どうあがいても君が好き 盧笙が違法マイクの力で女になった。
なんっっでやねん! という本人による渾身のツッコミも簓の記憶にある声よりも高くて、けれどこれは盧笙のツッコミやな。と、簓には判断できるもので。
いやー、美人は性別変わっても美人やなあ。なんて、呑気そうにみえる感想を漏らしながら、簓の目はその姿に釘付けだった。
服装も髪型もそのままに女の子になってしまった盧笙は、背丈が縮んで身体つきも細くなっていた。喉仏も広い背中もがっしりした肩もそこにはなく、簓よりほんのわずかに目線の低い気の強そうな女が、いまにもずり下がりそうなズボンを押さえて頭を抱えていたのが数時間前のこと。
いやいやいやこれなに?
ヒプノシスマイクて細胞レベルで身体に作用するん? 怖、え、怖。
内心で戦々恐々したものの、体力も腕力も並みの女性と化した盧笙をセキュリティ皆無な安アパートに置いておくことなど恋人である簓に出来るはずもなかった。
違法マイク使用者を速やかに警察へ引き渡し、性別が変わってしまったことで起りかねない健康上の影響の有無を医師に確認した上で、盧笙本人が混乱している隙に自宅タワーマンションへ連れ帰ったのが数分前のこと。
我ながら素晴らしい手腕である。
大きく取られた窓の向こうは日が沈みはじめて夜の訪れを伝えていて、騒動からすでに数時間が経過しているのだけれど、いまだに簓は気持ちの置き所を見つけられないままそわそわとしていた。
見慣れたリビングに、ぼんやりとした様子の盧笙が見慣れない姿でいるからかもしれない。
すっかり女性の姿になった盧笙は、新たに服を買うのは勿体ないからとサイズの近い簓の服を身にまとい、借りてきた猫のような様子でソファに収まっている。
サイズの合わなくなってしまった眼鏡を両手に持ったまま、自身のてのひらを眺めているようだった。
「盧笙、大丈夫か?」
普段自宅で過ごす時間が少ないとはいえ、生鮮食品以外のものはまあまあ備蓄してあるので、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して差し出した。
簓とペットボトルと眼鏡へ迷うように視線を投げた盧笙はやはりどうみても女の子で、普段本人がめったに着ないダボダボのパーカーとデニム姿だからか妙に幼くも見えて、脳内でこれは盧笙、これは盧笙。と繰り返しながら笑いかければ、盧笙は眼鏡を自身の腿の上に置いてから両手でペットボトルを受け取る。
その細くてしなやかな指先には節一つなくて、爪も丸い。
「……簓」
意を決したように声を発した盧笙が、自分の声を聞いて眉を寄せた。
簓だってそうであるように、本人も女の声に違和感しかないのだろう。
それでも両手でペットボトルを握りこんで簓を見上げる朝焼け色の瞳は、見慣れた強い光が宿っていた。
「こんな身体になってもうて、お前の気遣いは正直助かる。けどな、俺、やっぱり自分のアパートに戻ろう思っとる」
一言一言自分の声と言葉とを確認するように告げられても、すんなりと頷けるはずもない。そもそも安全のために連れてきたことを忘れているのだろうか。
そんな諸々を飲み込んで続きを促すように目線を向ければ、ほんのかすかに盧笙の瞳が逸らされる。
「お前に迷惑かけたないっちゅうのもあるし、なんやいまの目線でここに居ると俺のしらん子の目を通して簓とその子の逢引き見とるようでなんか嫌やねん」
困ったように眉を下げて笑う。
その表情にいつもの盧笙が重なって見えて、簓は思わずその身体を抱きしめた。
両腕に閉じ込めた身体からは盧笙の匂いがするのに、感じるのは全く知らない柔らかな感触でやはり脳が一瞬拒絶を示す。盧笙もそれに気づいているのか背中に腕をまわしてくることもなく、無理するなとでも言うように脇腹を二度叩いてきた。
「アカン、許可出来ひん。身体がどうなってようと盧笙なことに変わりはあらへんのに、上手く処理できん俺が悪いんはわかっとるけど、お前にはここに居って欲しいんや」
簓の欲目だけではなく、世間一般的に見たっていい女が明らかにサイズ違いの男物の服を着て街中を歩けば、それだけで人目を引く。そうなれば面倒な手合いが寄ってくる可能性なんて、自分のしゃべりで劇場中が笑いの渦に包まれるくらいのものだ。
つまりは百パーセントである。
しかもいまの盧笙の力はしっかり女の子で、普段の腕っ節だって見る影もない。
想像しただけでぞっとする展開ばかりが脳を駆け巡って、思わず抱きしめる腕に力がこもった。
「……簓、ちょっと緩めてくれん? 痛いわ」
「あ、悪い」
そっと胸を押されて、身体を離した。
