レンタル彼氏2「おはよう藍湛」
一日魏嬰を貸し切った日。待ち合わせ場所に先に居たのは魏嬰の方だった。
「待たせて悪い」
「いや、たまたま一本早い電車に乗れただけだから」
そんなに待っていないと云う魏嬰の笑顔は無垢だ。
「で、どこへ行く?」
「魏嬰が行きたい所へ」
「え、藍湛はノープランな訳?」
誘っておいて人任せは良くないぞ、と悪戯に睨まれ、私は小さな溜息を吐き出した。
「アートアクアリウムに」
「アートアクアリウム?」
「魏嬰が興味があれば」
行ってみたいと思っていたと呟いたら、魏嬰は「なぁんだ」と肩を揺すった。
「藍湛が行きたいなら俺も行ってみたい」
そんな軽い同調は決して私だけに向けられているものではないのだと思うと胸の奥が軋む。
商売だとはいえ、客の云うことの大概を受け入れるのだろう魏嬰の人懐っこさを考えたら、それだけで気持ちが塞がりかけた。
けれども今日は一日魏嬰を独り占め出来るのだ。
気を塞いでいても仕方がない。
貴重な時間を無駄にしている場合ではないだろう。
一昨年建て替えた施設は広々としていて展示物が悠々と眺めることが出来た。
最先端の現代美術とアクアリウムが融合した光景は色彩の暴力とも云える鮮やかさで、圧倒されると同時に、こんな景色を仕事でも活かせたら良いなとも思った。
「藍湛」
呼び掛けに、うん? と振り返ったら、おもむろに手を繋がれた。
「はぐれないように」
「しかし、」
「展示に夢中で誰も気にやしないよ」
それとも嫌? 下から私の顔を覗いてくるのは反則だ。
嫌ではない、という主張を唱える代わりに、私は魏嬰の手指に手指を軽く絡ませた。
こんなことを、他の奴にもしているのかと思ったら、腸が煮えくり変えそうではあったが。
魏嬰に惹かれたのは、彼が私を一切特別視しなかったからだ。
「藍忘機、って呼ぶと仕事気分が抜けないだろ? 俺のことは魏嬰で良いから、藍湛て呼ばせてよ」
白い歯を覗かせて咲かせた、その笑みにやられた。
「こんな男前を連れて歩けるなんて、俺はツイてるな」
ふんふんと鼻歌を歌いながら軽い足取りで歩く魏嬰に、それはこちらの台詞だと思った。
魏嬰だって顔の造作は整っているし、身長もそこそこ高い。
事務所に紹介すれば、彼もモデルの一人として起用されてもおかしくない程度には所謂イケメンの類に入るだろう。
「藍湛、藍湛。空が綺麗だ」
夕方から予約したから、空は様々な色彩で彩られている。
「……本当だな」
こんな風に空を見上げるのはいつ振りだろう。
コンクリートジャングルばかりを目下にしてきた私には久々の自然との対面だった。
魏嬰と居ると不思議と肩の力が抜けた。
それは彼が気安いーーしかし心配りの機微に敏感なーー性格だからだろう。
「また会いに来てよ」
商売文句であろう言葉でもそれは私の胸の奥に染みて、二度目、三度目と魏嬰を指名する回数が増えたのだった。
独り占め出来るのであれば、独り占めしてしまいたい。
自分だけを見て欲しい。
そう願うのはきっと私だけではない筈で。
だけど、いや、だからこそか。
私は魏嬰の中でも『特別』になりたくて、隙を見付けては少しでも魏嬰と会う約束を取り付けていた。
アートアクアリウムを堪能した後は敷居の低いイタリアンレストランで昼食にした。
歳はさして変わらないと思うが、魏嬰は育ち盛りの少年のようによく食べた。好印象を持つのは、食べ方が綺麗だからだ。
綺麗に食事をする人間は人格も破綻していないことが多い。
加えて、何でも美味そうに食べるその顔を見ているだけで密やかに微笑が口端に滲んだ。
その後はデパートへ行き、互いに服を見立て合い、魏嬰に似合うと思った服は惜しみなく買ってやったり、一休みしようとカフェでのんびりしていたら、あっという間に契約の時間が終わりに差し掛かっていた。
「今日も楽しかった」
ありがとう、と笑む顔の攻撃力といったら。
こっちこそ、と。ここで柔らかく微笑めない自分がもどかしい。
「また、」
誘っても良いか? と訊く前に、魏嬰が私の手を軽く取って握った。
「また待ってるから」
仕事頑張って。あぁでも無理はしない程度に、と。
付け加えられた心遣いが私の心を浮つかせる。
「魏嬰」
「うん?」
小首を傾げる魏嬰に、数回唇を空回りさせてから、いやと小さく首を左右に振る。
「興味があれば、今度私が載っている雑誌を持ってくる」
云いたかったことと全く違う台詞を吐き出したら、魏嬰はくすくすと肩を揺らして必要ないと笑った。
「そんなことしなくても、俺、藍湛が載ってる雑誌集めてるから」
今度お気に入りをスクラップしてくるよと云う魏嬰の細やかさには驚いた。
「誰にでもそんなことをしているのか?」
そんな台詞は嫌味ったらしくならなかっただろうか。
けれども魏嬰は気にする様子もなく明るく笑った。
「単純に藍忘機のファンだから」
他意はないとばかりの台詞に、私はほんのりの睫毛を伏せるしかなかった。
「じゃあ、また」
「あぁ、待ってる」
じゃあな、と云う魏嬰は私が改札の向こうに消えるまでそこに立って私の背を見詰めていた。