盧笙先生が片恋自覚したらを考えた話。の自覚まで。 ああ、よくないな。
金曜日の放課後、勉強熱心な生徒たちの自主勉強に時間いっぱいまで付き合った後、廊下を歩いていた盧笙は自分の身の内でなにかがことりとずれるような感覚に足を止めた。
もちろん実際になにかが動いたわけではない。
なにか気持ちが、よくない感情に呑み込まれる前触れ。これは、あがり症に煩わされるようになった辺りから時折盧笙を苛むものだった。
いまの環境が、状況が、すべてが、身の丈に合っていないんじゃないかと囁く声とともに、過去の行いすべてが答え合わせを求めてくるような。
あの日、あのときにした選択は正しかったのか。もっと違うやり方があったんじゃないのか。そもそも自分がいなければよかったんじゃないのか。
繰り返し頭をよぎるたくさんのもしもへのアンサーは当然ない。
こうなると、普段であれば一笑に付すような些細なことさえ気になってしまい、思考の迷宮へぐるぐるはまりこんでしまうのだ。ひどいときは靴をどちらの足から履くかで悩む。なんてこともあったりして。
とはいえ、それは二十代初期の躑躅森廬笙の話である。
現在の躑躅森廬笙二十六歳はそれなりに酸いも甘いもかみ分けてきたため、そういったときの対処法をしっかりと心得ていた。自分へのふがいなさを感じることが増えるとそうなるという傾向もわかっているので、ひとつひとつ自分の身の内にわきあがるマイナスな感情と向き合って、名前をつけて、心の内にきちんと整理してしまい直せばいい。
自分のやらかしに対してどうすればよかったのか、どうしたかったのか。
正直に言うとつらい、しんどい、やりたくない。
しかし、この違和感を身の内にため込み続けたところで、結果が悪くなるばかりなのは経験から知っていた。
過去の失態すべてなにもかもを呑み込んで教壇に立つことを、再び簓の隣に立つことを、自らの意思で決めたのだから。より一層きちんと向き合わねばとも思っている。
自分が自分であるために、いまよりもっと成長した自分になるために、必要な痛みなのだと。
「……とはいえなあ」
問題がひとつだけあった。
この感覚と折り合いをつけるためには、盧笙はひとりきりで自分の気持ちと向き合わなければいけない。
なにに痛みを感じ、どう解決していくのが最善か。自分はどうしたいのか。
自分なりの答えがみつかるまで座問答のように繰り返さなければならない。
けれど、現在自宅には不法侵入者がふたりほど定期的にやってきては勝手に酒盛りをはじめている状況だ。
事前連絡もないゲリラ的なそれは、家主がやめろ迷惑だと口にしたところでやめることもない。なんなら発熱して感染するから立ち入り禁止だと言っても来る始末。
現状、盧笙には自発的に一人きりになる機会がないとも言える。
まったくおかしな話だ。
なんだかんだで忙しい身の上のはずなのに、どうしてあんなにも頻繁に人の家に集まりたがるのかまったく不思議で仕方ないと、チームメンバーであるふたりの顔を思い出して苦々しくため息をこぼす。片や飛ぶ鳥を落とす勢いの漫才師、片や本職詐欺師の表の顔は社長である。
いや本当になぜ狭いアパートの一室に集まろうとしているんだ。
家が綺麗だのなんだの言ってはいたけれど、単純に集まりやすいからなんだろうとは思う。セキュリティなんてあったものではないアパートは、いまよりもっと薄給だった芸人時代から住んでいた場所で、鍵ひとつであっさり侵入出来てしまうのだから。
盧笙は盧笙でなんだかんだともてなしてしまうし、余計に増長させているんだろうこともわかっているけれど。
と、こちらの言うことになどまるで聞く耳を持たないチームメイトに意識を向けてから、そういうことではないのだと首を振る。可能ならばこの週末で湧き出るマイナス思考との決着をつけてしまいたい。という話だ。
ではどうしようか。
来客があるからと断る?
