香水 ふわりと仄かに甘い香りが鼻腔を擽り、彼が側に来た事が分かる。ムーレンはこの香りが好きだった。大らかで優しい、リーチェンにピッタリの香りだ。お待たせ、と渡されたコーヒーを受け取ると、リーチェンの香りとコーヒーのビターな香りが相まって、アロマの様な香りが広がった。
「晴れて良かったな」
折角の海だもんな、とリーチェンはムーレンの言葉に笑顔で返す。
昨晩、急にリーチェンが、海を見に行きたい、と言い出したのだ。リーチェンが突発的に行動するのはこれが初めてではない。彼の行動にもう慣れっこになっているムーレンは、特に否定する事もなく、分かった、とだけ返事をした。天気によりけりな部分はあるが、まあ何とかなるだろう。いい意味で楽観的なリーチェンの考え方が伝染したのかと思うと、ちょっと不思議な気持ちになる。
突発で来た割には天気も良く、泳ぐにはまだ早いが、絶好の海日和だ。ムーレンの隣でコーヒーを飲みながら海を眺めているリーチェンは、燦々と降り注ぐ太陽に時折り目を細めながらも、いたくご機嫌な様子だ。
ムーレンも、キラキラと光を反射している水面に目を向ける。毎日過ごしている閉鎖的なオフィスとは比べ物にならない開放感。思わず砂浜を走り出したくなる。ああ、こんな場所で仕事が出来たら最高だな、とぼんやりと妄想するムーレンの頬に、何かが触れた。
「トントン、日焼け止め塗った?」
思いの外きつい日差しに、ムーレンの白い肌が気になったのだろう、そう言ってリーチェンの指がムーレンの頬を滑る。ムーレンは、うん、と言ってそのままリーチェンの指に手を重ねた。
「ほんとは焼きたいんだけど」
肌が白すぎるのは男としてどうかと思うんだよな、とひとりごちると、そんな事はない! とリーチェンが被せる様に言う。
「俺はお前の白い肌が好きだ!! スベスベで超綺麗だし、触り心地いいし、なんてったって」
……エロい、と、はにかみながら言うリーチェンに、ムーレンの方が照れてしまう。バカ野郎、と少し上気して赤くなっているであろう頬を隠す様に、リーチェンの胸に顔を埋めた。刹那、リーチェンの香りに包まれる。ああ、大好きなリーチェンの匂い。一緒にいる時も、抱かれている時もずっとこの香りに包まれる。幸せな、匂い。
「お前、ずっとこの香水付けてるな、どこの?」
今まで尋ねた事はなかったが、ふと聞いてみたくなったのだ。うん、と言ってリーチェンは某有名ハイブランドの名前を告げた。意外、と言えば意外だった。リーチェンはお洒落だが、あまり有名ハイブランドを所持している印象がない。ムーレンが意外だと言う表情をしていたからだろう、このブランドの物は香水しか持ってないけど、とリーチェンが言った。
「昔さ、俺のイメージに合う香りだからって、元カ……いや……と友達がプレゼントしてくれてさ、それから俺も気に入ってずっと使ってる……んだよな」
しまった、と言うような表情の後、何かを誤魔化すような乾いた笑いをするが、何も誤魔化せてないぞ、とムーレンは思った。
はあ、元カノのプレゼントね。
そう言う事もあるだろう。リーチェンと出会って五年と少し。年齢を考えると圧倒的にムーレンが知らないリーチェンの方が多い。リーチェンはこんな性格だし、ムーレンが出会ってからもリーチェンには彼女がいた事もあったし、過去もそうだろう。だから、昔の事は気にしても無駄だと思うし、自分はそんな事を気にする性格ではない、と思ってはいたものの、はいそうですか、と言えるほど、心は広くなかったらしい。
「お前のイメージに凄く合ってるよ、その友達とやらはお前の事よく分かってたんだな」
