うつせみ:第四部③~⑤『感光膜』③~⑤
③
ベッドのマットレスも薄手の毛布も肌馴染みがないし、そもそも明らかに知らない部屋だ。ここは一体どこだろうかと不安になる。ただ、辛うじて見慣れていたのは枕の横に充電器を挿していた携帯。何かに縋るようロック画面を開いて、俺は「は?」と間抜けな声を出した。
俺が知っている日付よりも、随分と先の日付が表示されていたからだ。
どういうことだ? 試しにニュースアプリを開いてみたら、何だか全然知らない情報ばかりが書いてあって、目が滑る。
何だ? これは変な夢なのか? 夢の中で夢を近くするということはそう珍しいとも云えない現象。今の俺はそういう状況下に居るのだろうかと首を傾げたところで、トントン、と戸をノックする音。
はい、と恐る恐る返事をしながら上体を起こしたら、戸が静かに開いて、黒髪の青年が姿を現した。
「魏嬰」
起きたか? と落ち着いた声はトレイにサンドイッチとマグカップを乗せていた。
取り急ぎ用意されたような折り畳み式の卓袱台にそれを置いた青年は、ベッドサイドに腰を落として俺の顔をじぃっと見詰めてきた。緊張で指先が少し痺れた。
「……ここ、どこだ? アンタは……?」
戸惑いを隠せない俺に、彼は憂い顔をして「私は藍湛だ」と名乗ってきた。
「ここは、私の家」
「どうして……?」
どうして俺は自分の家に居ないんだ? 外泊するだなんて両親に云った記憶はないし、そもそも翌日にはバスツアーで出掛ける予定だった筈だ。
「本当に、何も覚えていないのか?」
「覚えて、いない? 何を?」
問いに問いを重ねたら、藍湛と名乗った青年は俺の携帯の縁をトントンと叩いた。
「自分の記憶の日付と、この日付の違いが判らないか?」
「違いは判るけど、どうしてなのかは判らない」
ついでに自分がここに居ることも。何も判らない。判らないことだらけだと眉を顰めたら、彼は淡い溜息を零して長い、松葉のような睫毛を少しだけ伏せた。
「お前はバスツアーの事故に巻き込まれたんだ」
「バスツアーの、事故?」
「お前のご両親はそれで亡くなった」
「は? ちょっと待てよ」
「身寄りのなくなったお前の面倒を見ることになったのは三日前のことだ」
「三日、も前……?」
どうしよう。全く理解が追い付かない。この藍湛という男は一体何を云っているんだ?
「バスツアーの事故で、君は特殊な記憶喪失になっている」
「特殊、な……?」
「古い記憶はそのままに、これからの新しい記憶が一日しか保てなくなるという、稀な症例だ」
「…………」
淡々と告げられた台詞に言葉を失う。
「記憶、喪失……」
「お前は毎朝緊張した様子で私を見てから、今日と同じことを訊いてきている」
「…………」
何だこれは? 夢にしても随分とファンタジックさが混じり過ぎてやしないか? 非科学的過ぎる。
「記憶が一日しか保てない、って……どういうことだよ……」
「そのままの意味だ。携帯に表示されている日付が全てを物語っている」
お前が知る昨日は実際の昨日ではないのだと緩く首を振られて、俺は眩暈を感じた。
「この日付を信じるなら、俺はもうすぐ夏休みが終わるじゃないか」
「その通りだ」
そして、私も同じだと藍湛。
「お前と私はひと学年違いで、同じ高校に通っている」
私の方が上級になると付け足されても、はぁ……としか云えない。
「親が死んだ、って……」
不意に話を戻したら、藍湛は表情を歪めて小さく頷く。
「俄には信じ難いだろうが……事実だ」
お前が混迷している間にご両親は亡くなったのだと繰り返されたそれは余りにも非現実的で、冗談にしては悪意があり過ぎるものだった。けれども、この目の前の男は、口軽く冗談を口にするような性質ではなさそうだと思ったのは直感。
「……本当に、死んだんだったら……」
「火葬は江家の人たちが済ませてくれた」
「江家の……? 江澄たちのことか?」
お前は江澄と縁があるのか? と、大きく瞬いたら、彼は僅かにだが、と頷いた。
「お前が私の家に身を置くことになったのは江家の人間も納得済みのことだ」
「……江澄から詳しい話を聞きたい」
携帯のロックを外そうとしたら、そっと上に手が被さってきて、俺の行動を制した。
「それは、止した方が良い」
「どうして」
「彼もここ数日の同じ遣り取りに些か辟易している」
私だけでどうにか現状を納得させろと先日云われたのだと藍湛は苦い顔。
「……じゃあ、」
どうして藍湛はその面倒臭い俺を家に置いてくれているんだ?