嘘はよくないし、なんとなくバレる気がする。なんなら簓は構わずに来てしまう予感がある。
幾度となく詐偽被害に遭いかけたせいか、簓は盧笙の交友関係を把握したがっている節があった。思春期の娘を持つ子煩悩な父親かというくらいの干渉ぶりを見せてきて、普段の面白くもない駄洒落すら封印して真顔で正論と尋問を繰り返しぶつけてくる。
「…………アカンな」
面倒な予感しかしなかったので嘘は却下することにした。
正直に話すのもありかもしれないが、面白がられる可能性がゼロでない以上ちょっとその選択肢は選べないし。
茶化されたり、好奇心からいじられたいものではないのだ。
では、どうするか。
「あ、盧笙せんせー」
思案する盧笙の背中に、明るい声が投げかけられる。振り返れば教科担当しているクラスの女生徒がふたり、帰り支度の装いで手を振りながら寄ってきた。
「おう、いま帰るところか?」
「そうそう。うちらこれからお泊まり会やねん」
「よかったら先生も来る? 盧笙先生ならオカンも歓迎するやろし、うちの親先生のファンなんよ」
「……行くわけがないだろう、教師をからかうんじゃない」
一介の教師にファンもなにもないだろうと窘めればすぐにはーいと引いてくれるものの、にこにこ笑顔でこちらの反応を楽しんでいるのがわかる。
まったくとため息をこぼすものの、親しまれているのもわかるので無下には出来ない。なんだかんだで可愛い生徒だからというのもあるが。
これが簓相手なら、ノータイムでツッコミの手が出るというものだ。
「えー。でも先生やって友達の家に泊まったりするんやろ?」
「あ、ヌルサラの家ってどんななん? やっぱりすごいん?」
「ノーコメントだ。プライベートなことを話すわけがないだろう」
そう窘めれば、ふたりはえー気になるー。とは言いながらも深く追求することもしてこなかった。とはいえ、興味があるのも本当なのだろう。
口々にこんな家に住んでるのかなあなんて予想を立てていた。
「あー、でも、ホテル暮らしとかしててもええなあ」
「それええ! むっちゃええな! 家事とか片付けとかせんでもええんやろ?」
「アンタ、普段そんな家事とかしとるん?」
「うちのオカンがな」
えへんと胸を反らす。そんな感じにオチがついたところで満足したのか、ふたりはじゃあ帰るわーと手を振って去っていった。
気をつけるよう声をかけた盧笙も職員室へ戻ろうとして、ふとまだ見える女生徒二人の背中をじっとみる。
「ホテル、か」
プライベートだと旅行くらいでしか利用しないので考えもしなかったけれど、一人きりで考えに耽りたいのならホテルに泊まるというのもありかもしれない。休日に自宅から数駅離れた喫茶店へプリンを食べに出向いたとき、駅近くのビジネスホテルの入り口に「空き室あり」と看板が下げられていたのをみたこともある。
泊まりの用意などはしていないけれど簡単な着替えくらいなら途中で購入すればいいし、さすがにチームメイトのふたりだって急遽宿泊を決めたホテルを突き止めてまで酒盛りをしには来ないだろう。
「……来ない、よな?」
無駄に行動力と情報収集能力を持ったふたりが脳裏に浮かんだものの、たかが週末ホテルに泊まったくらいでそう探されることもないかと思い直す。チームでの集まりは予定していない。家主の盧笙に連絡がないまま自宅での飲み会が決まっていることはあるが、まあ家を勝手に使われる分には問題もないはずだ。
……多分、おそらく、きっと。
そうと決まれば業務を終わらせてしまおうと盧笙は改めて職員室を目指す。
途中、廊下に貼られた掲示物にふと視線をとられれば、廊下は走らない! なんて言葉と共に、頭に二本の触角をつけた全身緑の糸目のキャラクターが描かれていた。
「お前、ホンマ人気者やなあ」
誰をモチーフにしたのか丸わかりなそれに盧笙は思わず笑みをこぼすと、内に棲む不快感がほんのわずか和らいだ気持ちで、改めて職員室へ向けて歩を進めた。
