うちとそと「あれ、真波いまさらの登校かよ」
太陽もてっぺんを過ぎた時間、今日も今日とて坂を満喫してきた真波山岳がご機嫌な調子で学校に現れたのは六時間目がはじまる直前だった。
「いやー、今日も坂に呼ばれちゃってー」
答えながら彼の名前はなんだったかななんて考えつつ、真波はくるりと視線を教室内へと巡らせる。
クラスメートたちは各々の席で授業の用意をしながら、近くの席の子と仲良さそうに談笑したり、お菓子を食べたり、寝ていたりと様々だ。
「あと、委員長にも呼ばれちゃったしねー」
それは昼前のことだった。
六時間目に小テストがあるから必ず受けなさいよ、先生これ受けなかったら課題じゃ許さないし自転車部の顧問の先生にもお話しされるそうよ。
無慈悲な声に進路を学校へ変えてたったいま到着したというわけだ。
それでもすんなり来なかった辺りあれだが、まあ小テストに間に合えばいいだろうと真波は思っている。
「っていうか、委員長は?」
自分の席からみえる彼女の席は不在で、いつもなら授業開始前にはきっちり背筋を伸ばして座っているはずの小柄な姿はクラスのどこにもなかった。
「宮原なら、四時間目の体育の時間に倒れてそのまま早退したぞ。貧血だか風邪だかわかんねえけど、体調不良だってよ」
「え」
なんだそれ、聞いてない。
言葉にするより早く教室の扉が開いてチャイムより先にやってくる担当教師が、入ってくるなり喜べテストだぞーなんて告げてくる。
そこに飛び交うブーイング、ブーイング。
クラスの誰も知らされてなかったらしい小テストの存在と、いつも通りに聞こえていた宮原の声。
――いいこと、絶対に、なにがなんでも、小テスト受けなさいよ。
繰り返し念を押してから切れた電話越しの声が改めて脳内で響いて、無言のまま真波は席に着いた。
「委員長ー、委員長ー、委員長ーーー」
夜である。
結果はともかく小テストを受け、部活にもちゃんと参加をし、その上で真波は宮原の家を訪ねていた。
手には自ら挙手をして預かった宮原宛のプリントや、有志からのお土産を携えて。
なんだかんだ長いことお隣さんで親交があるので、彼女の母は珍しいと目を丸くしながらも真波を笑顔で迎え入れてくれたばかりか、顔みてく? と、年頃の娘の部屋へあっさり促してくれる。
もちろん当然のように真波はそれに乗っかって、数年振りではあるが記憶のまま変わらない宮原家の階段を上り、迷うことなく彼女の部屋をノックした。
と、いうわけである。
「えっ、アンタなにしに来たのよ」
パジャマ姿にカーディガンを羽織り長い髪をひとつにくくった宮原が、真波の姿を認めて目を丸くする。
多少回復をしたのか顔色はそこまで悪くはないけれど、少々頼りなさがみえるその姿は油断しきりで、そうだ、目の前の女の子は小さくて華奢な少女だという当たり前の事実を真波に差し出してきた。
「委員長が倒れて早退したからプリント。あと、クラスの女子からノートのコピーとお土産のお菓子」
「え? あ、ありがとう?」
呆けたように受け取った彼女は、心底驚きました。みたいな顔でプリントを受け取ってくれた。
「なんか、さんがくからプリントもらうの変な感じね」
「いつもは委員長がプリント持って来てくれてたもんね」
昔は体調を崩して学校を休みがちだった真波へ。
いまは、授業をサボって好き勝手している真波へ。
「ていうか、オレ、ちょっと納得いってないことあるんだけど」
「なによ」
「昼前、オレに電話かけてきたときにはもう早退とか決まってたんでしょ?」
「そうね?」
あ、本気でわかってないな。
気づいて真波は眉を寄せる。
なんだろう、自転車に乗りはじめてからは勝負中以外で感情をそこまで大きく揺らがせることもなかったのに、胸の奥がざわざわする。
「なんで言ってくれなかったの? 具合悪いって」
「なんでさんがくに言う必要があるのよ」
本当の本気でわからないという顔で返されて、だって、喉の奥で反論を呑み込む。
それはそうなんだ。
だって真波は学校にすらいなかったのだから。
でも、わざわざ電話をかけてきたのに、私は具合が悪いから帰るけど。みたいな言葉もなく、真波にとっての必要な情報と念押し。たったそれだけを告げた彼女は電話をあっさりと切ってしまった。