それこそ納得いかない現状に気を立たせた俺の口調は少しキツくなってしまった。
しかし藍湛はそれに腹を立てることもなく、俺の髪の毛に指を絡ませてきた。
「私とお前は恋人同士だ」
「…………は?」
十二分に間を空けてから、間抜けな声。
「俺にそんな趣味は、」
「但し、条件付きの、だ」
「条件、付き……?」
お前が本心から好きだと思える相手を探し出せるかどうかというゲーム感覚の関係性だと云われて、それは何となく理解出来ないでもなかった。
そういう、駆け引きじみたゲームを持ち掛けるタイプだという自覚は比較的なくもない。
「……その恋人とやらが心配で、藍湛はこんな風に俺の世話をしてくれているってことか?」
「判りやすく云えば、そうなる」
「…………」
学校が同じなら、校内でのフォローもしやすいからと付け足す藍湛の言は確かに理に適っている。
「俺は、毎日『新しい今日』を迎えては『今日』を終えて、また『明日にならない明日』を迎える……と」
「そうだ」
駄目だ、頭がパンクしそうだ。
これは夢だと誰か俺のことを起こしてくれないだろうか。
「魏嬰……」
これは現実だ。受け止めるしかない。辛いだろうけれども、夢ではない。
俺の願いをぶち壊してくる藍湛の顔は悲しげで、そんなの嘘だと怒りたいのに怒れない。
「隔週で金曜日に通院することになっている。その付き添いも私がする」
「授業は」
「私はもう進学先が決まっているし、元々金曜日には授業がない。お前は午後抜けをする感じになるだろう」
「…………」
「取り敢えず朝食を」
卓袱台の上に流れた視線。こんな状況で飯なんか食べる気になれなかったけれど、身体は嫌になるくらい正確な時間を刻んでいるらしく。ぐぅと鳴った腹にいっそ苛立ちを感じながらも、俺はベッドを下りてサンドイッチに齧り付いた。
空調の効いた部屋は快適だったが、ずっと部屋に居るのも飽きる。それに、何だかまるで軟禁されているような気持ちにもなる。
そっと戸を開けて廊下に出る。突き当たりに階段があって、その段差をゆっくりと降りたら、藍湛がローテーブルで何かを広げていた。
「藍湛……」
「魏嬰」
何をしているんだ? と訊くより前に藍湛がしていることは判った。写真を何枚も広げて左右に選り分けていたからだ。
「……それ、藍湛が撮ったの」
「あぁ」
頷く藍湛の手元から、一枚の写真を摘み上げて頭上に翳す。
「ぼやけているじゃないか……」
失敗作か? と写真を元の場所に戻してから、俺は僅かに眉根を寄せた。
「全部ブレてる」
写真初心者なのか? と向かいの椅子を引いて肘をついたら、藍湛は「いや」と一枚一枚、また選別を始めた。
「でも、初心者だってもっと上手く撮れるだろう」
選別された片方の山を手に取って、一枚ずつ捲っていく。
ぼやけた世界はいっそ抽象画にも似ている気がした。
「魏嬰」
「うん……?」
俺の名前を呼んだ藍湛は、自分の隣の椅子から、レトロな格好のカメラをテーブルの上に乗せた。
「これはお前のカメラだ」
「俺の、カメラ……?」
「お前は事故に遭う前、私とよく一緒に写真を撮っていた」
「…………」
「お前が使うのは難しいカメラじゃない。その場で現像されるポラロイドカメラだ」
「ポラロイド、カメラ……」
「私は写真部の部員で、魏嬰は部員でもないのに毎日部室に出入りをしていた」
「何で?」
「その深層心理は私にも判らない。ただ、付き合うとなってから、お前は毎日部室に通って来ていた」
「……へぇ」
テーブルに置かれたポラロイドカメラに手を伸ばして、適当に触ってみる。
これがシャッターかな、と思った場所を押したら、側面から普通の写真よりも小さめのフィルム紙が出てきた。
「これ、一時期流行ったやつだ」