嫌味のつもりで言った訳ではなかったが、嫌味に聴こえてしまうのは、多少なりとも仕方ないだろう。ムーレンはリーチェンから離れ、海に視線を移した。
「ねぇ、トントン、俺のトントン、怒んないで」
リーチェンが困ったようにムーレンの顔を覗き込み、肩を抱いて引き寄せる。
別に怒っている訳ではないのだ。どちらかと言えば嫉妬に近い気持ちだろう。仕方ない、気にするな、と思えば思う程、心の端っこに付いた小さいシミは、徐々に滲んで拡がっていく。
「……別に怒ってない」
とん、とリーチェンの肩に頭を預ける。ふわりと甘い香りが広がった。とてもいい香りだ。この香水を選んだ女性は、リーチェンの事をちゃんと理解していて、そしてリーチェンの事が本当に好きだったんだろうな、と何となく思う。
僕だって、負けないぐらいリーチェンが好きだ。
翌朝。ムーレンが朝食のコーヒーを淹れていると、おはよう、と欠伸をしながらYシャツ姿のリーチェンが現れた。ゆっくりとムーレンに近づくと、頬に口付ける。そして、ムーレンも口付けを返す、これが付き合い始めてからの毎朝の日課だ。リーチェンがムーレンの頬に口付けた瞬間、ムーレンは何か違和感を感じた。……匂いだ。
「リーチェン、今日は匂いが違う」
どうした? と問うムーレンに、ああ、とリーチェンが目尻を下げた。
「いや、たまにはイメチェンでもしようかなって」
嘘だ、とムーレンは思った。出会ってこの方、リーチェンがいつもの香水以外のものを付けたことは、ムーレンの知る限りないと言っていい。彼の事だ、昨日の事を気にして、違う香水を付けたに違いない。彼の気遣いが、またムーレンの心のシミを拡げていく。同時に怒りにも似た感情がムーレンを蝕む。
「……僕の事を気にしてるんだろうけど、そんなの気にしなくていいから」
イラついたようなムーレンの声色に、一瞬リーチェンの表情が固まった。そして、おずおずと言葉を選ぶようにして言う。
「……トントンが嫌な思いをする様な事したくないんだ、俺。トントンにはずっと笑ってて欲」
「だからって!! お前が長年気に入ってる物を捨てるのか? 僕が気に入らないってだけで!!」
ムーレンの中で何かが弾けた。理不尽な事を言っているのは分かる。ただの醜い嫉妬なのだ。別れてしまったとは言え、プレゼントされたものを長年愛用すると言うことは、それだけ良い関係だったのだろう。リーチェンが、自分以外の人間と深く愛し合っていたと言う事実を突き付けられる事が気に入らない。そして、それを無かったことにさせようとしている自分の醜さも気に入らない。色々な負の感情がぐるぐると渦巻いて、感情がコントロールできない。
暫くの沈黙の後、そうだよ、と静かにリーチェンが言った。
「それの何がいけない? 俺はお前を大切に思ってるし、悲しませるような事はしたくない。お前の為なら俺が持ってる何もかも捨てたっていい」
それだけ言うと、リーチェンはジャケットと鞄を掴み、そのまま出て行ってしまった。バタン、と言うドアの音が響き、静寂が訪れる。
喧嘩がしたい訳じゃ無いのに、とムーレンは無気力に椅子に腰を下ろす。自分勝手な嫉妬で、リーチェンを怒らせてしまった。自分の愚かさに思わず笑いが込み上げる。こんなんじゃきっと、あの元カノの足元にも及ばないな、と漠然と思えば、己の情けなさに視界が滲んでいく。ぽたり、と落ちた雫はテーブルクロスにシミを作り、そして消えていった。