幸いなことに、宿泊するホテルはすぐに見つかった。
夕食と最低限の宿泊用の買い物を済ませた後で宿泊先に選んだのは、職場から自宅とは逆方向の駅近くのビジネスホテル。
観光地から離れている立地ゆえか、少し珍妙な名前ゆえか、入って空室の有無を確認してみれば、いかにも気のよさそうな年配女性に速やか且つにこやかに部屋を案内してもらえた。
名前の印象から内装も愉快なことになっていたらと少し心配したけれど、至ってシンプルなビジネスホテルの一室は、セミダブルのベッド一つでほとんどの空間が埋められていた。壁にぴったりくっついた作りつけの机の上に荷物を、その下ある小さな冷蔵庫にコンビニで買った飲み物と明日の朝食をしまい、さっさと風呂を済ませてしまうことにする。
そうしてすっかり寝支度まで整えた盧笙は、スマートフォンがぴかぴかと光っていることに気がついた。職場からなら返事をしてしまおう、そう思ってみればメッセージアプリからの通知が二桁と着信も同じく二桁。数件企業からのDMが混ざっている他は、すべてチームメイトからのもので目を剥いた。
割合としてはディビジョンのグループメッセージが一割、零個人から一割、残り八割は簓である。
「いや、これ全部読むんはさすがにだるいわ。なにしとんねんアイツはホンマに」
おそらくは盧笙の自宅アパートに二人そろっているのだろう、今日残業? というメッセージからはじまって帰宅予定時間を尋ねるもの、そしていつまでもつかなかった既読に焦れたのか、いよいよ生存確認じみた内容にまで発展していた。
このまま放置すると本気で警察にでも駆け込みかねない文面である。
なにか大きな事件でも起きていたかとテレビをつけてみたけれど、いつものテレビ番組が字幕もL字型画面もなしに放送されているだけ。となると簓のこの心配っぷりはさすがに度を超しすぎな印象だ。
現在時刻は夜の八時を少し過ぎたところで、思春期の親だとしてももう少し落ち着きのある心配の仕方をするのではないだろうか。……いや、ご家庭や状況にもよるだろうけれど。
たしかにラップバトルという点においては、チームメイトふたりと堂々並び立てる実力にはまだ足りてないかもしれないが、多少の荒事であればひとりでどうにか出来るくらいの自負はある。それは簓も承知しているはずと思っていたが。
「……まあ、俺のしらんところでなにかあったんかもしれんしな。生存報告くらいしとくか」
そう思考を切り替えて、盧笙はメッセージアプリのどついたれ本舗のグループトーク画面を開いた。そして後悔をした。
届いたメッセージから読み取れるのは、戻らない盧笙がどこぞで詐欺に引っかかっているのではという内容のメッセージと、自宅での酒盛り風景の画像、帰ってくるとき追加のつまみと酒を頼むというおつかい指示。それだけだったので。
自分の身にはなにも起きておらず安全な場所にいること、今日は用事で自宅には戻らないこと、ついでに飲み会をしているのなら部屋を片付けてから帰るように打ち込んで閉じた。あとはもう知らないとばかりに通知を切ってマナーモードにしてしまう。
電源を切ってしまうのは職場からの連絡があるかもしれないので避けたけれど、なんだかどっと疲れた心地でベッドに倒れ込めば、間を置かずにスマートフォンの画面が簓からの着信をしらせてきた。
「……ホンッマ、あのアホ!」
画面を伏せてみなかったことにしたのは、話をすればなんやかんやでいまなにをしていてどこにいるのか、洗いざらい吐かされそうな予感があったから。それになにより、面倒な気配を感じたのもある。
怒濤の連絡に充電が目減りしているスマートフォンを充電しながら、改めて盧笙はベッドに仰向けに倒れこんで目を閉じた。
元々ホテルに泊まることに決めたのは不意に心に生まれた違和感の正体を突き詰めるためなので、きちんとそこは完遂させたい。