最近は携帯で写真を撮るのがメジャーになっていたから、ポラロイドカメラなんて滅多に見るものじゃなかったなと『覚えている』記憶を探る。
「藍湛は? デジカメか?」
「使わないことはないが、基本はフィルムカメラだ」
「……今時?」
フィルムカメラなんて、多分俺は触ったことがない。
「フィルムカメラ、って、現像するの大変なやつ……」
「大変ではないが、」
少しの手間は必要だなと藍湛。
「恐らく、」
「恐らく……?」
「お前の家にはお前が撮った写真のスクラップブックがある筈だ」
「…………スクラップ、ブック」
「いつも洒落たレイアウトをしてスクラップブックに収めていた」
「……家に、帰りたい」
自分が写真を撮っていたなんて記憶はない。それが事実なら、確かめたいと思った。
「ここ、どこ」
どうすれば俺は自宅に帰れるのかと尋ねれば、藍湛は、それなら一緒に行こうとゆっくり席を立った。
バスに揺られている間の景色は見覚えがなかったが、電車に乗ったらすぐにその景色は見たことのある景色だと判った。
最寄駅で先に電車を降りたのは俺の方。藍湛を一歩後ろに、俺は自宅までの帰路を辿る。
難なく辿り着いた家。鍵と財布は俺が使わせてもらっている部屋の卓袱台に置いてあったから、それだけをポケットに突っ込んできてあった。
慣れた手付きで玄関の戸を開け、室内に入る。中は酷く蒸し暑かった。
自室に踏み込んで、本棚を視線で改めると、見慣れない背表紙が三冊。引き出してみれば、表紙に一枚ずつ、秋、冬、春の景色を映した写真が貼られていた。
無言でそれを捲れば、確かにポラロイドカメラで撮った写真が不規則に、しかしデザインを意識して並んでいた。時折書き込みがある。その字は紛うことなき自分の字。
「……本当、だったのか」
正直半信半疑ではあったが、これは確かに事実なのだと側頭を殴られたような気がした。
「……これ、持って行っても良いか?」
「お前がそうしたければ」
私は構わないと返されて、俺はその辺にあった紙袋にスクラップブックを詰め込んだ。その際、一枚の写真がスクラップブックから落ちたことには俺も藍湛も気付かなかった。
自宅から藍湛の家までの道程は覚えた……と、いっても、明日の俺はもうこの道程を覚えてはいないのだろうけれど。
ポラロイドカメラを受け取り、自分が作ったというスクラップブックを部屋でぼんやり眺めながら、俺は「あぁ、」と思い付く。
『昨日』を覚えていられないなら、その日に一枚写真を撮って、日記をつけていけば良いんじゃないか? と。
「なぁ藍湛、スクラップブックってどこに売ってんの?」
階下まで降りて、また写真の選別をしている藍湛に話し掛ける。
「普段魏嬰が使っていたものなら、学校近くの文具屋に」
「ちょっと買いに行って来る」
「待て、道は、」
「今日の今日だから覚えてる」
大丈夫だと云い切って、俺は財布を片手に藍湛の家を飛び出した。
バスに揺られて、電車に揺られて、学校近くの文具屋まで行けば、確かにさっき回収してきたスクラップブックが二冊残っていた。上からフィルムを貼るタイプのものじゃないから、マジックを使わずボールペンでコメントを直に書き残せる。
出来るだけ細かくその日あったことを記せるよう、俺はスクラップブック二冊と一緒に、マスキングテープとペン先の細い三色ボールペンを購入した。
帰り道はやはり苦を要しはしなかった。ちゃんと俺が藍湛の家まで辿り着くと、藍湛はホッとしたような顔で俺を家の中に招き入れた。
「藍湛」
漸くテーブルの上を片付け終えた藍湛の名前を呼んで、顔を上げさせる。何だ? と疑問を呈される前に切ったポラロイドカメラのシャッター。
「魏嬰……!」
