残基、おそらくあと少し「あれ、なんか帰ってくんの遅くない?」
最初に異変に気づいたのは、トド松だった。
いつも通りのけろっとした何となく腹立つあの能天気な顔で、いつも通り松野家のドアを開けて、いつも通り「ただいまー」と告げたおそ松兄さんに、トド松は確かにそう言った。
「え? そう?」
「そうだよ。今までは一日くらいで帰ってきてたでしょ? なのにおそ松兄さん、あれから三日だよ。今までどこほっつき歩いてたの?」
「うわ、ひでー言われよう。別に寄り道してたんじゃないからね? まっすぐ帰ってきたから!」
「えー怪しい。実は競馬とか行ってたんじゃないの? ま、ボクには関係ないからいいけど」
お前ってホッントドライだよね……、とおそ松兄さんが呆れたように目を細める。
横目で二人の様子を窺ってみても、やっぱりおそ松兄さんの様子に変わったところはないように見えた。何も考えてなさそうなテキトーで憎たらしい顔は、高校に入ってからのここ数年ですっかり見慣れた顔そのものだ。
変わっているところは何もない。
──おそ松兄さんの服が、ところどころボロボロに破けていること以外は。
一
おそ松兄さんが死んだ。
たった三日前の出来事だ。イヤミと宝探しに出掛けて、そのまま。
おそ松兄さんが出掛けた翌日、あまりにも暇すぎて退屈しのぎに散歩をしていた僕は、イヤミが河川敷でネコと格闘しているのを見かけた。
おそ松兄さんと宝探しに出掛けた筈なのに、何でイヤミがここに?
早々に宝探しを諦めて戻ってきたんだとしても、何でまだおそ松兄さんは家に帰ってきてないんだろう。
そう思って問い詰めてみたら、イヤミはあっさりと白状した。
「崖から落ちて死んだザンス」
どうやら、なかなか目的に辿り着かないことにヤキモキしたおそ松兄さんが、「こっちの方が近道っぽいから」と、宝の地図を無視して崖を降りてしまったらしい。そして足を滑らせて、そのまま御陀仏に。毎度思うけど、本当にバカなヤツだ。
死んだ理由が理由だから、呆れて声も出なくて、勿論悲しい気持ちなんて一切沸かなかった。だってこんなのは日常茶飯事だ。
そもそも僕たちはギャグの世界、それも、赤塚ワールドの住人だ。一回や二回死んだところで、痛くも痒くもない。いや、死に際は結構しんどいか。死にそうになるほど。まあ実際死ぬんだけど。
でも僕たちは、死んでも確実に生き返る世界にいる。一晩寝たら元通り、それがこの世界のお約束。いつの間にか復活して、どこからともなくフラッと現れて、松野家に戻る。
体感的には、深夜、気づかぬうちに家の布団で寝ていることが多い。赤塚区内で死んだのなら、死んだ場所で生き返ることもよくあった。
生き返るときの感覚は寝起きの感覚に近い。頭がフワフワしてて、ぼやけた視界が少しずつ鮮明になって、そこでようやく「ああ、また死んだんだな」と気づく。別に悲観するでもなく、あーよく寝たとばかりに大きく欠伸して伸びもする。家から離れた場所で復活したのなら、歩き慣れた家までの道を何となく歩いて帰る。
死ぬこと自体は僕たちにとって、寝起きの欠伸ひとつで片付けてしまえる些細なことだった。
「ただいまー」
そして、そこから二日後、やはりおそ松兄さんはピンピンした顔で、松野家へ帰ってきたのだった。
おそ松兄さんが死んだ。
今度はラーメンが原因らしい。どういうことだと思ったけど、どうやら深夜にカップラーメンがどうしても食べたかったらしく、キッチンへ向かおうと母さんの罠にこっそり挑戦したのだそうだ。
勿論母さんの方が数枚上手で、結局おそ松兄さんがキッチンの電気を点けた瞬間に、部屋ごと爆発して死んだ。
爆発の音で目が覚めた僕たちが、ドタバタ足音をたてながら何だ何だとキッチンへ向かうと、おそ松兄さんが黒焦げのチリチリパーマになって倒れていた。
(ほんと何やってんだコイツ)
その場にいた兄弟全員がそう思ったことだろう。
焦げたおそ松兄さんを退かして、玄関先に放り出してから、僕たちはもう一度寝室へ向かい、眠りに落ちた。