ここ最近で大きく心を揺らす出来事に心当たりはなかった。
もちろん授業なんかでつっかえることは日常茶飯事で、自分の至らなさを反省する回数だって大きく減ったわけではない。けれど、盧笙にとってそこはもう十分かみ砕いて呑み込んでいて、どれだけ恥をかいても笑われて馬鹿にされたとしても、前向きに努力を重ねていくことは決定事項だった。
ラップバトルにしたってそうだ。
覚悟は簓の手を再びとったあの日に出来ている。
職場も盧笙のあがり症や緊張に理解を示してくれていて、かえって申し訳ないくらいの環境だからこそ、ふんどしを締めて頑張らねばと自身を奮い立たせているのだ。
なので、あの心の揺れの原因はそこではないと結論づける。
と言うよりも、原因への心当たりが実はまったくなくて困っていた。
簓とのコンビを解消したときほど打ちのめされてはおらず、大学在学中ほど虚無に支配されているわけでもなく、就職前のように自身の望みが不確定でなにがしたいのかわからず迷っているわけでもない。
ぱちりと目を開けてから、はて。と首をかしげる。
身の内には相変わらず自分では持て余してしまいそうなもやついた感情が、内側でコロリコロコロ転がっては盧笙の柔らかな部分をつついたり刺激しているような、急かされるような焦燥と不安にも似たなにかがあった。
自分の至らなさで誰かの足を引っ張る恐怖から来るはずの不安は、その種さえみつからず存在ばかりを主張してくる。
いやいや待て待てこれはまずい。
さすがに今日中には不調の原因の尻尾くらいは捕まえて、明日のうちに気持ちの置き所をみつけなければなんのためにホテルに部屋までとったかわからなくなってしまう。
チェックアウトは十時まで、このホテル延泊可能だろうか。金曜の夜に空きがあるなら土曜の夜もいけるかもしれない。そうならば一度家に帰って荷物を……と、思ったところでおびただしい数の着信に思い至る。
忙しい人気漫才師と自称詐欺師で公的には社長業の男。
土曜の日中はおそらくなにかしらの用事が入っていると思いたいが、読めない。特に零。
簓は学校で見たグッズだったり生徒が勝手によく似たマスコットを描いてみたり、果てはここへ来る途中の電車のつり広告から街中のポスター、コンビニ店内にすら関わっている商品や雑誌が並んでいるくらいなのだから、相当忙しいはずなのにどうしてああも頻繁に盧笙の家に集まろうとするのか。
今更ながら、そんな男に乞われて再びチームを組むことになったのだから人生とは不思議なものである。
だからといってプレッシャーを強く感じるというほどでもなく、実力不足を理解した上でやってやろうという気持ちだった。一度逃げてしまったからこそ、今度こそ三人でてっぺっんをとるのだと口にした誓いに嘘はない。
だからそれも今回の心の機微とは関係がないのだろう。
そこに思考が戻ってきたところでふと思い至ってスマートフォン画面を見遣れば、またメッセージと不在着信の件数が増えていた。もちろん簓である。
「いや、ホンマなんやねん」
すごい男のはずなのだ。
盧笙にとって自慢の元相方で、友人で、仲間だ。
なのに時々簓はこうやって不可思議で突飛な行動をとる。
解散した元相方の自宅の合鍵を勝手に作って持つだけでなく、大量に複製するというのは一体どういう経緯だったのか、問いただしてものらりくらりでまともな答えなど返っても来なかったけれど。
とはいえさすがにこれはない。
それとも本当に盧笙のしらないところでなにかが起きていて、本気の本当に生存確認を必要としているのだろうか。メッセージならば誰でも本人と偽れるだろうし。
「……しゃあないな」
幾度目かもわからない着信のしらせに、腹を括って応答を選ぶべく画面をスワイプする。
「もしも――」
『盧笙? 盧笙か? お前いまどこにおんねん! 何遍電話かけてもメッセージ飛ばしてもこっちの質問答えんとまともな連絡よこさんし』
「うるっさ」