「藍湛のこと、ちゃんと忘れないように」
へら、と笑って見せたら、藍湛は小さな溜息を吐きながらマグカップを片手にキッチンへと向かった。
無色の紙へ徐々に像を結ぶ写真を見詰めながら部屋に戻る。
スクラップブックを開いた一ページ目に早速藍湛の写真を貼って、彼と自分がどういう経緯で同居に至ったのか。どういう関係性を持っているのか等、今の自分が知り得ている情報を書き込んでいく。これを枕元に置いておけば、少なくとも朝の戸惑いは減るだろう。
そうやって、俺は藍湛を隠し撮りしたり、近くの並木道や公園なんかの写真を一、二枚ずつ撮りながら夏休み最後の週末を迎えた。
朝起きると枕元にスクラップブックがあって、首を傾げる。何だろうと思いながら表紙を捲ったら、事故に遭って自分が特殊な記憶喪失になっていること。その事故により両親が亡くなったという自分への残酷なメッセージが書いてあった。
一枚ページを捲ったら、知らない顔の男の写真。しかし周囲には小さな字で細かい書き込みがされていた。
今俺が居るのはこの写真の男、藍湛の家で、俺は交通事故に遭った後に彼の世話になっているらしい。高校のひとつ先輩で、写真部に所属している。俺は彼の恋人らしく、写真部に所属していないのに、放課後は部室に入り浸っているようだ。
藍湛は成績優秀で、夏休みの間に進学先が決まっているとのこと。金曜日は授業がないから、隔週で通院しなければならない俺の付き添いをしてくれることになっていると書いてある。
その後のページを少し捲れば、一ページに二、三日分の日記。その一番新しいページを見て、今日が夏休みの終わり直前だということ、そして通院日だということが記されていた。
携帯の日付とスクラップブックの日付に相違がないことを確認してから、ベッドを降りて部屋を出る。階段を降りれば、厳格そうな親世代の男性と、藍湛に似ているけれどももっと柔和な表情を湛えた青年が俺を見上げて、藍湛に似ている青年の方だけ俺に「おはよう」と云ってくれた。年の離れた男性は藍湛の叔父。青年の方は藍湛の兄だとスクラップブックに記載があった。
「おはようございます」
一応失礼のないように挨拶をして、藍湛のお兄さんに促されるままテーブルにつく。
何となく居心地が悪い……と感じたのと同時に、藍湛がキッチンから出てきて、俺以外の二人に緑茶の入った湯呑みをテーブルに置いた。
「……魏嬰も飲むか?」
藍湛からの問い掛けに、うんと頷く。すると藍湛はまたキッチンへ戻って、すぐに真っ白い湯気の立つ湯呑みを俺の前に置いてくれた。
テキパキとキッチンとダイニングを行き来する藍湛は、テーブルに白米、味噌汁、焼き魚を並べてから、やっと俺の隣に腰を落ち着けた。
揃って「いただきます」をしてから、箸を握る。
きっとこの光景は初めてではないのだろうけれど、初めてのような気持ちで緊張しながら食べた朝食は、味がよく判らなかった。
診察は午前十一時からとのことで、十時前には電車の中に居た。
車窓の向こうに見える景色は途中まで知っているものだった。途中から判らなくなったのは、単純に俺が病院の場所を知らないからだろう。
藍湛の後を着いて向かったのは、名前こそ有名な大学病院だった。
④
ここ数年で新しく建て替えしたばかりの病院の内装はホテルのように綺麗だが、病院特有の空気感はどうやっても拭えるものではないのだろう。
どこからともなく漂う消毒液の匂いがやんわりと全身を包むような気がした。
魏嬰に保険証を受付に出させて代わりにカルテのファイルを受け取らせる。
螺旋階段を登り、二階の隅にある脳神経科のカウンターにそのファイルを提出させれば取り敢えず後は呼ばれるのを待つだけだ。