深夜の出来事だったからか、爆発でめちゃくちゃになったキッチンは、日の出とともに綺麗に修復されていたようで、目覚めたときにはすっかり元通りになっていた。
僕の布団の右隣は、空いたままだった。
おそ松兄さんが元気な姿で帰ってきたのは、あれから五日後のことだった。
おそ松兄さんがまた死んだ。性懲りもなく。
どうやら今度はおそ松兄さんの乗った飛行機が宇宙人の光線によって塵になったらしい。
「飛行機って……何でまた?」
「オイラもあんまり詳しいことは聞いてねぇけどよ、まあ、ちょっと前にハタ坊が『美女を集めて南の国でバカンスだジョ~』とか言ってたっけ。おそ松のことだから、ごねて着いて行ったんじゃねーのか?」
脛かじるのだけは一丁前だからなアイツはよ、とチビ太は腕を組んで言った。おでん屋台の提灯が仄かに光り、まれに暗くなる。
なんかムカつく。気分が悪い。胸の辺りがムカムカする。僕らを置いて自分だけ楽園に行こうとしてたことが。……いや、それも確かにムカつくけど、それだけじゃない気がする。頭の後ろの方がモヤモヤして、胸に黒い影が広がっていく感覚。
『なんか帰ってくるの遅くない?』
いつかのトド松の言葉が頭から離れない。
鼓動がいつもより少し速くなっているのを感じる。
「チョロ松? どうしたんだオメー」
「あ、ううん、何でもない。帰ってきたら一発殴ってやろうと思ってさ」
「ヘッ。死んだ上に弟から制裁受けるとか散々だなアイツ。まあ自業自得だけどよ」
チビ太がニッカリと笑い、ほらよ、と小皿に卵や大根をよそって渡す。卵を半分に割って口に入れると、おでんの汁をよく吸った濃厚な旨味が広がる。大根に箸を入れれば、ほろりとほぐれる。チビ太のおでんを食べると、不思議と心もほぐされていく。
「……そういえばチビ太」
「ん?」
「僕、今日金持ってない」
「は?」
その後おそ松兄さんが帰ってきたのは、飛行機事故から一週間後のことだった。
「ただいまー。……おそ松兄さんは?」
「おかえり。今さっき帰ってきたとこ。上で寝てる」
「帰ってきて早々? ホント自由なやつだな」
「うーん。なんか結構疲れてそうな顔してたよ? 変な死に方でもしたのかな」
いや変な死に方ってなんだよ、と思ったけど口には出さなかった。地下アイドルイベントで買った戦利品を居間に置いて、襖を開ける。
「今回もちょっと遅かったね」
スマホを見ながら、トド松が言う。何でもないような声色に反して、スマホを眺める瞳を覆う目蓋は、普段よりも少し重たそうだった。
「ハッ、日頃の行いのせいだな」と吐き捨てる。
襖を閉じて、二階へと足を運んだ。
そろりと二階の襖を開くと、もう夕方になると言うのに、あの長布団の中でおそ松兄さんがイビキをかいていた。
側に腰を下ろして、鼻を摘まむ。フガッと苦しそうにしてる顔が面白くて、ふは、と息が漏れた。
「ほんと、いつ見てもバカ面だな」
だれに言うでもなくひとりごちる。一発殴ってやろうかとチビ太には言ったけど、なんだか今はそんな気分にはなれなかった。
「海外旅行に行ったときも、地獄に行ったときも……僕たちって本当に飛行機に恵まれないよね、おそ松兄さん」
聞いていないのはわかっていたけど、何となく話を続けた。
「お前がいないと結構平和だよ。人のもの壊したり売ったりするヤツはいないし。洗濯物も食器も一人分減るから、母さんもちょっとは楽だろうしね」
おそ松兄さんの顔を覗き込む。よく見てみると、目の下に隈があった。
「……あ、でも最近、銭湯終わりのコーヒー牛乳誰が一本まるまる飲むかで乱闘起きてんだった。お前の帰りが遅いせいだよ、どーしてくれんだコラ」
ほっぺをツンと強く指で指すと、「んん~……」と嫌そうに顔を背けた。……生きてる。
「……おそ松兄さん、お前、何で最近帰ってくるのが遅いんだよ。お前のせいで僕、毎晩寒くて眠れないよ」
おそ松兄さんはまたフガッと返事をした。
二