レンタル彼氏9 魏嬰を一週間貸し切るという前言は彼がシフトを出す一ヶ月前から申請していた。
このフリーの一週間を空ける為に私は多少の無理はしたが、それでもたまにはリフレッシュする時間がないとパフォーマンスも落ちると二冊の雑誌社に訴え、スケジュールを詰めてもらいどうにか休みをもぎ取った。
「魏嬰」
「うん?」
初日。いつもとは違う、モダンな喫茶店でコーヒーを啜りながら魏嬰に声を掛ける。
「旅行は行ったことがあるか?」
「旅行?」
「客と」
短く続ければ、魏嬰は腕を組んで天井のシーリングファンを眺めてから視線をゆるりと落としてきた。
「日帰り旅行なら」
「泊まりは」
「長期間予約を貰っても一緒に行動出来る時間は普段と変わらないから」
泊まりで旅行は禁止されていると云う魏嬰に、そうかと僅かに項垂れる。
「藍湛、旅行に行きたいのか?」
単なるリフレッシュの為にだろうと思っていそうな魏嬰の口振りに頷いたのは本音と建前が半々。いや、建前の方が大きいか。
「ただ、お前と行けたら良いなと……少し思っただけだ」
「うーん……」
またシーリングファンを見上げた魏嬰は「あー……」と小さく唸ってから少しだけ首を傾げた。
「藍湛だったら良いかなぁ……」
微かな呟きを私は聞き逃さなかった。
「だったら、とは?」
「いや……ほら、万が一何かあったら困るじゃん?」
万が一、とは、と問いかけて、あぁと合点する。
「ない」
「よな」
確かに魏嬰に惚れ込んでいる自覚はあるが、彼をどうこうしようという気は毛頭ない。
「黙ってれば大丈夫かな」
そう言ちる魏嬰は私と旅行に行っても良いと思ってくれているのだろうか。
「無理なら無理で構わないが……」
あくまで良客を装う私に、魏嬰は再び唸った。
「藍湛と旅行、っていう案は捨て難い……」
「他の客とは」
「んー……あんまり?」
「どうして」
「何となく。藍湛とは気楽に居られるからかな」
「気楽なのか?」
「あぁ、気楽にしてる。付き合い長い客って大体あわよくば、を狙ってるのが段々判ってくるから逆に気を抜けないというか」
その点藍湛は何となく安心していられる、というのは単純に喜ばしいものだと思っておこう。
「因みに、どこへ行くつもりなんだ?」
問われ、近場で有名な温泉地の名称を挙げれば、魏嬰はまたもや唸ってから俯き顔を両手で覆った。
「温泉……めちゃくちゃ行きたい……」
足伸ばして思う存分風呂に浸かりたいと唸る魏嬰は、あとひと押ししたら落ちるだろうか。
「内湯のある景色が良い宿を見繕ってはいるが」
無論食事も美味い所を、と付け足す。
「うわぁ、誘惑が……っ」
「一泊ではゆっくり出来ないだろうから、二泊くらいで」
「温泉浸かりたい放題……」
「あぁ」
「…………」
私の提言に魏嬰は暫く、あーだのうーだの呻いてから、手を少しだけ下げて私を見詰めながら小さな声で呟いた。
「……行きたい」
くぐもった声はそれでも私の案に乗り気を見せるものだから。
「ならばすぐに宿を予約する」
「や、ちょっ、待っ、あー……うぁー…………」
一応暫し規則との狭間で葛藤しているらしい魏嬰は少ししてから顔を覆っていた手をパシン、と合わせて一人大きく頷いた。
「行く……行きたい」
漸く出た答えに私は満足して僅かにだけ目を細めた。
実はもうひと月前から予約は取ってあるのだ。魏嬰が頷かなければキャンセルすれば良いだけの話だと思っていて。
「交通手段は電車?」
「車を呼ぼうかと」
「藍湛って免許持ってなかったっけ?」
「一応あるが」
「ペーパー?」
「いや」
たまにだが、感覚を忘れないようにと深夜の環状線を走ることはある。
「……俺、藍湛が運転してるとこ見たい」
「…………」
「あー、でも特別列車で行ったことないから電車も捨て難い……」
また、あーうーと唸る魏嬰に、それじゃあと私はひとつの提案。
「行きは車で、帰りは列車、というのは?」
「え、車どうするんだよ」
「代行に頼めば良い」
「成る程……そういう手もあるか……」
流石藍湛、頭が回ると云われて悪い気はしない。
「じゃあ、それで……」
「判った」
決まりだなとコーヒーカップに口を付けたら、魏嬰も嬉しそうな顔をしてアイスコーヒーのストローを咥えた。
得てしてその二日後。私は待ち合わせた場所に車を付けた。
少し大きめのデイバックを後部座席に置いて、助手席に滑り込んできた魏嬰。