待ち時間少なく「魏無羨さーん」と声が掛かったのは、診察前に予約制の検査があったから。
私はここで待っている、と待合のソファに腰掛けたまま、魏嬰が立った空席に彼と自分の荷物を置き、如何にも「人待ち」をしている雰囲気を作り出した。
検査にどれくらい時間が掛かるのかは聞きそびれたことを思い出し、本でも持ってくれば良かったなとぼんやり思う。
手慰みに携帯を開いて、ニュースアプリを起ち上げた。
検査の時間は三十分程。
「この後診察があるらしい」
「それまでは待機、ということか」
「そうなるな」
「藍湛は、どうしてそんなに俺に親身になってくれるんだ?」
そんなこと、決まりきっている。私が魏嬰のことを好いているのだし、今は恋人同士という関係性も持ち合わせている。ましてや魏嬰には身寄りもなくなったのだ。親身にならずになどいられない。
「恋人を心配するのは、おかしなことか?」
「あー……まぁ、そうか……」
確かにおかしな話ではないかも知れないと自分の中で腑に落としたのか。魏嬰は鞄の中に入れていた携帯を取り出して、ポチポチと何かを打った。
「江澄。病院どうだったか? ってきてたから、まだ終わってないって返した。あと、ちゃんと藍湛も一緒なのか、って」
別に報告義務などないのに、わざわざ報告してくれるのは私への気遣いなのだろうか。
江晩吟のことは覚えているのに、私のことはやはり覚えていないのだな、とぼんやり思う。
それから他愛ない話で時間を潰し、検査から更に三十分程待ったところで診察室へと呼び出しが掛かった。
これには私も着いて行く。
ライトが内蔵されたホワイトボードには魏嬰の脳と思われる大判のフィルムが二枚。
医者が私のことを訊くより先に、魏嬰が諸事情で代わりに親しい人に付き添ってもらいましたと医者に告げる。
壮年期に差し掛かったぐらいの医者はそうですか、と小さく笑っただけ。それから、
「良くも悪くも脳に変化はありません」
と医者は云い、最近調子はどうかと魏嬰に訊いた。
特に大きな変化はないと返す魏嬰。五分間診療というのが目に見えそうな会話だ。
その様子を一歩引いた視点から見守り、では今日はこれで構いませんよと診察の終わりを告げる医者と、それに諾々と従い丸椅子から腰を上げた魏嬰。
その魏嬰を追うつもりで私も一度腰を上げるが、そうだと魏嬰の背中にちょっと先に行っていてくれないかと柔らかく投げる。
何故? という顔をする魏嬰に、折角だから私も医師に訊いておきたいことがあるんだとその背を追いやった。
魏嬰が診察室を出たのを確認してから再び丸椅子に腰を落とすと、医者は少し怪訝(何ならどこか迷惑そう)な顔をして私を見た。
「魏無羨さんのことに関して何か?」
先手をきってきた医者に、えぇと頷く。
「魏嬰が事故に遭って以来、記憶が一日しか保たないというのは聞いてます。実際それを実感もしています。事故に遭う前の記憶がしっかりあることも……けれども、」
「……けれど?」
「さっき魏嬰が云った通り、私は彼と親しい間柄です。それなら私のことは当然覚えている筈なのに……彼は私のことだけ綺麗に忘れてしまっているんです」
他のことは覚えているのに、自分に関する記憶だけさっぱり抜け落ちてしまっているのだと云ったら、医者は腕を組みふむとひとつ唸った。
「君のことだけ、覚えていない、と?」
「そうです。私と魏嬰は同じ高校の学生で、殆ど毎日顔を合わせていました。私以外の学友のことは覚えているようですし、江家の方々のことも覚えているのに、どうしてか私のことだけを全く覚えていないのです」
確かにぼんやりとどこかに出入りしていたような覚えはあるけれど。何の為にそこに出入りしていたのかはどうしても思い出せないとは魏嬰の言だった。