その日のムーレンの仕事ぶりと言ったら、散々だったと言っても過言ではない。集中力がさっぱり欠けてしまっていて、書類を作るも不備が多すぎて逆に部下に心配されてしまう始末だ。いつもだと、さっと終えてしまう書類作成が終わらず、ムーレンは一人、事務所で残業をしていた。リーチェンももう帰ってしまったようだ。帰り際、何か言いたげな視線を感じたが、その視線にどう答えて良いのか分からず、結局無視してしまう形になってしまった。一日考えたが、未だにリーチェンに掛ける言葉が見つからない。ただ、ごめん、と言えば良いだけだろうが、そのきっかけも掴めない。今日はシンスーの家に泊めてもらおうかとすら思ってしまう。シンスーに連絡を入れようと携帯を取るが、ただ問題を先延ばしするだけだと考え直し、そのまま机に置いた。
やっと書類を作り終えて時計を見ると、もう二十一時を過ぎていた。会社に泊まる訳にも行かないし、とムーレンはのろのろと帰宅の用意をする。リーチェンになんて言おうか、と足取りも重く会社の玄関を出ると、突然、背後から抱きしめられた。誰、と聞かなくてもこの温もりは知り過ぎるほど知っている。お前、先に帰ったんじゃないのか、とボソリと言うと、トントンが帰って来なかったら嫌だから待ってた、とムーレンを抱く腕に力がこもったのが分かった。
「俺バカだから、トントンが何で怒ってるか分からないんだ。俺の愛し方が悪かった? ちゃんと直すから言ってよ、俺にはお前しかいないんだ」
今にも泣きそうな声でリーチェンが言う。
……ああ、やめてくれ、お前が悪い訳じゃないんだ、全部僕が悪いのに。
違う、と気力を振り絞って漸くそれだけが言えた。声が震える。
「お前は何も悪くない。ただの……僕の嫉妬なんだ。昔のお前と、彼女に嫉妬した。そして、お前にとって良い思い出だったに違いない物を、お前に捨てさせようとした僕自身に腹が立った」
抱きしめるリーチェンの腕にゆっくりと触れる。彼の腕に触れる度、想いが溢れてくるのがわかる。その想いがムーレンの瞳から溢れ、雫となった。
「好きだよ、リーチェン、大好きだ。僕以外の人を好きになってた昔のお前も好きだ。僕はお前の……全部が好きだよ」
八つ当たりしてごめんな、と自分の思いを言葉にすると、ずっと澱のように溜まっていた醜いものがスッと無くなっていく。正直にそう告げていれば、すれ違う事もなかった。
リーチェンはムーレンの言葉を静かに聞いた後、ゆっくりとムーレンを自分の方に向かせ、そっと唇で涙を拭った。泣かないで、と優しく微笑んで口付ける。
「嫉妬するぐらい俺の事好きになってくれてありがとう。俺もトントンの事、どうしようもないくらい好きだよ」
本当に好き、愛してる、と囁きながら口付ける。深くなる口付けから、リーチェンの思いが流れ込んでくるようで心地よい。リーチェンの全身がムーレンに愛を囁いているようだ。彼の思いに偽りはない。そして自分の思いも。
「お前の香りも好きだよ、あの香りを嗅ぐ度、お前の事と、お前との幸せな時間を思い出す」
誰から貰った物かなど、もう関係ない。あの香りも、自分の愛するリーチェンの一部なのだから。
一体何を思い出すんだ? と、いつものいたずらっ子のような笑顔でリーチェンが尋ねる。暫くその意味が分からなかったムーレンだが、分かった瞬間、彼の肩に顔を埋めた。
「……今晩も幸せにしてくれるんだろ?」
きっと今、自分の顔は真っ赤になっているに違いない。仰せのままに、と嬉しそうに答えるリーチェンに軽く口付ける。そうとなれば、とリーチェンはムーレンの手を取り、歩き始めた。彼の体温を感じながら、今度リーチェンに自分に合う香水を選んで貰おうかな、とぼんやりと考える。彼が選んでくれた香りは、きっと一生、自分の香りになるだろうから。