あまりの剣幕に思わスマートフォンをベッドへ投げ出し距離をとる。その間もどこで息継ぎをしているのかという勢いで、要約すると所在確認みたいなものを簓は盧笙へ繰り返し問うてきた。
『おい盧笙、聞いとんのか? 盧笙? ロショー?』
「聞こえとるから声量落とせ。お前まさか人の家でその勢いでしゃべっとるんちゃうやろな?」
『え? 零と二人でロショーの家におるけど』
これまでの詰問口調から、今日は天気がいいですねと同じようなテンションで返る言葉に頭を抱える。ただ、懸念していた緊急事態というわけでもないらしいことは簓の声音でわかった。同時に、胸をよぎったのは昼に感じたものと似たもやついた不快感。
家主に無許可で飲み会の算段をつけられるのも、段取りの時点でなんの打診もなされないのも、いまにはじまったことではないけれど。零に伝わっている予定が自分に伝わっていないという、いままでだって何度もあった事実が妙に頭の片隅で主張してくる。
「――」
『ロショー?』
黙った盧笙を不思議に思ったんだろう声に、なんと返していいかわからなくて咄嗟に身じろいだ。その拍子にベッドが軋んだ音を立てる。
「っと、すまん、今日はもう切るわ。お前ももう鬼電してくんなよ」
『ちょい待ち、お前いまどこに――』
問いは最後まで聞かなかった。というよりも聞けなかった。
心臓が嫌な音を立てている。
さっき自分はなにを思った?
簓が零を妙に気に入っていることも、ウマが合うのかふたりでヒソヒソしていることがあるのもしっていたし、それについてなにかを思ったことはなかった。ないはずだった。
なのに、さっき盧笙の内側から鳴った音は放課後の学内で聞いた音そのもので。
「嘘やろ……」
てっきりまたいつもの弱さが顔を出したのだと思ったのに、こんなことなら掘り返さなければ良かった。
思えば今日、意識せずに思い浮かべるのは簓のことが多かった。
いくら人気お笑い芸人だといったって簓だけが人気なわけではない。きっと他の著名な人だって至る所に、簓以上にいたかもしれないのに、盧笙の目は無意識に簓の姿ばかりを捉えてしまっていたのか。
心臓がドクドクとうるさい。人前に立ったときの緊張感とはまた別の感覚だった。
気づきたくない。答えを出したくはない。
そう思えば思うほど脳はクリアに物事を整理して、たった一つの答えを盧笙の前に導き出してくる。
再びスマートフォンが簓からの着信をしらせてくるけれど、出られるはずもない。
自分のメンタルに不調を感じたから原因究明のためにひとりきりになりたくてホテル泊を選んだら、お前のことを友情とは別の意味で好いているかもしれないことに気づきそうです。なんて、どの面下げて言えるのか。
百歩くらい譲って好きは好きでも、人間的な好きではないかと考えてみる。
十代の終わりから激動の時代を隣り合って歩いて自分はそこから一人逃げる形となった。恨まれても仕方のない別離なんてどこ吹く風みたいな顔をして、簓はまた一緒に組みたいと、自分の相方を務められるのは盧笙だけだと言ってくれたのだ。
盧笙だってそうだ。
つらいときいつだって自分の心の先に簓がいて、アイツならどうするだろう、どう言うだろう。そんなことを考えながらこれまで来た。
友情も友情、ちょっとだけ特殊な友情では許されないだろうか。
そう逃げるように考えてみたけれど、盧笙の心は否と告げてくる。
自覚してしまったら会いたいし声も聞きたいし、許されるなら触れたいし触れられたい。そう強く思ってしまった。
なんならその思いの強さに我がことながら感心してしまったくらいだ。
「……そうかぁ」
あきらめたように息を吐く。
一旦そうではないかと思ったら次から次へとそれを肯定することばかり浮かんで、もう認めるよりなかった。
簓と初めて出会ってから八年と少し、いまさら新たな感情との出会いがあるとは想像すらしなかった。