「旅行、楽しみ過ぎてあんまり寝られなかった」
くすくすと肩を揺らす魏嬰に自分もだとは云わないでおく。
「シートベルト」
「判ってるって」
カシャン、とシートベルトが装着された音を聞いてから、私はハンドルを握り直した。
環状線から高速に入って少しも経てば左右には森林が多く見えるようになる。
窓辺に肘を置いて頬杖をつく魏嬰の視線は左に行ったり正面に行ったり。
こちらを見てはくれないのか、と肩を落とし気味にしたら、くるっ、と魏嬰の顔がこちらに向いた。
「藍湛、運転上手いな」
「……そうか?」
「あぁ、全然揺れないから安心して乗っていられる」
それは他の客と比較して、なのだろうか。
「あっ、なぁ、次のサービスエリア寄ろう」
緑の看板を指差しながら魏嬰が声を弾ませる。
「構わないが」
「あそこのサービスエリアのソフトクリーム、美味いんだ」
それを知っている理由は聞かずとも理解出来たから、私は静かに頷いた。思い出を上書きするのに丁度良い。
そこそこ埋まっているパーキングの隙間に一発で駐車すれば、おぉと隣で洩れた感嘆の声。
「流石、藍湛」
やっぱり運転上手いな、と笑いながら魏嬰は外へ躍り出た。
「あー、もう空気が違う!」
都会の空気じゃないと体を大きく伸ばしながら、魏嬰は出店へと歩いた。
「あれ。あのみかん味のが美味いんだ。このサービスエリア限定の味」
ほう、と相槌を打ちながらそれを買って手渡してやる。
「んー、やっぱ美味い……って、藍湛は食わないのか?」
「私は良い」
「えー、でも食ってみろよ。ほらひと口やるから」
ひと口分欠けたソフトクリームをずいと目の前に出されて刹那だけ戸惑う。
しかし好意を無碍にする訳にはいかず、ひと口だけ貰うことにする。
口の中に広がった爽やかなみかんの味は確かに美味い。
「どうだ?」
「美味い」
「だろう?」
嬉々とした表情を浮かべる魏嬰は遠出にはしゃぐ子供みたいだなと微笑ましくなった。
魏嬰がソフトクリームを食べ追えるのを待ってから、車中に戻る。
「あと一時間くらい、か?」
「高速は。下りてからまた一時間近く掛かるだろう」
「りょーかい」
私の概算に頷いた魏嬰を横目に見ながら、アクセルを静かに踏んだ。
目算通り、高速で一時間と少し。下りてから下道を四十五分程車を走らせた先に予約していた旅館へと辿り着いた。
二人して後部座席に置いていた荷物を持ち出し、玉砂利が敷かれた園庭を左右に歩いてフロントに向かう。
チェックインを済ませて女将に連れられフロントのある本館から木板の廊下を歩む。左右両面ガラスになっている向こうには丁寧に整えられた松や梅が品良く植えられている。
廊下が一度切れ目を見せて、用意されていたサンダルに足を通してから二分程歩いた別宅が私の選んだ部屋だった。
部屋に上がる前にちょいちょい、と服の裾を引かれる。
「藍湛、ここ……」
「静かに」
口許に人差し指を当てたら、魏嬰は唇を舐めてから黙った。
座敷に座るよう促され、茶を淹れた女将が部屋を出ていくのを確認してから、魏嬰は大きく息を吐いた。
「藍湛、ここってもしかしてカナリ良い所じゃ……」
「折角魏嬰が一緒なのだから少しぐらい贅沢したって問題はない」
「いや、贅沢過ぎないか?」
立ち上がって、魏嬰は部屋の中をぐるぐると歩き回り始めた。
座敷の左手側には布団を敷く為の小さな部屋。
そこから右へ直角に体を向ければ今は障子窓が開かれている室内テラス。木製の小さな円卓と籐製の椅子が向き合って二脚。
その奥には山脈を抜けて海の端までが見える。
そうしてまた九十度右を向けば、木枠の戸。魏嬰が恐る恐るといった様子で戸を滑らせた直後「うーわ!」と感嘆とも呆れともつかない声が聞こえた。
「藍湛、凄い。景色が凄い。というか、内湯? これ内湯のレベルか? めちゃくちゃ広いぞ?」
「足を伸ばして湯に浸かりたかったのだろう?」
「いやそりゃそうだけど、これは、え、藍湛俺に甘過ぎないか?」
ここまでの待遇は初めてだと逆にそわそわしだした魏嬰が少し面白い。
「え、何か俺、場違いじゃ……」
「そんなことはない」
大丈夫だと茶を啜り、成る程茶葉も良いものを使っているなと満足する。
座敷に戻って来て私の正面に腰を落とした魏嬰は、卓に一度顔を伏せてから首の角度だけを変えて私を見上げた。
「こんなにもてなされて良いのか……?」