「これも脳がどうのこうのと云うことなんでしょうか?」
私の問い掛けに医者はゆるりとした瞬きをひとつ。
最初に見せた煩わしさを消したその人はデスクをボールペンの尻でトントンと軽く叩きながら私のことを見詰め直した。
「有り得ない、とは云い切れません。ですが、」
「……が?」
「もしかしたら君のことは心因性の可能性も考えられます」
「心因性……」
「誰か一人だけのことを忘れるというのは脳よりも精神的な面に問題があることの方が多いと云えるでしょう」
何か心当たりはありませんか、と問われ今度は私が唸る番だった。
事故の直前は何もなかった。
本当に、何も。いや、けれども魏嬰にとっては私絡みのことで何か考えることがあったのだろうか。
真意は今のところ誰にも判らない。
「もし必要があれば精神科の介入も観察経過に含みましょう」
物思いに耽ってしまった私の思考を切り裂くように医者が云う。
「魏無羨さんはまだ未成年ですからなるべく保護者に値する方と来て頂きたいとは思いますが、君も何かあればまた付き添いで来て下さい」
この話は今日の時点ではもう終わりだと暗に告げられ、ありがとうございましたと頭を下げる。
待合に出れば、目立つ位置に腰を据えていた魏嬰が、長かったなと訝るように云ってきた。
「医師に会う機会など、私にはそうあることではないからな。少し気になることを訊いてきた」
邪険にされないだけ良さそうな先生だなと微笑すれば、入院中のことは覚えてないからよく判んないけど、と魏嬰からは素っ気ない返事だけが寄越された。
診察は午前だったから、診察待ちより長い会計待ちをしてから近場で昼食を一緒に食べた。
土地こそ違えど、二人で時折訪れたチェーンのファーストフード店。
魏嬰が頼むものは、記憶がなくなる前のそれと同じだった。
「藍湛、食べるの遅いな」
ちまちまと小口でバーガーを食べる私に、魏嬰は揶揄するような口調。「相変わらず」と付け足されなかった言葉が私に寂寥感を覚えさせる。
「いつもこのような感じだ」
「へぇ……。まぁ、あの厳格そうな叔父さんと物腰柔らかい兄さんと一緒に暮らしてきたんなら、外での食べ方も綺麗になるか」
くすくすと笑って、魏嬰は紙コップに刺さったストローを咥えた。
「あ、そうだ。江澄に結果送らないと」
私が食べ終えるまでもう少し時間が掛かりそうだと踏んだのか、魏嬰は携帯を取り出してディスプレイに指を滑らせた。
⑤
二学期が始まり、何か困ることが出てくるだろうかと思ったが、級友や教師のことは覚えていたし、勉強の方もちゃんとノートを取っていればさして困ることはなかった。
ただ、前日話したことなんかは覚えていられなかったから、重要そうなキーワードだけをスクラップブック兼日記帳に書き留めることにはしていたけれど。
担任及び、学年の教員たちには江おじさんから俺の現状がどうなっているかを伝えてもらってある。だから不便はより少なく済んだんだと思う。
毎朝戸惑いながら藍湛と対面するが、学校に一緒に行くとなれば帰りも一緒の方が良い気がして(いや、そもそも合鍵を貰っていない。頼めば持たせてもらえるかも知れないが、他人の家に自分だけ先に帰るのもどうかと思った)俺はスクラップブックのメモに書かれていたよう、放課後は写真部の部室に入り浸った。
不思議なことは、藍湛のことをまったく覚えていないのに、他の部員のことはちゃんと覚えていたことだ。まぁ、ある意味では不幸中の幸いだったも知れない。
藍湛が使っているカメラは基本的にフィルムカメラ。デジカメが普及している中、暗室を使わなければ現像出来ない写真を撮る人間は珍しい。