確かに簓のことを好ましくは思っている。でもそれはあくまで友人として、元相方として、チームメイトとしてのつもりだったのに。
時折常識外れな真似はするし、ぶっ飛んだ発想から迷惑を被ったことだってある。プライベートでのギャグは本当の本当にくだらないものばかりだけれど、笑いに対してどこまでも貪欲で真摯な姿を心から尊敬していた。いまだって。
そう、尊敬しているのだ。
「……あー、でもまあしゃーなしか。アイツいい男やもんなぁ」
忙しい漫才師の傍らでオオサカを代表するディビジョンリーダーを兼任しているにも関わらず、不平不満は口にせず飄々と、しかし着実にその実力を示している。
本当に忙しいはずなのに盧笙の家に無断で入り浸るのはどうかと思うが、でもまあ、ひとりであの広くて物の少ない家に帰るのも寂しいのかもしれない。
そう思うと今後はあまり拒否も出来なくなりそうだ。
「あーーーそっかーーーそういうことかーーー」
納得はする。理解も出来た。躑躅森盧笙は白膠木簓を恋愛的な意味で好いている。
そうかそうかそうだったのか。
それで終わればよかったのだけれど、もちろんそんなわけもない。
よもや簓への恋心なんてものが掘り起こされるとは思わなかったけれど、原因がわかったのなら今後自分がどうしたいのか向き合う必要があった。
本音を言うのなら告白をしたいなと思う。
付き合う付き合わないに関わらず好意はきちんと伝えたい。
けれどそれが盧笙の自己満足でしかないことも理解している。
簓はなんだかんだで人がいいから、盧笙から友情ではない好意を向けられても気持ちそのものは否定しないだろう。けれどきっと困らせてしまう。
友情しか感じられないからと振られるのはいい。苦しいしつらいし悲しいけれど呑み込んで受け入れて、いつか気持ちが昇華されるまで自分はいつも通りに振る舞うことが出来るだろう。
でも、盧笙の一方的な気持ちが簓に不必要なプレッシャーを与えてしまったら?
コンビを組んでいた頃、簓は争いを好まない性格だった。
逆に盧笙はいまよりもっと喧嘩っ早かった。
理不尽な人や出来事を目にすればその度に怒りを顕わにしていたため、喧嘩やトラブルを引き起こすことがそれなりにあって、簓が仲裁に入っては笑えないギャグを連発して周囲を白けさせたり、穏便に事態が沈静化するようはかっていたと思う。
けれど再会してからの簓からは、時折盧笙のしらない空気を纏っていた。
盧笙だってヤンチャをしていた頃、色々な諍いや争いの場に身を置いたことは少なくない。いっても高校生同士でのことが多かったからそこまで大変な事態に発展することもなかったけれど、時々有象無象の中に毛色の違う人間が混ざることがあった。
盧笙は本能的に彼、彼女らが本物だと思った。
纏う空気が圧倒的に違うのだ。
そんな本物から発せられる凄味のようなものを、時折簓からも感じる。
飄々と泰然と笑みを浮かべながら発せられるのは彼が苦手としていた争いの気配や空気そのもので、多分それは自分たちが解散していなければ簓の身につかなかったものだ。
自惚れでもなんでもなく、盧笙が解散を切り出さなければ簓はお笑い一辺倒で来ただろうし、ああいった気配とは無縁のままでいただろう。良い悪いではなくて自分の選択が簓に影響を与えてしまっていた。ということを盧笙は警戒している。
元相方としても、友人としても、簓はすごくていい男だ。
それを歪ませることになる可能性があるのであれば、盧笙はその選択をすることが出来ない。ずっと隣にいると決めたのだ。もう逃げないと宣言したのだ。
ならば、どうするか。
内からの問いに返す答えはひとつきりだった。
なにも言わず、伝えず、現状維持。
ああでも、好意を持った相手から来るとはいえ、下心のある側の自宅へ招くのはフェアではないような気がする。簓が気づいていなくとも盧笙サイドがそういう目で見てしまったら、それはもうセクハラになってしまうのではないだろうか。
