Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    absdrac1

    @absdrac1

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 40

    absdrac1

    ☆quiet follow

    青幻+一幻+天谷奴の、青年 VS 一郎。
    青年のラスボス感が足りない。

    絵筆の惑い その白いTシャツとジーンズ姿の若者を再び見た時、青年は無意識にベッドテーブルの上のスケッチブックに触れていた。使い慣れた画材等を撫でるのは、青年が落ち着かない時の癖である。実際、手を動かして何かしらを描きたい気分であった。スケッチに集中することで、自分の深奥に何が在るのかを静観し、粟立つ心を穏やかな状態へと戻せるからだ。
     今、その若者は緊張した面持ちで病室内を此方へ向かって歩いている。そうして青年のベッドの前で止まると、「お早うございます」と、丁寧に頭を下げて挨拶をした。
    「お早うございます、一郎さん。また来てくれたんですね」
     青年はスケッチブックから手を離し、一郎に笑顔を向けた。彼が再び此処へ来ることは想定の範囲である。何せ、天谷奴が絡んでいるのだ。前回彼と会った時に多少牽制しておいたものの、天谷奴に何かを吹き込まれた可能性がある。人柄のよい若者のようだが、潜在的な性質は未知であった。
    「勿論です。大事な奥さんを預かっている身ですから、定期的に報告するのが筋ってものでしょう」
     青年はそれとなく一郎にベッド脇の椅子を勧める。一郎は椅子に座ると、額と首の汗を拭った。
    「今日は曇っていますが、蒸し暑そうですね。そろそろ梅雨明けかな」
     そう言いながら、青年は一郎を注意深く見詰めた。凛々しい顔立ちや頑強そうな体躯は、以前に写生した通りである。萬屋の山田一郎と云えば、中々の人物だとの噂も高い。その外見に見合った精神が肉体にも宿っているのであろう。だが、一郎はまだ若い。若さ故の情熱が、時に賢明な判断を押し殺してしまうことがある。彼を見ているとそう云った或る種の危うさを感じる。
    「そうですね。今年は梅雨入りも曖昧で空梅雨でしたが、もう雨は降りそうにない」
     最初は緊張しているように思えたが、今はリラックスしているように見える。前回訪問時に見受けられた青年に対する遠慮のようなものは感じられない。平然としており、鷹揚とした態度であった。
    「それで、何かあったんですか」
     尋ねながら、青年は自身の指が再びスケッチブックに触れていることに気付く。この若者を前にして、やはり何処か落ち着かなかった。そもそも、一郎を完全に信用している訳ではない。情熱は判断を誤らせる。彼自身の本質とは無関係に――。否、それを含めて彼の本質なのか。ともあれ、不確定なパラメータが多すぎた。
    「この間、奥さんが風邪を引いてしまいまして、大事には至らなかったのですが、仕事を数日間休みました」
    「そうでしたか。妻が昨日の夕方来たときには、そんなことは何も言っていませんでした。見舞いに来なかったのは、てっきり原稿で忙しかったからだと。知らせて下さって有難うございます」
    「奥さんはそうしたことを旦那さんに話さないんですね」
    「まあ、そうですね……」
     青年はスケッチブックの上の鉛筆を指先で撫でた。右手の中指の腹で数往復転がしながら、自分が具体的に何を不愉快に感じているのかを考える。妻が自分の体調不良に就いて青年に隠していたことか、それを他人に指摘されたことか、或いは眼前の若者の存在そのものか。それらの何れもが不快感の要因であるが、それぞれの重みは異なった。前の二者は最後の一者に係っている。認めるのは不本意だが、真実を描くことが自分の絵であると考え直す。
    「僕は健康に関して口煩いので、心配させたくなかったのでしょう。処で、また貴方を描いてもいいですか」
     構いませんと、若者は答える。青年はスケッチブックの新しい頁を開いて描き始めた。平生通りに筆は淀みなく走る。青年は手を動かしながら一郎に問い掛けた。
    「話の続きですが、妻は現在本復しているんですね」
    「奥さんは元気になりました。原稿も通常通り捗るようです」
    「息子には移りませんでしたか」
    「はい、息子さんは大丈夫でした」
    「そうですか。有難うございます」
    「でも……」
     一郎は青年から視線を逸し、躊躇う様子を見せた。或いは、そう云う振りをしているのかも知れない。そう勘繰ることも出来たが、この若者に限ってその可能性は少ないだろうと、青年は続きを促す。
    「でも? 何でしょう」
    「いや、何でもありません」
     若者は会話中に何かを感じ取り、それを此方へ伝えるべきか迷っているように見えた。
    「気になりますので、仰って下さい。遠慮なく」
     其処で青年は自分が間違えたことに気が付いた。一郎が感じており、青年に伝えるのを躊躇していることは違和感の一種であろう。言葉にするのを憚っているか、又は、上手く認識しておらず、言語化出来ないのかも知れない。それは青年と夢野の関係への疑問、或いは期待に違いなかった。具体的には、自身の体調不良を夫に伝えない妻と、妻の体調不良を把握しない夫に対する指摘である。一郎が誠実な人間であることは少し話をしただけでも十分に分かる。青年の弱みを突くのは容易いが、彼はそれをしないのだ。少なくともこの時点までは、彼のそれは正しい認識であった。思考を更に進ませる必要はなかったのである。