気遣わしげに簓を見遣る盧笙はどこか迷うように視線を泳がせて、喉にそっと細い指先を当てる。
「あーーーー」
「なんで突然発声練習?」
「……いや、ちょっと頑張ったら声くらいはどうにかならんかと思って」
「無理そうやんな」
「………………」
心底悔しそうに眉を寄せる姿に、腹の奥を羽根かなにかでくすぐられるような心地がした。突拍子もないことを突然言ったりやったりするのは正に盧笙で。
「簓は明日の夕方までオフや言うてたやろ? こんな状態の俺が居ったら落ち着かんやろうし、俺もな、せっかく女の身体なったからちょっとこの状態で街歩いてみたいねん」
「……………………その心は?」
なんとなくろくでもない答えを想像しながら問うてみる。
「うちの生徒とか同僚の女性の先生とかがな、たまに怖い思いしとる言うてて。H歴なっても力の強い男の方が有利なこともあるやん。せやから実際自分で経験してみて、対策とか立てられたらいいなと思っててん」
すらすらと説明してみせた盧笙だけれど、目線がまるで合わない。
なんなら頭の中で用意していた台本を綺麗に読みました。とでも言わんばかりの様子だ。
「お前、そんなん聞いて俺がええよ言うと思っとるんか?」
意識して幾分か低い声を出して詰めれば、細い肩がぴくりと揺れた。わかりやすくやましいことを考えていますの反応である。
腹の中をくすぐられる感覚が強くなったのを感じながら、簓は身をかがませて鼻先が触れるほどの距離で盧笙を見据えた。
「――他にも理由あるやろ」
さらに問い詰めればふるふる揺れる身体。
いやいやお前、本当嘘とか誤魔化すとかそういうんむかんな。そういうところも愛しとるけど。
「盧笙?」
「………………言わなあかん?」
困ったような声音。
いつもと違う声音なのに、聞き慣れた声と重なった。
こっくりと大真面目に頷いた簓に、盧笙もまた観念したように身体の力を抜く。
「セックスするとき、俺が受け入れる側やろ? やから、女の子の快感との違いを試したろ思ったちゅうか、せっかくの機会やから色々試したろう思って……」
気まずげにそう告白した盧笙に、大きな大きなため息が出た。
身体から力も抜けてのしかかるように盧笙に抱きつけば、支えるように背中に腕が回る。
うん、全然知らない感触だ。でも、この突拍子のなさは完全に盧笙だ。
「はーーーーーーーーーー」
さっきまで違和感しか伝えてこなかった脳と心が完全降伏したのを感じた簓は、盧笙の腿を占領したままだった眼鏡とペットボトルをテーブルに移動させて、そのまま自分より華奢な身体に体重をかけた。
「……え、簓?」
戸惑う声もやはり聞き慣れないのに、響きが完全に盧笙だったのでもうええんちゃう。と、耳も言った。いや耳はしゃべらないけど感覚的に。
「よっしゃじゃあ、盧笙のスーパーダーリンの簓さんがお前の疑問解決に尽力したるから、盧笙ちゃんは身体の力抜いて深呼吸してな?」
「え、おい、ちょお待て。俺の身体いま女やぞ!」
「わかっとるわボケ! こない宇宙みたいな思考回路するオモロいやつそうそういてたまるか!」
おらんから俺がずっとお前ンこと引きずる羽目になったんやろが。
……とは、さすがに口には出さないけれど。
「なんや、気ぃ遣わせて悪かったな盧笙。俺気づいてもうてんけど、お前がお前のままやったら、見た目が女でも猫でも犬でもなんでもかまわんみたいやわ」
「は?」
ぽかんと簓を見上げる顔は盧笙似の美女なのに、一度脳みそが目の前の人物を盧笙だと認識するともう盧笙にしか見えなくなっていた。
肩も腕も首筋も、顔の輪郭さえ違うのに。
「てなわけで」
「うおっ? って、ちょ、おまえ」
過去何度かソファで致したことはあるけれど、女の身体では初めてになるのだからやはりベッドの方がいいだろうと、盧笙の身体に腕をくぐらせた簓はその身体を難なく抱き上げる。
おお、と小さく声が漏れたのは、男の盧笙を抱き上げることは出来なかったからだ。
「身体が小さなってるから当然なんやろうけど、随分軽なったな盧笙。ちゅうかこれホンマどういう仕組みなんやろか……。盧笙の質量が減ったって考えるとぞっとするんやけど」
「人を抱え上げた状態で妙な考察はじめんな下ろせ」
「恋人差し置いてひとりで楽しいことしようとしてた薄情モンのいうことは聞けませぇん。このまま寝室まで運んだるからな」
かすかな逡巡と抵抗を腕の中で感じて、そういえばさっき妙なことを気にしていたなと思い出す。そういった懸念を解消するのも恋人である自分の使命だなと、臆面もなく口や態度に出すのが、白膠木簓という男であるわけで。
「え、ちょ、簓、待て待て寝室に人を抱えたまま移動しようとすな!」