「良いも悪いも、私がしたくてしていることだ」
特別憂うことなどないと湯飲み茶碗を傾けたら、彼は「ひぇー」と間の抜けた吐息を洩らしてから顎の下に腕を組み敷いて眉尻を下げながらも目をキラキラさせながらへらりと笑って「連れて来てくれてありがとな」と素直な謝辞を投げ上げてきた。
その謝辞に嫌味などは一切ない純粋なもので、私の口許は微かに綻んだ。
「よし、藍湛、俺早速風呂に浸かってくる!」
「あぁ」
あそこに浴衣が置いてあるから使うと良いと部屋の隅を指差せば、魏嬰は浴衣と帯、またその隣に畳んであったバスタオルを手に木枠の向こうへ意気揚々と消えて行った。
その背を見送ってから、ほうと小さな溜息。しかしそれに憂色は滲んではいない。
「喜んでもらえている……のだろうな」
あのリアクションを見る限り、とキラキラ輝いていた双眸を思い返して安堵に浸る。
茶を干してから、私は私で景色の麗しいテラスに出て籐椅子に腰掛ける。
こんな自然の中に身を置くのはいつぶりだろうか。初めてではないにしろ、こんな自然豊かな場所でのんびりした覚えは淡い霞の向こうだ。
「ありがとう、か……」
それは私の台詞かも知れない。
魏嬰が居なければこんな所へ来ることもなかっただろう。
少しだけ窓を開けたら涼やかな風が頬を撫でた。
すっ、と。日々抱えている煩わしさが凛とした空気で洗われるような気がした。
「っあー! 気持ち良かった!」
暫く風に当たっていたら、魏嬰が風呂から出て来た。
浴衣姿で濡れ髪をタオルでわしゃわしゃと掻き乱す彼の頬は上気していてほんのり桃色だ。
「藍湛、温泉すっごい気持ち良かった。肌がすべすべする。藍湛も入って来いよ」
「……あぁ」
濡れた髪と上気した頬の艶っぽさから目を逸らすよう私も魏嬰と入れ違いに内湯へと体を沈めた。
「……少し、目の毒かも知れない……」
口許まで湯に浸かっていた所為で、湯がぼこぼこと不格好に揺れた。
内湯から出れば、今度は魏嬰が籐椅子に座って風に当たっていた。
「藍湛、風が気持ち良い」
「私もさっきそう思った」
「俺これだけでも満足だ」
「まだ食事があるし、明日は観光をするのだろう?」
「そうだけど。それも楽しみだけど。今現時点でもう幸福度がカナリ高い」
両腕を広げて籐椅子の背に完全に身を任せる魏嬰の頬はもう普段の色だった。
夕食は十八時。大きな卓に広げられた料理は山の幸から海の幸まで盛り沢山だった。
お酒は、と仲居に問われ、魏嬰が私の顔色を窺ってくる。
「ここで一番質の良い酒を」
一升瓶ごとと付け加えたら、仲居はにこやかに頷いて酒を取りに行った。
戻って来た仲居の手にはグラスがふたつあったが、私はそのひとつにだけ酒を満たして魏嬰の前に置いてやった。
「うわっ、これ本当に良い酒だ!」
瓶のラベルを見て驚嘆の声を上げる魏嬰に、そうなのか? と首を傾げる。
「そう。めちゃくちゃ良いやつ。普通の居酒屋にはまず置いてない」
そう云いながらグラスに口を付けた魏嬰は肩の力を抜いてふわりと笑った。
「ん〜、美味い」
「それは良かった」
「藍湛も飲めれば良かったのに」
グラスの縁を舐めながらそう云う魏嬰に、私も残念だと肩を竦めて鮑の磯焼きに箸を伸ばした。
夕飯を食べている間に仲居が隣の部屋に布団を敷いて行ってくれた。
綺麗に平らげ、ご馳走様と手を合わせた魏嬰の仕草を好ましく思いながら茶を啜っていたら、卓を離れて寝所に向かった魏嬰は「はっ、」と驚きの吐息を吐き出した。
「どうした?」
魏嬰の後を追って寝所を見れば、特段不思議なことはない。
「これが何か?」
「いや、布団の位置近過ぎないか?」
殆どくっ付いてるじゃないかと私を見てくる魏嬰の視線に促されて改めて寝所を見れば確かに布団は殆どくっ付いて並んでいる。
「…………」
うむ。これは、これで善し悪しかも知れない。
だがしかし寝所は両脇に置物が鎮座して場所を取っており、まるで二人が寄り添って眠ることを前提にしたような造りだ。
お互い何故さっき気付かなかったのだろう。
「……まぁ、俺は良いけど……」
藍湛は落ち着かないんじゃないか? と顔を覗き込んできた。
「……別に、」
私も構わないが……と答えたのは、ここで落ち着かないと正直に云ってしまったら魏嬰が布団を座敷に持ち出し兼ねない気がした。それはそれで勿体無いと思ってしまう私は不埒だろうか?