藍湛の撮る写真はいつだってブレている。でも本人はそれで良いと思っているらしい。ブレている中でも、彼の中では善し悪しがあるらしく、現像された写真はいつだってふたつの束に分けられていた。
「なぁ、藍湛。ブレた写真ばっか撮ってて楽しいのか?」
「あぁ」
「ピントが合う写真は撮れないのか?」
「デジタルカメラならブレない」
「何それ」
変なの、と笑っても、藍湛は別に怒りはしなかった。怒らない代わりに、藍湛は一枚の写真を俺の眼下に滑らせてきた。
「お前の姿だけはブレずに撮れる」
滑ってきた写真は確かに全景はブレているのに、その端っこに写る俺にだけピントが合っている写真だった。
「俺だけハッキリ写せるだなんて、まるで運命の人みたいだな」
肩を揺らしたら、藍湛は何かを憂うように睫毛を少しだけ伏せただけだった。
何だよ、何か云いたいことがあるなら云えば良いのに。
僅かに不満が込み上げたが、ここは余り追及してはいけないことのようにも思えて、俺は言葉を続けることはしなかった。
下校時間になるまで部室で時間を潰し、藍湛と一緒に帰る。
毎日のことなのだろうに、毎日が新鮮だった。
夏休みの通院は午前だったけれども、二学期が始まってからは午後の診察になった。
隔週、午前中だけ授業を受けて、昼休みに下校する。
その隣には藍湛の姿。
藍湛と一緒に病院へ行って、彼の誘導で検査や診察を受ける。
病院が終わってからは、毎回江家にも行くことになった。
診察の報告をする為だ。やはり医者は保護者同然の人間にも俺の現状を知らせておきたいようだったし、江おじさんも気に掛けてくれていたから、その指示には素直に従った。
十月半ばの通院日。
機械で頭部のスキャンをされてから暫く待つ。
時計の長針が四分の三回ったところで診察の順番が回ってきた。
「脳に関しては良くも悪くも変化はありません」
医者の言葉に、日記帳を読んでいた俺はあからさまに気落ちした。
「あぁ、時に魏無羨さん。何か思い出せないことはありませんか?」
「思い出せないこと……? 先生もご存知の通り、毎日のことですけど……?」
「……そうですか」
呟いて、医者は俺から顔を逸らさず、ちらりと藍湛のことを目線だけで見た。
「魏無羨さん。多少手間かとは思いますが、今後は精神科の介入も視野に入れています。今日この後の予定は?」
「いや、特に……」
そう云ってから藍湛を見る。
藍湛の予定はどうだろう、と。まぁ、どの道江家には行くのだが。
「私も付き添って構いませんか?」
「診察には魏無羨さんお一人が好ましいでしょう」
「だったら、藍湛は先に帰っていても良いぞ? 江家に行く道順は判るし、今日の今日だから藍湛の家にもちゃんと戻れる」
そう提案をしたが、藍湛は自分も特別予定はない。魏嬰が嫌でなければ待っている。
そう云われ、じゃあ、と唇を舐めた俺は、一緒に待っていてくれと藍湛に返した。
初めて受ける精神科の診察というやつに、一人というのは少々心細さもあったからだ。
「ではこれからオーダーを入れておきます。診察は一時間後くらいになると思います」
一度呼ばれたらその場に居なくても戻ってきた時に優先的に診察してもらえると聞いて、俺たちは脳神経外科の診察室を出た。
「どうやって時間を潰そうか」
「院内のカフェで過ごすのはどうだ」
「あぁ、それが良いかも知れない」
藍湛の言葉に頷いて、俺たちは階下のカフェに身を寄せた。
会話も少なくちまちまとコーヒーを啜り、一時間弱時間を潰してから精神科の待ち合いに赴いた。
「けど、俺が何故精神科に……」
微かに憂鬱を孕んだ声音で溜息を零せば、
「脳だけが原因ではないと判断されたのでは?」
所謂カウンセリングみたいなものだろう、と藍湛は僅かに目を細めた。
脳だけが原因ではない……? それはどういうことだろう?
