高く、恋人同士らしい触れあいにどちらともなく笑みがこぼれた。
俯く零次と見あげるケンジと、自然と搦みあう視線となごやかに交わす頰笑みの時間が、とても居心地がよくて尊かった。
思う存分しなやかな黒髪を愛撫する零次を、うっとりと潤んだ瞳が見あげて言った。
「ねえ、レイ君。明日は湖の周辺を散策しない?飛行機の時間までだけど……」
「いいねぇ、俺もそうしたいって思ってたよ」
言えずにいた望みをそっくりそのままケンジに提案されて、デートが叶う喜びに零次の胸がきゅんと高鳴る。
こころよく頷いた零次に、ケンジがはっと目を瞠る。即答でOKされるとは思わなかったのか、すぐにケンジは晴れやかに表情を輝かせた。浴室で見せてくれたみだらさが嘘のような、純朴で庇護欲をくすぐる笑顔だった。
「よかったぁ。じゃあ明日は、湖の周りをぐる〜っと歩いて、みんなにお土産を買って、おいしい名物料理を食べて、それから……」
「一緒に写真を撮ろうよ、ケンさん。
ツーショット、撮ったことないだろ?」
「……!」
したいことを指折り数えるケンジは、まるで一番したかったことを零次に言い当てられてしまったように、そのきれいな黒目をまん丸にした。
うるっと潤んでしまった輝きに魅入られる零次は、指の背でなめらかなフェイスラインを辿りながら囁いた。
「できるだけ二人でくっついて歩いてさ、明日は学生みたいなデートしよう」
「うん……。うん……!そうしたい——!」
想像するだけでワクワクと心の浮き立つ言霊が、温もりを寄せあう二人の距離を一段と近づける。
きっと二人ならなんでも楽しい。美しい湖畔の景色も、二人で見ればもっと特別な色になる。
二人で見る地球は、果たしてどんな深い青さできらめいているのか……零次がケンジと切り拓く未来は、希望と色とりどりの光に満ちていた。
明日の予定を楽しそうに語ったケンジが、抗えない睡魔のせいでうつらうつらと目蓋を閉じる。長い睫毛の縁取りに心を奪われる零次は、ケンジがすっかり眠りに就いてしまうまで、彼の頭をそっと撫でた。
さいわい、月は明るく夜空を照らしている。明日もすっきりと晴れそうだ。
忍びあう二人をかくまう夜は、どこまでも優しく、寛容に更けていった。
〈終〉