「……判った!」
ポン、と手を打った魏嬰は座敷から座布団を持ってきて布団と布団の隙間にそれ半分に折って並べた。
「ここが境界線。お互いここからはみ出ないようにする」
これでどうだ、と私を見てくる魏嬰に、お前がそれで良いのなら……と頷く。
「よし、じゃあこれで」
大きく首を縦に振った魏嬰は、くるりと身を翻して酒の瓶とグラスをテラスへと持って行った。
「藍湛、少し窓開けてて良いか?」
障子は閉めるけど……と付け加える魏嬰に、いやと私もテラスに踏み込む。
「どうせなら話をしていたい」
話題は何でも良い。ただ、魏嬰と過ごす時間を少しでも多く取りたかった。
「ん、判った」
物判り良く私を向かいの籐椅子に手招く魏嬰は、酒のお陰か機嫌が良さそうだった。
上機嫌な魏嬰はいつもよく喋る。
この夜は明日巡る観光地の下調べの話だった。
こことあそこに行きたい。それと余裕があったらあっちにも行きたい、と。テンプレのような予定しか組んでなかった私は急いで頭の中で予定を組み直した。
魏嬰が訪れたいというのなら、どこへでも連れて行ってやりたかった。
魏嬰が宵っ張りなのは今までの付き合いで知っていたから、私は名残惜しさを感じながらも日付を超えて少ししてから先に眠ることにした。魏嬰に付き合って夜更かしをし、明日に差し支えるのは困ると思ったからだ。
先に寝る、と告げたら、魏嬰は「早くないか?」と僅かに唇を尖らせながらも、おやすみ、と私を無理に付き合わせることはなかった。
そうして先に眠りに就いた私は、明け方自分以外の体温を肌の外側に感じながら薄らと瞼を持ち上げてから、すぐにぎょっと目を大きく見開いた。
何故なら額がくっ付きそうな間近に魏嬰の顔があったからだ。
「うぇ、い、いん……」
そっと肩を押すが、逆に腕が伸びてきて私の背中に回ってきた。
これは、駄目だ。余りにも刺激が強い。どうすることも考えてはいないが、それでも刺激は強い。
「魏嬰……起きろ……」
肩を強めに揺すったら、魏嬰は「んん……」と喉の奥を慣らしてからゆるりと睫毛の絡まりを解いた。
「…………らん、じゃ、ん?」
先の私同様一度目を見開いてから、今度は忙しなく瞬いてバッと腕を張った。
「え、あ、え?」
単語になりきらない声を発しながら、魏嬰は背に座布団の存在を認識したようガバリと起き上がって私に向かい土下座をしてきた。
「悪いっ、藍湛! 俺が決めたのにいつの間にか転がってた……みたいだ……」
「あ、あぁ……いや、取り敢えず顔を上げてくれないか……」
意図していない行動ならば仕方がないことだ。
「……俺、自分の寝相が悪いこと忘れてた……」
がっくりと項垂れる魏嬰に、気にしていないと若干の嘘を吐く。
いやしかし嫌悪感があったかといえば、なかった方に傾くのだから嘘でもないか。
「大したことではないし、」
気に病むなとそっと魏嬰の指先に触れたら、魏嬰は無意識なのか私の指に指を絡ませ「本当に悪かった」と繰り返した。
魏嬰は誰にでもこんな風に触れるのだろうか。わたしにとってはそちらの方が大問題だった。
「今日は沢山回りたい所があるのだろう?」
指を解くでもなく魏嬰の顔を下から覗き込んだら、魏嬰はこくりと頷く。
「ならばこのことはお互い忘れよう」
何でもなかったことにしようと云えば、魏嬰はやっと顔を上げてそっと頷いた。
朝風呂にでも入ってきて気分を変えて来い。そう告げたら、魏嬰は素直に「そうする」とふらり布団から立ち上がって浴室に閉じこもった。
「…………はぁ」
今夜は私が座敷で寝ることにしよう……。もしまた寝ている間にくっ付かれでもしたら、流石の私の神経だってか細くなってしまいそうだ。
どうこうする気はない。それは本音。けれどもやはり好意を寄せている相手との距離が近過ぎるのは心臓にも良くないと思った。