だってアイツ、風呂上がりにパンイチで部屋うろついたりするし。
きっちり衣服に包まれて普段露出しない肌の白さだとか、骨張っていて細い割に筋肉のついた身体だとか、つい目がいってしまっていた理由に気づいてしまったいまなら、多分見る。ガン見してしまう。なにせ躑躅森盧笙くんは健全な成人男子なので。
出入りを制限しようにも来るなと言っても来るし、来いと言っても来てしまうのだからどうしようもない。本気で頼めば話くらいは聞いてもらえるかもしれないが、恋心は確定で暴かれるだろうから本末転倒がすぎる。かといって不埒な目でみてしまうのがわかりきっていて素知らぬ振りも出来なかった。
盧笙宅に来たくなくなるような言い訳も思いつかないし、嘘は間違いなく見破られる。いっそ幽霊が出るとでも言ってやろうかと思ったが、面白がられてカメラ片手に連泊される未来しかみえなかった。
ホンマなんやねんアイツ。どんだけ人の家に居着くつもりなん。
あんだけ立派な部屋を持っているくせにとおよそ想い人相手とは思えぬ悪態をついて、盧笙は大きな大きなため息をこぼした。
簓は他者の感情の揺らぎに敏感で聡いから、半端に隠そうとすればすぐに見破られてしまうだろう。
「……いやこれもうどうにもならないんと違うか?」
恋を自覚したら袋小路でした。そんなフレーズが頭をよぎる。
最優先事項は簓に気づかれないことと、これまで通りの距離感を保つこと。たったそれだけがいかに難しいことか、誰より理解しているのは盧笙自身だ。
ぐるぐるループする思考にこれはいけないと切り替える。
これはいままで盧笙を苛んでいたものとは違うものだ。
なので、それと同じ対応ではすぐに詰んでしまうだろう。
なにせ恋心を自覚してから盧笙の心臓は、簓の名を胸の内で呼ぶだけで跳ねるのだ。
しばらくベッドの上を右へ左へ寝返りを打ちながら、結局打開策などなにひとつ浮かぶわけもなく盧笙は身体を起こして真正面にあったテレビをつけてみる。現実逃避ではない。気分転換だ。
「……おまえホンマどこにでもおるやん」
思わずこぼれた笑みは自分でも情けない響きをしていた。
まさかパッと明るくなった画面いっぱいに、自覚したばかりの想い人の笑顔が現れるなんて考えもしなかったのだ。
いつものスーツとは違うラフな衣装でにこやかに笑っている簓は、自転車に乗って軽快に河川敷を移動していた。手には盧笙も今日買っていた水のペットボトル。そういえば近々新しいCMに出ると言っていたことを思い出す。
「……いい、男やな」
ぽつりこぼれ出た言葉は嘘偽りのない本心だった。
笑いたいような、泣きたいような気持ちで漏れ出た言葉は、自分の声ながらなんとも頼りない。
自覚直後とはいえ惚れた欲目なのか、明るいテレビ向けの笑い顔にすらときめくのだから重傷だ。
好きだなあ。でもやはり言えない。
結局つけたばかりのテレビをすぐに消して、盧笙はベッドに横になる。
苦しいのも、つらいのも、すべては自分の選択なればこそならば飲み込んでやろう。その上で簓のとなりにチームメイトの顔をして立つのだ。
自覚したばかりの気持ちを殺すことしか選択肢はないのだと気づけば、かえって気持ちは楽になる。わからないことを不確定な形のまま、身の内に住まわせる方が盧笙には怖かった。
簓にはなんの憂いも心配もなく笑いの道を進んでいて欲しい。でもそうだな、いつか彼が人生を共にするパートナーを紹介してくれたなら、そのときにはそっとこの気持ちを秘したまま葬ろうか。
いまでも妙に盧笙を気にかけて、詐偽被害に遭っていないかと鬼電してくる簓だ。せめて彼にそんな心配を抱かせぬよう、ラップ技術含めしっかりしなければ。
簓への気持ちを表には出さない。裏切らない。いつも以上に研鑽し努力する。結局盧笙に出来るのはそれだけ。
そんな結論が安堵と睡魔を連れてきて、盧笙はそのまますっと眠りの淵へ落ちていった。
つづくよ!