    「何と言うか、家族が離れているのは大変だなあ、と」
     鉛筆を動かす手を止めて、青年は一郎の方を見る。若者の意志の強そうな眼差しとぶつかった。
    「俺も昔は弟達と離れがちだったから分かります。何かしてやるべきときに、彼らの側には居ませんでした。今は兄弟三人一緒ですが、手遅れになっていた可能性だってありました」
     だから一郎は、青年が感じるであろう歯痒さを、自分なら理解出来ると言いたいのか。それは同時に、夢野の傍らに居ない青年をなじっているようにも聞こえた。一郎にそうした意図はないのであろうが、彼の言葉は青年が拒絶する事実を明瞭に浮かび上がらせた。青年は黙った儘視線をスケッチブックへと戻し、再び手を動かし始める。
     一方の一郎は飽く迄も穏やかに言葉を継ぐ。
    「実は、萬屋の方で貴方がたの身上を調査しました。依頼でもないのに個人情報を得るのは原則禁止なんですが、奥さんを家で預かる以上仕方ないと思いました。済みません」
     青年は小さく息を吐いて、一郎を見詰めた。この若者が身辺調査をすることは想定内の筈であった。然し今日のこれまでの発言の後では、この事実の情報量は異なった。それ故、これから一郎が言わんとしていることも予想が付く。
    やましいことがある訳でもないし、聞いて下されば何でもお答えしましたよ」
    「本当に済みません。俺には言い難いかと思って」
     そうして如何にも申し訳そうな顔をする。演技には見えなかった。そうした若者の素直さが、青年の焦燥感をより一層煽っていた。
    「それで、貴方の方は実家と縁を切っているようですが、奥さんは頻繁に養父母と連絡を取っている。失礼かと思いましたが、調査の過程で知りました。その、奥さんは両親に会いたいんじゃないですかね」
     これも、想定済みの流れである。
    「……まあ、そうでしょうね」
    「勿論、赤ちゃんを連れての里帰りは大変だ。店が休みのときに、俺が付き添うというのはどうでしょう」
     予想していた提案であった。
     自分は妻へ今まで何をしてやれたのか。彼女を無理やり故郷から連れ出して、大好きな親には会わさず、風邪の看病もせず、育児の負担を全て押し付けている。長引く病気が恨めしい。一郎のように自由の身ではないのだ。一時的に家族がばらばらになっても、駆け付けられる体を持つ一郎とは違う。彼に青年の気持ちが分かる訳がない。然し一郎は分かると言った上で、解法の一つを青年に与えようとしている。彼らしい真直ぐなやり方だと思った。だが、青年からしてみれば、全く受け入れ難いやり口である。
    「妻を預かるだけでも大変でしょうし、其処までして頂くのは心苦しいですね……」
     そう口にしながら、一郎の正論に対しては余りにも拙い反論だと自嘲する。
    「全然大変じゃない。気にしないで下さいよ。奥さんは家事もしてくれるし、寧ろ俺達の方が助かっています」
     青年は言葉に詰まった。妻にとってはまたとない機会であるのに、青年が再び彼女の足枷になろうとしている。この若者はそれを非難しようとせずに、只々彼女のことのみを考え発言している。愚かしいまでの実直さと優しさである。然しながら逆説的に、それが青年への非難となっていた。
    「少し、考えさせて下さい。今は決断出来ない」
    「分かりました。また来ますので、その時に返事を聞かせて下さい」
     一郎は青年のスケッチが終わるのを見計らって帰っていった。
     醜い感情が膨らんでいくのが分かった。息を吐き、スケッチブックに視線を落とす。一郎の姿はまだ描き途中である。心中が乱れており、彼の前では手が止まっていたのだ。もう一度集中して続きを描こうと試みる。彼の実体が側に居なければ、案外それは容易に為せることであった。
     一郎の存在を過少評価していたのは事実である。自分の敵にはならないと高を括り、妻の外泊を許可していた。喫緊に止めさせねばならないが、口実は見つからない。それに、妻は一郎を気に入っているであろう。彼女の望む通りにしてやりたい。
     問題を分析整理した上で、一つ一つの課題と対策を考えていく。余計な感情を寄せず、努めて機械的にこれを熟す。絵を描く時には自身の思考や心情の含ませ方を調節するが、それと同様である。その量を最小に絞るだけである。だが、ゼロにはならない。気付けば苛立ちと焦りの為か、鉛筆で机を叩いている。
     帰省の件は天谷奴に依頼するのはどうだろうか。天谷奴も妻に懸想をしているのかも知れないが、彼自身はそれを認めたくないように見える。一郎よりはましであろう。何を考えているのか分からぬ男であるから、油断は出来まいが――。
     スケッチブックの頁を捲り、そこに描かれている二人の男を見比べる。
    「兎に角、彼は駄目だな」
     青年は呟き、若者の方を塗り潰そうとしたが、思い直して鉛筆を置いた。
    「いや、駄目なのは俺か」
     そうして自分の描いた男の姿を凝然と見詰めた。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ❤❤❤❤❤❤❤❤🌠🌠
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works