「お前の手やら声やらが他人みたいで落ち着かんのなら、それが俺といちゃついとるん見たないんやったら、目ぇつぶっといてくれてええで。その代わりちゃーんと俺がなんべんもお前の名前呼んだるから、俺が抱くんは盧笙以外おらんってそれだけわかっとってくれたらええ」
勝手知ったる我が家だと流れるように盧笙をベッドへと下ろせば、レンズ越しではない瞳がどこか不安げに簓を映していた。
大きなベッドとの対比で余計に小さく見える身体を縫い止めて覗き込めば、なんとも気まずげに逸らされる目線。長い睫が震えて愛してやまない朝焼けを思わせる瞳が不安と期待で揺れていることに気づき、自然簓の喉も鳴る。
「……簓、お前、手ぇ、あっつい」
丸みのある柔らかな頬へ触れたてのひらにすり寄るようにしながら、内緒話でもするように潜められた声。可愛いなあと手放しで思えるし、対簓という前提条件においては無敵貫通攻撃に匹敵するだろう。現に心臓とか諸々が痛い。
「――興奮しとるからな。やって、盧笙がかわええし」
「女の身体だからってそういうリップサービスはええねん」
「サービスとか言われるんは心外やなあ、元のままのお前にだってずっとかわええかわええ言うとるやん。性別なんて関係あらへんよ。お前だから、盧笙だからええねん」
額に、目元に、鼻先に、頬に、唇を滑らせ触れさせていけば、盧笙の身体からみるみる強張りがほどけていく。お付き合いをはじめて四ヶ月と十三日、それなりに回数をこなした触れ合いの末に生まれた変化であり、簓としては愛の賜だと思っている。
そのくらい大切に、大事に、これまで盧笙に触れてきた。
「あー。一応言うておくけど今日は触るだけで最後まではせえへんから、そこは安心してな?」
額をこつりと合わせて、もうすでに熱っぽく潤みはじめている瞳を覗き込んで問えば、きょとりとまん丸い目が瞬いた。
「別にいまの盧笙にどうこうしたくない言うわけやないで? 正直めっちゃムラムラきとるし頭おかしくなりそう。俺めっちゃくちゃ我慢しとる。けど、男だろうが女だろうがそれが盧笙なら、俺は大事にしたいんや」
「……別に俺は最後までしてもかまへんけど」
ちょっとだけ逡巡した上で、なんとも迂闊なことを言う。
それもやはり盧笙だなと簓が思うところだけれど。
「いーや、お前は絶対に済んだあと気にする。女の身体やとすんなりコトが運ぶし面倒ないからええんちゃうかとか思う。俺の家を賭けてもええで」
「賭けんな」
「そんで勝ったら現状維持、負けたら盧笙ン家に転がり込む」
「ちょっと負けたそうなんやめえ」
打てば響く突っ込みに笑みをこぼせば、ようやく盧笙の身体からもこわばりが抜けた。
それを合図に簓がそっと唇にキスを落とせば、おずおずと応えてくれる。舌先で唇をつついてやれば迎え入れられる口内は熱くぬめっていて、記憶よりも作りが小さくなっているのがわかった。
でも歯並びの感じや、簓の舌に応えてくれる動きは盧笙でしかないから、腰から背中、首の裏側へ走る痺れにも似た欲のまま口づけを深める。
「は、……ろしょ、気持ちええの?」
頷く小さな頭をよしよしと撫でてやれば、心地よさそうに伏せられる睫毛。小さく漏れる吐息はいつもより控えめで、いじらしさに胸が鳴る。
「ほんじゃあ触っていくから、ちょっとでも嫌やな思ったりしたら言うてくれな?」
「…………歯医者か。いちいち気ィ回さんとガッと来んかい」
「やって盧笙の初めてやろ? ……大事に触りたいし、触らして欲しいんや」
耳たぶをくすぐるよう指先を触れさせれば、もにょりと唇を歪めた盧笙がぺしりと簓の額を軽くはたく。痛みはなくツッコミとも違うそれにきょとりと目線を向ければ、首まで真っ赤に染めた愛しい恋人がなんとも照れくさそうにしながらも、真っ直ぐな視線を簓へ向けていた。
「お前に触られて、嫌なことあるわけないやろ」
「っあーーーーー、あかーん! お前発言にはもう少し気ィつけえよ! なけなしの簓さんの理性さらさら~言うて崩れ去るから――」
本気九割で警告していたのに、あろうことか盧笙は簓のシャツの襟首を両手でしっかり握り込み、首を伸ばすようにして口を物理で塞いできた。もがとかもごとか音とも声ともつかないものが、ふたりの口の間から漏れる。
至近で嬉しそうに細められた朝焼けに、脳内で必死につなぎ止めていた理性の糸がぷちりと切れたような音がした。ような気がした。
あとはもうブレーキが壊れたトロッコの如く、欲求という坂道に身を委ねてしまったわけだけれど、最後まで盧笙の口から嫌だという合図はなく、簓の持ち家とも言えるタワマンの一室も簓自身名義のままだった。
END