もう二十分程待ち合いで時間を遣り過ごし、漸く順番が回ってきた。
私はここで待っているから、と藍湛は静かな笑みを浮かべ、行ってこいと俺を診察室へ促した。
精神科の医者は比較的若い女性だった。
「脳神経外科の先生からの現状はざっと読ませて頂きました」
「はぁ……」
「魏無羨さんには一部の記憶がないということも」
「一部と云わず、寝て起きたら昨日のことはまったく覚えていないんですけどね」
うんざりとそう云えば、それだけですか? と問われる。
それだけ、とは?
「例えば、覚えている筈の誰かを忘れているとか」
「いや、特に……」
殆ど反射でそう呟いてから、そういえば藍湛のことは覚えていないじゃないかと口を開く。
「一人だけ、思い出せない人がいます」
「その方との関係は?」
「高校の先輩だと」
恋人でもあるらしいということは何となく伏せた。
「何故覚えていないのか、判りますか?」
「それはちょっと、」
理由が判っていたら、そもそも忘れてなんていないのではないだろうか。
「そうですか」
そう云って女医はパソコンに何かを打ち込んだ。
「一過性のもので、特定の人を忘れてしまう症例は多少なりともあります。魏無羨さんの記憶の欠損もそういった類である可能性は大いにあります」
「そういうもの、なんですか……」
「はい。何か、切っ掛けを見付け出せると良いのですが」
「切っ掛けがないということはないと思うんですが」
「その人と過ごす時間をなるべく多く取るようにして下さい」
こういった症例は一時的なものである場合が多くありますから、あまり思い詰めることはせず気を楽にして日々を過ごして下さいね。
そう台詞を纏めた女医は、今日はこのくらいにしておきましょうと話を結んだ。
診察室を出て、藍湛の姿を探す。
隅の座椅子に移動していた藍湛に手を上げる。
「思いの外短かったな」
「どうなのかな。まぁ病院って居心地が良いとこじゃないし。さっさと会計済ませて江家に行こう」
俺の台詞に藍湛は「あぁ」と頷いた。
……どうして藍湛のことだけ覚えていないのか。
女医は気を楽に、と云ったけれども、そう云われてしまうと逆に楽にしていられない気がした。少なくとも今日いっぱいは。
会計を済ませ、消毒液臭い病院を出て大きく伸びをする。
「さて、報告をしに行くかぁ」
ちょっと面倒なんだよな、と苦笑する俺に、藍湛は特別表情を変えることはしなかった。
江家への報告を済ませた後、藍湛はおもむろに「明日カフェに行かないか」と問うてきた。
休日、たまにチェーン店ではないカフェに行くことがあったから、と藍湛は続ける。
これも、記憶を取り戻す為の切っ掛けになるのだろうか。
そう考えた俺はふたつ返事で藍湛の提案を飲んだ。
藍湛が行こうと云ったカフェは俺の家の最寄り駅近くにあった。ロールカーテンが広がるテラス席には見覚えがあった。
何を頼む? と訊かれ、アイスカフェラテと迷わずに答える。
「魏嬰はいつもそれだった」
「……そう、か」
水と個包装のおしぼりを持って来てくれた店員さんに、藍湛はアイスカフェラテと水出しコーヒを注文する。
「飲み物の嗜好も変わらないのになぁ……」
プラスチックのストローを噛んだおれの言葉はきっと藍湛の鼓膜には届かず足元を抜けてテラスの隅に転がっていったに違いない。
店までの道程は判った。
店の内装も覚えている。
店員の顔も覚えていた。
誰かと一緒に来ていたような気もする。
それが恐らく藍湛なのだろうと理屈では判っても、記憶にはない。
どうして? どうして俺は藍湛のことだけを覚えていないんだろう?
精神科の医者には一過性のものだろうと云われた、と記されてはいたけれど、本当にそうなのかという疑問は拭えなかった。
もしも一生思い出せなかったら? その時俺はどうしたら良いんだろう?
俺が思い出せないことそのものよりも。
思い出すことの出来ない俺に藍湛が失望、或いは愛想を尽かしてしまうのではないだろうか?
そう考えたら——思い出せもしていないのに——何だか怖くなった。