「言う必要はないかもしれないけど、オレは聞きたかったよ。委員長がつらいときにつらいって」
そういえばいつだって彼女は真波の心配ばかりだ。
プリントを持っていくと自ら声を上げたときまず驚かれて、宮原と殊更仲のいい女子からは私が行きますと反対さえされた。だって真波くん渡すの忘れそうだしとかなんとか。
それでも折れないでいたら、こっちが部活をやっているうちにコンビニでノートのコピーとお菓子を買って持ってきたその女子に、これ、宮ちゃんの大好物だから絶対に渡してね。と、強く念押しされたのだ。
プレッツェルにチョコレートコーティングが施されたお菓子の細い方。それから果汁たっぷりのブドウ味のグミ。あとは中身こそ読んでないけど、綺麗に折りたたまれた手紙らしきもの。
「オレさー、委員長の好きなお菓子もしらなかった」
「さんがく? なによ、落ち込んでる?」
「んー、どちらかと言えば、反省?」
ぽんぽんと交わされる会話のテンポよさは宮原の体調がだいぶよくなっている証左だとしても、あまり長居をするものではない。
わかる。わかってはいる。
同時に、決して彼女はいまの真波を部屋へ誘ってはくれないのだろうことも、なんとはなしに理解していた。
「委員長、オレ、がんばるね」
「へっ? は? なにが?」
「今日はさすがに帰るけど元気になったら色々話をしたいなって」
他愛のない、意味もない、そんな日常の話を彼女が聞いてくれたみたいに。真波も宮原の話を聞いてみたいと思った。
好きなもの、好きな色、ご趣味は? なんて聞いたらちょっとお見合いみたいだな。なんて。
「話くらいならいつでも、あ、いまだって聞くけど?」
気遣わしげな瞳が真っ直ぐ真波を見上げるものだから、真波はもう苦笑するしかない。
そういうところが、彼女が彼女足る所以ではあるんだろうけど。少し前の自分ならなにも考えず乗っかっていただろうし。
「んー、最終目標は助けてーって言って手を伸ばしてもらうことだから今日はいいかな」
ぽかんとした顔に、あ、これ意味伝わってないなと理解する。自分の言葉足らずを棚上げにして真波は考える。
でもまあ、本当にそこからなのだ。
「風邪、なのかな? 悪化させてもいけないしオレ、今日は帰るね」
「え、あ、ええ。気をつけて帰るのよ」
「うん、お邪魔しました」
告げて踵を返しかけて立ち止まる。
「あ、そうだ」
閉めかけた扉をまた開いて、宮原が顔だけを覗かせる。真波の言葉の一字一句を大切にするように、取り零さないようにと。
「オレ、委員長のことすげー好きみたい。だから、明日から色々頑張ろうと思うからよろしくね」
いつも通りの調子で、笑顔で告げれば、まるでしらない国の言語を聞いたみたいな表情が真波をみていた。
なので、追い討ちをひとつ。
「いつもお世話になってる感謝でも、幼なじみとしての友情でもなくて、ちゃーんと恋愛感情みたいだから」
それじゃあと後ろ手にひらひら手を振って、今日のところは退散する。
本当ならばきちんと部屋に戻ってベッドに入るまで見届けたいところだけれど、さすがに色々自覚してはそれは出来ない相談だった。
真波も健全な男子高校生なので。
その代わり宮原の母へ一声かけて退散することにした。
だって、嫌だったんだ。
彼女の体調不良を名前もうろ覚えなクラスメートに教えられるのも、宮原自身にまるで範囲の外みたいに振る舞われるのも、困ったときに手を伸ばしてもらえないことも、彼女の好物ひとつだって言えやしないことも。
全部 、全部、嫌だったんだ。
見送ってくれた宮原の母に挨拶を告げて、外から見上げた宮原の部屋。きっと仲で困惑してるだろう彼女が、あちこちにはてなマークを飛ばしながら頭をぐるぐるさせてるんだろう。
しらなくても、わからなくても、なんでか想像がついてしまつた。
「――逃げてもいいけど、なかったことにはしないでね」
あー、でも、逃げられたら追いつけるかな。なにせ真波にとっての彼女は世界一速かった。
なんて、逃がすつもりはまるでないけれど。
そんなことを思いながら、真波は自宅へと滑り込むようにして帰った。
おしまい